甘いものには目がなく、採点も厳しい誠司だが、このクッキーの美味さには、驚愕した。これは、手作りお菓子のレベルじゃない。こんなお菓子が毎日食べられたらどんなにいいか。誠司は気が付くと、紗枝にプロポーズしていた。結婚するなら、こんな女の子がいい、というストライクゾーンが紗枝だった。
しかし、失恋したばかりだから、と断られてしまった。だが誠司は、ここでの出会いだけで終わらせたくなくて、彼女に仕事を世話することを考えた。
あれこれ考えたが、やはりお菓子作りの腕前を使って、美佐子さんのところでお菓子教室をやるのが一番だろう。紗枝の腕前なら、サブリナ会の女性たちを十分喜ばせることができるに違いない。
誠司は、紗枝と会う約束をとりつけ、果たしてお菓子教室の手ごたえは上々だった。美佐子さん以外の生徒さんもすぐにできた。急に仕事が忙しくなって紗枝も大変だろうが、そんなことないです、とせっせと教室の準備をしている。
生徒さんたちの紗枝の評判は、なかなかのもので、お菓子だけじゃなく、おしゃべりの聞き役にもなってくれて、紗枝先生に会うのが楽しみ、と言ってもらえているようだった。
誠司は、ますます紗枝のことを気に入った。美佐子さんのお菓子教室の送り迎えをダシにして、紗枝と過ごす時間を心待ちにするようになった。だんだん、紗枝も誠司に警戒しないようになってきて、いろんな話をするようになった。
そんな矢先、紗枝が浮かない顔をしていた。訊けば、アパートの退出宣告を受けたという。誠司は、チャンスだ、と思ったが、やや慎重になった。
自分の家を見せて、おもむろに一緒に暮らさないか、と提案した。驚く紗枝に、やっぱり簡単にOKはもらえないのだ、と瞬時に理解して、契約結婚を申し出た。これなら、紗枝にもメリットがあることを理解してもらえそうだ。
誠司としては、すぐにでも本当の結婚を紗枝としたい。しかし、一度申し込んで断られているので、今回は慎重に、紗枝の気持ちが動く方向に持っていった。
結婚に踏み切れない男女が、お試しで同棲したりする。そんなノリの契約結婚があったっていいだろう。
紗枝は、少し考えて、承諾してくれた。しかも全般的に家事をしてくれると言う。家政婦を雇いたがる女子とばかり見合いしていたので、さらに紗枝の魅力に打ちのめされた。
契約結婚生活が始まると、紗枝は誠司の身体のことを心配し、随分、研究した栄養バランスのいい食事を作ってくれる。しかも、それを楽しそうにやるのだ。キッチンに立つのが好きだから、と。
あまりにも健気な姿にいとおしさを感じた誠司は、紗枝を背後から抱きしめた。紗枝がびっくりしたり、逃げ出すかと思ったが、そうではなかった。
ひょっとしたら、少しずつだが本物の夫婦へ数ミリくらいは近づいているのではないか、と心が踊った。
さらに、誠司の心を震わせたのは、真央の事があった時だった。
休みの日にあちこち料理教室に行って、疲れている紗枝に、ハンドクリームを塗ってやると、紗枝の気がほぐれたのか、真央のことを気にしていたことをぽろっと口にした。
どうやら、真央が誠司に親し気にしてくるのに焼きもちを妬いたようなのだ。
それは、誠司的には、ぐっとくることだった。
俺が思っている以上に、紗枝は俺のことを好きかもしれない…
そう思うと、紗枝の手を引き寄せ、唇を重ねていた。紗枝は驚いていたけれど、身体は逃げていなかった。
誠司は、本当の結婚までの階段を一段登った気がした。
【 紗枝サイド 】
初めてのキスから二週間が経ち、さっき美佐子さんの教室が終わり、紗枝は次の理恵という五十代女性のお宅にお菓子教室をやりに向かっていた。
美佐子さんの教室では、真央がやって来て、紗枝のお菓子作りに参加するかと思いきや、リビングのソファに座り、誠司とずっと話をしていた。時折、笑っては誠司の体に触れたりする。見るたびに、紗枝は気持ちがざわついた。
だが。前のようにはもやもやしなくなっていた。
というのも、この二週間、紗枝は誠司から随分、スキンシップをされるようになっていた。行ってきます、の時に額にキスされたり、キッチンに立っていると、背後から抱きしめられたり。
そして、帰宅して紗枝のお菓子を食べる時に、紗枝が横にいると、自然と、キスをする流れになった。
紗枝は最初は戸惑っていたが、回数を重ねるごとに、キスが甘く感じられた。しかもキスの瞬間を心待ちにしている自分がいて、自分のはしたなさにびっくりした。
誠司は、一日あった事をかいつまんで紗枝に話す。楽しい時間だが、真央の影もちらちらあった。聞かされた瞬間は、気持ちがざわつくのだが、誠司にキスされると気持ちがふわりと浮きたち、真央の事は忘れてしまう。
誠司からは、「好きだ」と、はっきり言われたことはない。だが、誠司のキスを受けていると、誠司の気持ちがまっすぐ紗枝に向かってくるのが分るような気がする。
キスされてるから、愛されてるとか思っちゃダメなんだわ…
だって、これは契約結婚の一貫なのだもの。
そう自分に言い聞かせるのだが、誠司との甘い時間が、紗枝にとって、とても大事な時間になっているのは、確かだ。
誠司さんがどういう気持ちでキスしてるか、分らないけど…私、誠司さんとそうしてるのが嫌じゃない。むしろ好きだわ…
そこまで考えて、恥ずかしくなり、思考はそこで止まる。
誠司の気持ちを聞いてみたい気がするが、的外れな事を言って、
「そんなつもりだったら、もうしないよ」
などと言われたら、どうしよう、と思ってしまう。
今は、そっと二人の時間を真綿でくるんで、大事にしたい…そう紗枝は願っているのだった。
つらつらそんな事を考えていると、紗枝は理恵のお宅へ到着した。理恵は、グラフィックデザイナーとして成功している人だった。彼女の家のキッチンも美佐子さんのキッチンと変わらず広々としていて、綺麗だった。綺麗ですね、と紗枝が褒めると、ハウスキーパーに頼んでいるから、と言われた。サブリナ会のメンバーのほとんどが、家政婦やハウスキーパーを雇っている。
そういう世界、なんだわ…と、紗枝も受け入れ、めったにキッチンに立たない自分より年上の生徒さんに、紗枝は丁寧にお菓子作りを教えている。
紗枝はお菓子教室に高校時代通ったものの、ほとんど独学だ。なので、お菓子作りの工程で、生徒さんがわかりづらいところや、困っているところもよくわかった。
「紗枝さん、教えるの上手ねえ」
と、時折言われたりして、講師冥利につきるな、と紗枝は喜んでいる。
「じゃあ、今度の土曜日の17時頃、こちらに特大ケーキをお持ちすればいいですね」
紗枝は今日のレッスンが終わった理恵にそう言った。
「そうなの。喜びそうなのを、頼むわ」
理恵は、早く結婚したため、もう幼い孫娘がいる。今度の日曜日は、娘家族と孫の誕生日のお祝いをするので、特大のケーキを作ってくるよう、紗枝は頼まれたのだった。
最近は、お菓子の作り方を教えるだけでなく、こんなお菓子を焼いて持ってきてほしい、という依頼も増えてきていた。
紗枝はお菓子を作るのは問題なかったが、値段をつけるのが苦手だった。相場がわからず、材料費に少しプラスアルファをつけて生徒さんに言うと、必ず
「それは安すぎるわ。これくらいで」と紗枝の提示した値段の倍の値段を言われてしまう。こういう時は、ありがたく受け取るように、と誠司に言われていて、恐縮しながらいただいている。
理恵のお宅をお暇し、帰り道、高階デパートの食料品売り場に行った。製菓コーナーが充実しているので、大抵のものはここで揃う。理恵の孫の誕生日用の、ロウソクを買いに来ていた。
しかし、失恋したばかりだから、と断られてしまった。だが誠司は、ここでの出会いだけで終わらせたくなくて、彼女に仕事を世話することを考えた。
あれこれ考えたが、やはりお菓子作りの腕前を使って、美佐子さんのところでお菓子教室をやるのが一番だろう。紗枝の腕前なら、サブリナ会の女性たちを十分喜ばせることができるに違いない。
誠司は、紗枝と会う約束をとりつけ、果たしてお菓子教室の手ごたえは上々だった。美佐子さん以外の生徒さんもすぐにできた。急に仕事が忙しくなって紗枝も大変だろうが、そんなことないです、とせっせと教室の準備をしている。
生徒さんたちの紗枝の評判は、なかなかのもので、お菓子だけじゃなく、おしゃべりの聞き役にもなってくれて、紗枝先生に会うのが楽しみ、と言ってもらえているようだった。
誠司は、ますます紗枝のことを気に入った。美佐子さんのお菓子教室の送り迎えをダシにして、紗枝と過ごす時間を心待ちにするようになった。だんだん、紗枝も誠司に警戒しないようになってきて、いろんな話をするようになった。
そんな矢先、紗枝が浮かない顔をしていた。訊けば、アパートの退出宣告を受けたという。誠司は、チャンスだ、と思ったが、やや慎重になった。
自分の家を見せて、おもむろに一緒に暮らさないか、と提案した。驚く紗枝に、やっぱり簡単にOKはもらえないのだ、と瞬時に理解して、契約結婚を申し出た。これなら、紗枝にもメリットがあることを理解してもらえそうだ。
誠司としては、すぐにでも本当の結婚を紗枝としたい。しかし、一度申し込んで断られているので、今回は慎重に、紗枝の気持ちが動く方向に持っていった。
結婚に踏み切れない男女が、お試しで同棲したりする。そんなノリの契約結婚があったっていいだろう。
紗枝は、少し考えて、承諾してくれた。しかも全般的に家事をしてくれると言う。家政婦を雇いたがる女子とばかり見合いしていたので、さらに紗枝の魅力に打ちのめされた。
契約結婚生活が始まると、紗枝は誠司の身体のことを心配し、随分、研究した栄養バランスのいい食事を作ってくれる。しかも、それを楽しそうにやるのだ。キッチンに立つのが好きだから、と。
あまりにも健気な姿にいとおしさを感じた誠司は、紗枝を背後から抱きしめた。紗枝がびっくりしたり、逃げ出すかと思ったが、そうではなかった。
ひょっとしたら、少しずつだが本物の夫婦へ数ミリくらいは近づいているのではないか、と心が踊った。
さらに、誠司の心を震わせたのは、真央の事があった時だった。
休みの日にあちこち料理教室に行って、疲れている紗枝に、ハンドクリームを塗ってやると、紗枝の気がほぐれたのか、真央のことを気にしていたことをぽろっと口にした。
どうやら、真央が誠司に親し気にしてくるのに焼きもちを妬いたようなのだ。
それは、誠司的には、ぐっとくることだった。
俺が思っている以上に、紗枝は俺のことを好きかもしれない…
そう思うと、紗枝の手を引き寄せ、唇を重ねていた。紗枝は驚いていたけれど、身体は逃げていなかった。
誠司は、本当の結婚までの階段を一段登った気がした。
【 紗枝サイド 】
初めてのキスから二週間が経ち、さっき美佐子さんの教室が終わり、紗枝は次の理恵という五十代女性のお宅にお菓子教室をやりに向かっていた。
美佐子さんの教室では、真央がやって来て、紗枝のお菓子作りに参加するかと思いきや、リビングのソファに座り、誠司とずっと話をしていた。時折、笑っては誠司の体に触れたりする。見るたびに、紗枝は気持ちがざわついた。
だが。前のようにはもやもやしなくなっていた。
というのも、この二週間、紗枝は誠司から随分、スキンシップをされるようになっていた。行ってきます、の時に額にキスされたり、キッチンに立っていると、背後から抱きしめられたり。
そして、帰宅して紗枝のお菓子を食べる時に、紗枝が横にいると、自然と、キスをする流れになった。
紗枝は最初は戸惑っていたが、回数を重ねるごとに、キスが甘く感じられた。しかもキスの瞬間を心待ちにしている自分がいて、自分のはしたなさにびっくりした。
誠司は、一日あった事をかいつまんで紗枝に話す。楽しい時間だが、真央の影もちらちらあった。聞かされた瞬間は、気持ちがざわつくのだが、誠司にキスされると気持ちがふわりと浮きたち、真央の事は忘れてしまう。
誠司からは、「好きだ」と、はっきり言われたことはない。だが、誠司のキスを受けていると、誠司の気持ちがまっすぐ紗枝に向かってくるのが分るような気がする。
キスされてるから、愛されてるとか思っちゃダメなんだわ…
だって、これは契約結婚の一貫なのだもの。
そう自分に言い聞かせるのだが、誠司との甘い時間が、紗枝にとって、とても大事な時間になっているのは、確かだ。
誠司さんがどういう気持ちでキスしてるか、分らないけど…私、誠司さんとそうしてるのが嫌じゃない。むしろ好きだわ…
そこまで考えて、恥ずかしくなり、思考はそこで止まる。
誠司の気持ちを聞いてみたい気がするが、的外れな事を言って、
「そんなつもりだったら、もうしないよ」
などと言われたら、どうしよう、と思ってしまう。
今は、そっと二人の時間を真綿でくるんで、大事にしたい…そう紗枝は願っているのだった。
つらつらそんな事を考えていると、紗枝は理恵のお宅へ到着した。理恵は、グラフィックデザイナーとして成功している人だった。彼女の家のキッチンも美佐子さんのキッチンと変わらず広々としていて、綺麗だった。綺麗ですね、と紗枝が褒めると、ハウスキーパーに頼んでいるから、と言われた。サブリナ会のメンバーのほとんどが、家政婦やハウスキーパーを雇っている。
そういう世界、なんだわ…と、紗枝も受け入れ、めったにキッチンに立たない自分より年上の生徒さんに、紗枝は丁寧にお菓子作りを教えている。
紗枝はお菓子教室に高校時代通ったものの、ほとんど独学だ。なので、お菓子作りの工程で、生徒さんがわかりづらいところや、困っているところもよくわかった。
「紗枝さん、教えるの上手ねえ」
と、時折言われたりして、講師冥利につきるな、と紗枝は喜んでいる。
「じゃあ、今度の土曜日の17時頃、こちらに特大ケーキをお持ちすればいいですね」
紗枝は今日のレッスンが終わった理恵にそう言った。
「そうなの。喜びそうなのを、頼むわ」
理恵は、早く結婚したため、もう幼い孫娘がいる。今度の日曜日は、娘家族と孫の誕生日のお祝いをするので、特大のケーキを作ってくるよう、紗枝は頼まれたのだった。
最近は、お菓子の作り方を教えるだけでなく、こんなお菓子を焼いて持ってきてほしい、という依頼も増えてきていた。
紗枝はお菓子を作るのは問題なかったが、値段をつけるのが苦手だった。相場がわからず、材料費に少しプラスアルファをつけて生徒さんに言うと、必ず
「それは安すぎるわ。これくらいで」と紗枝の提示した値段の倍の値段を言われてしまう。こういう時は、ありがたく受け取るように、と誠司に言われていて、恐縮しながらいただいている。
理恵のお宅をお暇し、帰り道、高階デパートの食料品売り場に行った。製菓コーナーが充実しているので、大抵のものはここで揃う。理恵の孫の誕生日用の、ロウソクを買いに来ていた。



