苦笑しながら、紗枝もフォークを手にした。誠司さんにまた救われたな、と思いながら。
翌日。いつも通り、美佐子さんの家へ、誠司と一緒に行った。今日は、オーソドックスなものを、ということでパンプキンパイにした。
美佐子さんは、理恵の名前を出さずに、いつも通り紗枝に朗らかに接してくれる。紗枝はそうしてもらいながらも、美佐子さんは理恵とのいきさつを知っているのではないか、と思った。
パイが焼きあがる頃、真央がやってきた。キッチンに近寄ってくる。
「あー、美味しそうな匂い。嘘つきでも、お菓子は焼けるのね」
紗枝は、嘘つき、というのが自分のことだとわかり、言葉の棘が胸に刺さった。
「聞いた?美佐子さん。昨日、紗枝さん、大失敗しちゃったんですって。遅刻しただけでなく、言い訳までしたらしいわ。そういうのって、信用ガタ落ちよね」
「真央ちゃん。そのことなら、私も知ってるわ。誰にでもミスはあるものよ」
美佐子さんが静かに言う。やっぱり知ってて、黙ってくれてたんだ、と紗枝は胸が熱くなった。
「美佐子おばさん、それは甘いでしょう。こんな教室、信用が全てでしょ。それを裏切った罪は重いと思うけど」
紗枝は、何も言い返せなかった。目の前のパイを切り分けるのに、集中した。
誠司は、リビングの奥でパソコンを見ていて、真央の声は届いていないようだった。
ねえ、紗枝さん、と真央は声を潜めて言った。
「私、紗枝さんと誠司ってつりあっていないと思うの。誠司は名門のお医者様の家系でしょ。でも、紗枝さんはコールセンター勤めで、さらにカフェで働いてたって言うじゃない。
一般人にしても低所得の方よね。そういう人がサブリナ会みたいなハイソな集まりでやっていこうっていうの、土台無理があったんじゃないかなあ。なんだかんだ言ってね、家柄って結構大事なのよね」
紗枝は、何も言わず、パイを見つめた。
「うん?今、紗枝さんの家柄がどうだか言ってた?」
ひょこっと誠司がリビングから、キッチンにやって来た。
「あ…そ、そうよ」
真央は誠司が聞いてると思っていなかったのか、少し動揺していた。
「えっと…紗枝さんは、『お菓子の水内』の社長令嬢だけど」
誠司が、何気なく言う。え、と今度は紗枝が驚く番だった。どうして知ってるんだろう。
「『お菓子の水内』って…あの、全国チェーン店の?そこの社長令嬢だっていうの?」
真央は信じられない、という顔をして言った。
素性を知られて驚いた紗枝は、美佐子さんと誠司の顔を同時に見た。
「ごめんなさいね、紗枝さん。あなたがうちへ来てくれるようになってから、ちょっと調べさせてもらったの。やっぱりどんな人か知らないとうちにあげ続けるのは少し抵抗があってね。でも、そしたらあの『お菓子の水内』のお嬢さんだったでしょう。紗枝さんのお菓子には品やセンスがあるけど、きっとそれは育った環境にもよるでしょうね」
「俺もそれを聞いた時は驚いたけど、納得したよ。紗枝さんのお菓子がとんでもなく美味しいのがわかる気がた。…素性を知ってることを言わなかったのは、紗枝さんが自分で言うのを待とうと思ったんだ。きっと話せない、訳があると思って」
紗枝は、美佐子から、そして誠司から、優しく見守られていたことを、改めて知った。
美佐子が言った。
「家柄うんぬんは、別にいいけど、今回みたいにならないように、紗枝さんは、生徒さんとの連絡をもっと密にする必要があるんじゃない。理恵さんからメールが入った時、電話で理恵さんに確認したら、今回のようなことは起こらなかったでしょ」
美佐子に諭されて、紗枝は本当に、そうだな、と思った。電話一本で、未然に防げたことだったのだ。
「はい。今後は、気をつけます」
紗枝は、深く頷いて、言った。
「じゃ、パイを温かい内に食べましょうか」
「今日も美味そうだ」
美佐子も、誠司も嬉しそうな声を出してくれてほっとする。が、真央は、ぎりっと音がしそうなほど、きつい目で紗枝をにらんで言った。
「私は、これで失礼するわ。じゃ」
早足で、リビングを去ってしまった。紗枝は苦いものを感じたが、気持ちを切り替えて焼きたてのパイを食べた。
美佐子さんのレッスンが終わると、紗枝はこの後、何も予定がなかった。しかし、誠司は何かあるかもしれない、と思い、バスで帰ります、と誠司に言った。
「あ、俺の今日の予定、さっきメールが来て、明後日に変更になったんだ。だからこの後は、時間がある。紗枝さん、よかったら少し遠出しないか」
「え。いいんですか」
紗枝の顔が、ぱあっと明るくなった。さっきの真央の厳しい顔が胸の内でわだかまっていたので、何か気分転換できるのは助かる。
それに誠司と出かけるのも久しぶりだ。
「いいよ。俺だって、紗枝さんとデートしたかったんだ」
デートという言葉が甘く聞こえて、紗枝の胸はとくんと、ときめいた。誠司とデート。改めて考えると、くすぐったいような喜びがある。
「どこに行くんですか?」
車の助手席から聞くと、奈良橋英二、という名前を誠司が口にした。聞き覚えがある名前だ。紗枝は言った。
「あ…『にゃんたす大泥棒』の奈良橋さんですか?」
「そう。紗枝さん、よく絵本をリビングで読んでたから。好きでしょ」
「はい、大好きです」
奈良橋英二は、絵本作家で、図書館や本屋にもたくさん作品が並んでいる有名な人だ。紗枝は特に「にゃんたシリーズ」の『にゃんたす大泥棒』が大好きで、ちょっとほっこりしたいとき、お茶を飲みながら眺めるのが至福の時間だった。
「その奈良橋英二の絵本をメインにした美術館があるんだ。今から行こう」
「本当に?嬉しい」
紗枝がずっと行きたいな、と思っていた場所だった。交通のアクセスが悪く、移動に時間がかかりそうだったので、なかなか行けなかったのだ。
紗枝は、誠司と他愛ない話をしながら、二時間ほどのドライブを楽しんだ。
奈良橋英二美術館は、M市の山のふもとにあった。それほど大きくはない、こじんまりとした美術館だ。
入口まで緩いスロープになっていて、脇には花が植えられている。日曜日だからなのか、美術館の外で小学生くらいの男の子たちがはしゃいで騒いでいた。
中に入ると、壁を四角に切り取った窓がたくさんあり、そこからふんだんに陽光がはいるようになっていた。やわらかい日差しに、ほっとくつろげるような空間にしてあるんだ、と紗枝は感心した。
そこまで考えて、はっとした。
「もしかして、誠司さんが設計した美術館なんですか?」
「そう。手前みそだけど、自分の設計した中でも、ここは気に入っている方。奈良橋先生が亡くなる少し前に、先生とたくさん打合せして、こういう作りにしたんだ」
絵本の並ぶ書棚と壁の間も大きくスペースをとってあって、子供たちが、どこでも『にゃんたす』シリーズを読めるようにしてある。子供たちは思い思いの場所に座って絵本をひろげていた。
「すごい…誠司さんのお仕事って本当にすごいですね」
今までも誠司をすごいと思っていたけれど、今日はそれよりさらにすごいと思った。
「そう言われると嬉しいな。ほら、紗枝さんも絵本、見てきたら」
「はい。ありがとうございます」
子供の頃は、大きくなったら『にゃんたシリーズ』を全部揃えるんだ、と思っていたのに忘れてしまっていた。『にゃんたシリーズ』を特別に揃えた書棚があり、紗枝が知らない『にゃんた』もあった。嬉しくて、手にとってページをめくってしまう。
つい没頭して二冊読んでしまった後で、誠司はどうしてるだろうと辺りを見回した。壁際に置かれた椅子に座って居眠りをしていた。
お仕事忙しいから疲れてるんだわ…なのに、私を連れだしてくれて。
翌日。いつも通り、美佐子さんの家へ、誠司と一緒に行った。今日は、オーソドックスなものを、ということでパンプキンパイにした。
美佐子さんは、理恵の名前を出さずに、いつも通り紗枝に朗らかに接してくれる。紗枝はそうしてもらいながらも、美佐子さんは理恵とのいきさつを知っているのではないか、と思った。
パイが焼きあがる頃、真央がやってきた。キッチンに近寄ってくる。
「あー、美味しそうな匂い。嘘つきでも、お菓子は焼けるのね」
紗枝は、嘘つき、というのが自分のことだとわかり、言葉の棘が胸に刺さった。
「聞いた?美佐子さん。昨日、紗枝さん、大失敗しちゃったんですって。遅刻しただけでなく、言い訳までしたらしいわ。そういうのって、信用ガタ落ちよね」
「真央ちゃん。そのことなら、私も知ってるわ。誰にでもミスはあるものよ」
美佐子さんが静かに言う。やっぱり知ってて、黙ってくれてたんだ、と紗枝は胸が熱くなった。
「美佐子おばさん、それは甘いでしょう。こんな教室、信用が全てでしょ。それを裏切った罪は重いと思うけど」
紗枝は、何も言い返せなかった。目の前のパイを切り分けるのに、集中した。
誠司は、リビングの奥でパソコンを見ていて、真央の声は届いていないようだった。
ねえ、紗枝さん、と真央は声を潜めて言った。
「私、紗枝さんと誠司ってつりあっていないと思うの。誠司は名門のお医者様の家系でしょ。でも、紗枝さんはコールセンター勤めで、さらにカフェで働いてたって言うじゃない。
一般人にしても低所得の方よね。そういう人がサブリナ会みたいなハイソな集まりでやっていこうっていうの、土台無理があったんじゃないかなあ。なんだかんだ言ってね、家柄って結構大事なのよね」
紗枝は、何も言わず、パイを見つめた。
「うん?今、紗枝さんの家柄がどうだか言ってた?」
ひょこっと誠司がリビングから、キッチンにやって来た。
「あ…そ、そうよ」
真央は誠司が聞いてると思っていなかったのか、少し動揺していた。
「えっと…紗枝さんは、『お菓子の水内』の社長令嬢だけど」
誠司が、何気なく言う。え、と今度は紗枝が驚く番だった。どうして知ってるんだろう。
「『お菓子の水内』って…あの、全国チェーン店の?そこの社長令嬢だっていうの?」
真央は信じられない、という顔をして言った。
素性を知られて驚いた紗枝は、美佐子さんと誠司の顔を同時に見た。
「ごめんなさいね、紗枝さん。あなたがうちへ来てくれるようになってから、ちょっと調べさせてもらったの。やっぱりどんな人か知らないとうちにあげ続けるのは少し抵抗があってね。でも、そしたらあの『お菓子の水内』のお嬢さんだったでしょう。紗枝さんのお菓子には品やセンスがあるけど、きっとそれは育った環境にもよるでしょうね」
「俺もそれを聞いた時は驚いたけど、納得したよ。紗枝さんのお菓子がとんでもなく美味しいのがわかる気がた。…素性を知ってることを言わなかったのは、紗枝さんが自分で言うのを待とうと思ったんだ。きっと話せない、訳があると思って」
紗枝は、美佐子から、そして誠司から、優しく見守られていたことを、改めて知った。
美佐子が言った。
「家柄うんぬんは、別にいいけど、今回みたいにならないように、紗枝さんは、生徒さんとの連絡をもっと密にする必要があるんじゃない。理恵さんからメールが入った時、電話で理恵さんに確認したら、今回のようなことは起こらなかったでしょ」
美佐子に諭されて、紗枝は本当に、そうだな、と思った。電話一本で、未然に防げたことだったのだ。
「はい。今後は、気をつけます」
紗枝は、深く頷いて、言った。
「じゃ、パイを温かい内に食べましょうか」
「今日も美味そうだ」
美佐子も、誠司も嬉しそうな声を出してくれてほっとする。が、真央は、ぎりっと音がしそうなほど、きつい目で紗枝をにらんで言った。
「私は、これで失礼するわ。じゃ」
早足で、リビングを去ってしまった。紗枝は苦いものを感じたが、気持ちを切り替えて焼きたてのパイを食べた。
美佐子さんのレッスンが終わると、紗枝はこの後、何も予定がなかった。しかし、誠司は何かあるかもしれない、と思い、バスで帰ります、と誠司に言った。
「あ、俺の今日の予定、さっきメールが来て、明後日に変更になったんだ。だからこの後は、時間がある。紗枝さん、よかったら少し遠出しないか」
「え。いいんですか」
紗枝の顔が、ぱあっと明るくなった。さっきの真央の厳しい顔が胸の内でわだかまっていたので、何か気分転換できるのは助かる。
それに誠司と出かけるのも久しぶりだ。
「いいよ。俺だって、紗枝さんとデートしたかったんだ」
デートという言葉が甘く聞こえて、紗枝の胸はとくんと、ときめいた。誠司とデート。改めて考えると、くすぐったいような喜びがある。
「どこに行くんですか?」
車の助手席から聞くと、奈良橋英二、という名前を誠司が口にした。聞き覚えがある名前だ。紗枝は言った。
「あ…『にゃんたす大泥棒』の奈良橋さんですか?」
「そう。紗枝さん、よく絵本をリビングで読んでたから。好きでしょ」
「はい、大好きです」
奈良橋英二は、絵本作家で、図書館や本屋にもたくさん作品が並んでいる有名な人だ。紗枝は特に「にゃんたシリーズ」の『にゃんたす大泥棒』が大好きで、ちょっとほっこりしたいとき、お茶を飲みながら眺めるのが至福の時間だった。
「その奈良橋英二の絵本をメインにした美術館があるんだ。今から行こう」
「本当に?嬉しい」
紗枝がずっと行きたいな、と思っていた場所だった。交通のアクセスが悪く、移動に時間がかかりそうだったので、なかなか行けなかったのだ。
紗枝は、誠司と他愛ない話をしながら、二時間ほどのドライブを楽しんだ。
奈良橋英二美術館は、M市の山のふもとにあった。それほど大きくはない、こじんまりとした美術館だ。
入口まで緩いスロープになっていて、脇には花が植えられている。日曜日だからなのか、美術館の外で小学生くらいの男の子たちがはしゃいで騒いでいた。
中に入ると、壁を四角に切り取った窓がたくさんあり、そこからふんだんに陽光がはいるようになっていた。やわらかい日差しに、ほっとくつろげるような空間にしてあるんだ、と紗枝は感心した。
そこまで考えて、はっとした。
「もしかして、誠司さんが設計した美術館なんですか?」
「そう。手前みそだけど、自分の設計した中でも、ここは気に入っている方。奈良橋先生が亡くなる少し前に、先生とたくさん打合せして、こういう作りにしたんだ」
絵本の並ぶ書棚と壁の間も大きくスペースをとってあって、子供たちが、どこでも『にゃんたす』シリーズを読めるようにしてある。子供たちは思い思いの場所に座って絵本をひろげていた。
「すごい…誠司さんのお仕事って本当にすごいですね」
今までも誠司をすごいと思っていたけれど、今日はそれよりさらにすごいと思った。
「そう言われると嬉しいな。ほら、紗枝さんも絵本、見てきたら」
「はい。ありがとうございます」
子供の頃は、大きくなったら『にゃんたシリーズ』を全部揃えるんだ、と思っていたのに忘れてしまっていた。『にゃんたシリーズ』を特別に揃えた書棚があり、紗枝が知らない『にゃんた』もあった。嬉しくて、手にとってページをめくってしまう。
つい没頭して二冊読んでしまった後で、誠司はどうしてるだろうと辺りを見回した。壁際に置かれた椅子に座って居眠りをしていた。
お仕事忙しいから疲れてるんだわ…なのに、私を連れだしてくれて。



