「店やろうってさ…やっぱ夢にしかすぎないんだよね。語るのは面白かったけど、俺たちそのためにどんだけ頑張らなきゃいけないわけ?途方もない金額だろ。俺、むりなんじゃねえかなって正直、思ってた」
「え…」
あんなに楽しそうに夢を語ってたじゃない。店の間取りとか使うコーヒーとか具体的に決めてたのは、なんだったの?
「やっぱさ、夢は夢なんだよな。紗枝はちょっと世間知らずなところがあるからさ。夢見ちゃったと思うんだけど…俺には、子供のために働いて、家庭を作るほうが、リアルなんだよね」
「私とだって…子供つくって家庭をつくることはできるよね?」
もう無理だとわかっていても、言わずにはいられなかった。
うん、と務はコーヒーを一口、口にした。
「実を言うと、紗枝と結婚するイメージってあんまりしてなかった。紗枝、真面目じゃん。仕事もうちのこともきっちりやるし…すごいなと思うけど…俺は、寛げなかった」
「えっ…」
予想外のとこから飛んできた矢が紗枝の胸に刺さった。
「なんか頑張りすぎっていうか…私すごいのよ、っていつもアピールされてるみたいで、
俺のこと、頼りにもしないし。正直、二人の夢の話でもしないと間がもたないって言うか…苦肉の策だったんだよね」
すうっと血の気が引いたのを紗枝は感じた。務と夢を語るのが、あんなに楽しかったのに。務には重荷だったのだ。そして、仕事も夢のために頑張ろうと思ってやってきた。
それも務には苦痛だったのだ。
今まで、よかれと思ってやってきたことが、すっかりひっくり返されてしまった。
私は務の…お荷物、だったの?
…ぽろり、と涙が流れた。
務は、さすがに紗枝の涙には動揺したようだった。
「…ごめん。紗枝には悪いと思っているけどさ、そういうことだから。もう、会うのはよそう」
ぶわん、と視界がゆがんだ気がした。
この人…多分、悪いとか言ってるけど、本気じゃないんじゃないかな…
きっと私があっさり別れてくれるって踏んでる。
務の気持ちは、もうまなちゃんに向いてしまってるんだ…
ぼろぼろ涙を流すこともできた。でも、それは務の予想通りのような気がして嫌だった。紗枝は、バッグからハンカチを出して、涙をぬぐった。
「わかった…もう会わない。カフェのバイトも辞める」
務は、ほっとした顔をした。それを見ても、悔しかった。でも、カフェでまなと務が一緒にいるところを、見るのは耐えられなかった。明日のシフトで辞表を出そう。
その後、務がいろいろ言っていたけれど、頭には入らなかった。
目の前にコーヒーと並んで、水の入ったコップがある。
紗枝がいるのに、まなに手を出して妊娠させた。明らかに非があるのは務だと思う。
ふつう、こういう時、相手に水をかけたりするのかな…
でも、紗枝にはそんな気力も残っていなかった。
一緒にいて寛げなかった、という務の言葉が、紗枝の胸の内をぐっと締めあげていった。
気が付けば、喫茶店を出て、ふらふらと歩いていた。務の言葉がぐるぐると頭の中で繰り返される。手にしたと思っていたものが何もなかったつらさ。
歩きながら、ぼろぼろと涙があふれていく。涙をふいて、でもやっぱり涙が出たけれど、一人になりたくて家路を急いだ。アパートの部屋に帰ると、電気もつけずにベッドに倒れこんだ。
明け方まで、泣いたりぼんやりしたりして過ごした。
翌日。午後2時頃、さすがにベッドから抜け出した。自分でいれたコーヒーを飲みながら、務と別れる、ということを改めて考えてみた。
務と店をやる日のために、わずかな額だが、毎月貯金をしていた。微々たるものだがダブルワークでもカツカツの生活の紗枝には、捻出するのが大変だった。
紗枝は24歳で、お洒落したり、化粧品を買ったりしたかった。しかし、貯金しようと思うとそれは無理な話だった。実家から持ってきた服に、たまにファストファッションを買い足し、化粧品はプチプラ製品でなんとかごまかしている。
そんな節約生活も、務と店をやるためだった。しかし、その夢が壊れてしまった。
じゃあ、節約を辞めて、少しのんびり過ごす?
そこまで考えて、あ、と気づいた。務にカフェの仕事を辞める、と言ってしまった。
泣き明かして、少し落ち着いた今でも、店で務とまなが一緒にいるところを見るのはやはり嫌だった。
そうか…仕事、探さなきゃいけないんだ。
コールセンターもそうだが、紗枝は、人と接する仕事が好きだ。
飲食の求人は多いので、なんとか仕事はみつかるだろう。
「おまえに何ができる」
ふいに、脳裏に、父の、呪いの言葉が再生された。
普段はあまり考えないようにしているが、心が弱っているとき、必ずこの言葉が紗枝の心の中でよみがえる。
紗枝は、地元の大学を卒業するまで、バイトや就職活動を禁じられていた。その変わり、お茶や茶道、華道、裁縫、と花嫁修行を徹底して仕込まれた。
「いまどき花嫁修行してる子なんて、いないよ」
紗枝は、父にささやかな抵抗を示したが、全くとりあってもらえなかった。
父が、紗枝に花嫁修行を強いるのには、訳があった。
紗枝の姉、花江は、子供のころから成績優秀で、地元の国立大学に入学した。そこで、同級生の彼氏ができ、一緒に就職活動をしたところ、同じ一流商社に就職できることになった。就職して三年目にもなると、姉は彼氏と結婚したい、と言うようになった。
彼氏がカナダに海外赴任になる、というのも結婚したくなったきっかけだったらしい。
姉はの学力だと、東京の大学に行くことだってできた。父がそうさせなかった。大学も就職も、地元で、自分の傍にいてほしい、という明確な気持ちがあった。
なので、彼氏と結婚して、カナダへ行く、というのは、父の予想していた姉の人生とは大幅に違っていたので、大反対した。
もともと強気な姉は、その反対を押し切ってカナダへ行ってしまった。小さな教会で、二人だけの結婚式をした。その時の撮った写真はハガキにして、紗枝のもとに送られてきた。姉は、嬉しそうに微笑んでいて、自分の人生を堂々と生きているのがわかった。
紗枝は、父の言いつけに逆らえず、花嫁修業をしていたが、いつしか自分も姉のように家を出たい、という気持ちが膨らんできていた。
でも、家を出てどうしたらいいのか。どうやって稼げばいいのか、見当もつかない。
習い事にはせっせと通っていたが、どれも人に教えられるほどではない。
友人たちは、すでに就職活動に趣き、なんらかの結果を手にしている。
紗枝は働くのが嫌ではなかった。自分がどれくらい稼げる人間なのか、試してみたい気持ちがあった。
ある日、友人の京香に誘われて、こっそり就職セミナーに行った。大手の文具メーカーで、会社の人と面談することができた。文房具には愛着があったので、滑らかに自分の文房具の思いなども伝えた。
紗枝はその文具メーカーで就職試験と面接を受け、合格した。
天にも昇る気持ちで、意気揚々とその結果を父に報告した。
待っていたのは、平手打ちだった。
「勝手なことをしおって。お前に何が、できる」
「わ、私にだって働くことがぐらい…」
「その考えが甘いんだ。ろくにバイトだってやったことがないだろう。お前は、社会を知らなすぎる。とてもやっていけない」
「そんな。バイトだって、したかったのを、父さんが禁止したんじゃない。でも、私、この文具会社の仕事、とってもやってみたいの。勤務先は東京になるけど、私、頑張ってみる」
「ダメだ。就職して東京行きなんて、ますます許せん。内定は辞退しろ」
「父さん!」
まさか、せっかくもらった内定まで辞退しろと言われるとは思わなかった。
「え…」
あんなに楽しそうに夢を語ってたじゃない。店の間取りとか使うコーヒーとか具体的に決めてたのは、なんだったの?
「やっぱさ、夢は夢なんだよな。紗枝はちょっと世間知らずなところがあるからさ。夢見ちゃったと思うんだけど…俺には、子供のために働いて、家庭を作るほうが、リアルなんだよね」
「私とだって…子供つくって家庭をつくることはできるよね?」
もう無理だとわかっていても、言わずにはいられなかった。
うん、と務はコーヒーを一口、口にした。
「実を言うと、紗枝と結婚するイメージってあんまりしてなかった。紗枝、真面目じゃん。仕事もうちのこともきっちりやるし…すごいなと思うけど…俺は、寛げなかった」
「えっ…」
予想外のとこから飛んできた矢が紗枝の胸に刺さった。
「なんか頑張りすぎっていうか…私すごいのよ、っていつもアピールされてるみたいで、
俺のこと、頼りにもしないし。正直、二人の夢の話でもしないと間がもたないって言うか…苦肉の策だったんだよね」
すうっと血の気が引いたのを紗枝は感じた。務と夢を語るのが、あんなに楽しかったのに。務には重荷だったのだ。そして、仕事も夢のために頑張ろうと思ってやってきた。
それも務には苦痛だったのだ。
今まで、よかれと思ってやってきたことが、すっかりひっくり返されてしまった。
私は務の…お荷物、だったの?
…ぽろり、と涙が流れた。
務は、さすがに紗枝の涙には動揺したようだった。
「…ごめん。紗枝には悪いと思っているけどさ、そういうことだから。もう、会うのはよそう」
ぶわん、と視界がゆがんだ気がした。
この人…多分、悪いとか言ってるけど、本気じゃないんじゃないかな…
きっと私があっさり別れてくれるって踏んでる。
務の気持ちは、もうまなちゃんに向いてしまってるんだ…
ぼろぼろ涙を流すこともできた。でも、それは務の予想通りのような気がして嫌だった。紗枝は、バッグからハンカチを出して、涙をぬぐった。
「わかった…もう会わない。カフェのバイトも辞める」
務は、ほっとした顔をした。それを見ても、悔しかった。でも、カフェでまなと務が一緒にいるところを、見るのは耐えられなかった。明日のシフトで辞表を出そう。
その後、務がいろいろ言っていたけれど、頭には入らなかった。
目の前にコーヒーと並んで、水の入ったコップがある。
紗枝がいるのに、まなに手を出して妊娠させた。明らかに非があるのは務だと思う。
ふつう、こういう時、相手に水をかけたりするのかな…
でも、紗枝にはそんな気力も残っていなかった。
一緒にいて寛げなかった、という務の言葉が、紗枝の胸の内をぐっと締めあげていった。
気が付けば、喫茶店を出て、ふらふらと歩いていた。務の言葉がぐるぐると頭の中で繰り返される。手にしたと思っていたものが何もなかったつらさ。
歩きながら、ぼろぼろと涙があふれていく。涙をふいて、でもやっぱり涙が出たけれど、一人になりたくて家路を急いだ。アパートの部屋に帰ると、電気もつけずにベッドに倒れこんだ。
明け方まで、泣いたりぼんやりしたりして過ごした。
翌日。午後2時頃、さすがにベッドから抜け出した。自分でいれたコーヒーを飲みながら、務と別れる、ということを改めて考えてみた。
務と店をやる日のために、わずかな額だが、毎月貯金をしていた。微々たるものだがダブルワークでもカツカツの生活の紗枝には、捻出するのが大変だった。
紗枝は24歳で、お洒落したり、化粧品を買ったりしたかった。しかし、貯金しようと思うとそれは無理な話だった。実家から持ってきた服に、たまにファストファッションを買い足し、化粧品はプチプラ製品でなんとかごまかしている。
そんな節約生活も、務と店をやるためだった。しかし、その夢が壊れてしまった。
じゃあ、節約を辞めて、少しのんびり過ごす?
そこまで考えて、あ、と気づいた。務にカフェの仕事を辞める、と言ってしまった。
泣き明かして、少し落ち着いた今でも、店で務とまなが一緒にいるところを見るのはやはり嫌だった。
そうか…仕事、探さなきゃいけないんだ。
コールセンターもそうだが、紗枝は、人と接する仕事が好きだ。
飲食の求人は多いので、なんとか仕事はみつかるだろう。
「おまえに何ができる」
ふいに、脳裏に、父の、呪いの言葉が再生された。
普段はあまり考えないようにしているが、心が弱っているとき、必ずこの言葉が紗枝の心の中でよみがえる。
紗枝は、地元の大学を卒業するまで、バイトや就職活動を禁じられていた。その変わり、お茶や茶道、華道、裁縫、と花嫁修行を徹底して仕込まれた。
「いまどき花嫁修行してる子なんて、いないよ」
紗枝は、父にささやかな抵抗を示したが、全くとりあってもらえなかった。
父が、紗枝に花嫁修行を強いるのには、訳があった。
紗枝の姉、花江は、子供のころから成績優秀で、地元の国立大学に入学した。そこで、同級生の彼氏ができ、一緒に就職活動をしたところ、同じ一流商社に就職できることになった。就職して三年目にもなると、姉は彼氏と結婚したい、と言うようになった。
彼氏がカナダに海外赴任になる、というのも結婚したくなったきっかけだったらしい。
姉はの学力だと、東京の大学に行くことだってできた。父がそうさせなかった。大学も就職も、地元で、自分の傍にいてほしい、という明確な気持ちがあった。
なので、彼氏と結婚して、カナダへ行く、というのは、父の予想していた姉の人生とは大幅に違っていたので、大反対した。
もともと強気な姉は、その反対を押し切ってカナダへ行ってしまった。小さな教会で、二人だけの結婚式をした。その時の撮った写真はハガキにして、紗枝のもとに送られてきた。姉は、嬉しそうに微笑んでいて、自分の人生を堂々と生きているのがわかった。
紗枝は、父の言いつけに逆らえず、花嫁修業をしていたが、いつしか自分も姉のように家を出たい、という気持ちが膨らんできていた。
でも、家を出てどうしたらいいのか。どうやって稼げばいいのか、見当もつかない。
習い事にはせっせと通っていたが、どれも人に教えられるほどではない。
友人たちは、すでに就職活動に趣き、なんらかの結果を手にしている。
紗枝は働くのが嫌ではなかった。自分がどれくらい稼げる人間なのか、試してみたい気持ちがあった。
ある日、友人の京香に誘われて、こっそり就職セミナーに行った。大手の文具メーカーで、会社の人と面談することができた。文房具には愛着があったので、滑らかに自分の文房具の思いなども伝えた。
紗枝はその文具メーカーで就職試験と面接を受け、合格した。
天にも昇る気持ちで、意気揚々とその結果を父に報告した。
待っていたのは、平手打ちだった。
「勝手なことをしおって。お前に何が、できる」
「わ、私にだって働くことがぐらい…」
「その考えが甘いんだ。ろくにバイトだってやったことがないだろう。お前は、社会を知らなすぎる。とてもやっていけない」
「そんな。バイトだって、したかったのを、父さんが禁止したんじゃない。でも、私、この文具会社の仕事、とってもやってみたいの。勤務先は東京になるけど、私、頑張ってみる」
「ダメだ。就職して東京行きなんて、ますます許せん。内定は辞退しろ」
「父さん!」
まさか、せっかくもらった内定まで辞退しろと言われるとは思わなかった。



