これでは、そうです、と言ったのと同じだ。恥ずかしい。身を隠してしまいたいけれど、手はしっかり誠司につかまれていて、それもできない。
「そうなんだ、紗枝さんが…」
誠司がすっと紗枝の両手を自分の方に引いた。そのせいで、紗枝の上半身が傾いた。紗枝の顔が誠司の顔の至近距離にある。
「紗枝」
心なしか、誠司の声が甘く響いた。
気が付くと、誠司の唇が、紗枝の唇に重ねられていた。紗枝は、目を見開いて驚きを隠せない。しかも、驚いてはいるのに、誠司を突き飛ばすことができない。魔法にかかったように身体が動かせなかった。
しばらく誠司は紗枝の唇をついばんだ。
そして、そっと身を離した。
「紗枝さんの唇、お菓子みたいに甘い」
ふっと目を細めて、誠司は言った。それから立ち上がり、シャワー浴びてくるよ、と浴室の方へ向かった。
テーブルの椅子に座ったままの紗枝は、顔を真っ赤にして固まっていた。
キ、キスされちゃった…!
頭の中がぼうっとして、芯がとろけそうだ。そんな自分に戸惑うばかりで、紗枝はなかなかその場から離れられなかった。
【 誠司サイド 】
二か月前。
誠司は、某結婚式場のティールームにいた。
さっきから、目の前にいる婚約者は、分厚いお色直し用ドレスカタログのページをひたすらめくっている。
「ああ…どれにしようかしら、悩むわあ」
かれこれ三時間は経っただろうか。お色直し用のドレスがずらりと並んだブライダルサロンの一室でも、彼女は自分が式で着るドレスを選びきれなかった。そこで、係りの人に頼んで、特別仕様のドレスが載っているカタログを見せてもらっている。
これでもない、あれでもない、とため息をつき、時折、誠司にも意見を求める。
「ねえ、これなんかどうかしら」
どれもドレスが同じに見える誠司は、いいんじゃないの、とかそれにしたら、とか適当に答えていた。何しろ、本気で考えて答えても、
「うーん。やっぱ、そっちじゃないのよね」
と、必ず否定するのだ。アドバイスしようという気が削がれるのも無理はない。
それでも、彼女はもう十何回目かの質問を誠司にした。
「うーん。これだと、誠司さんの好みにあってるんじゃないの?」
彼女はいくらか譲歩したつもりなのかもしれないが、随分とどや顔をしている。
「さあ。もともと君は、俺の好みじゃないから、わからないな」
ぼそり、と言ってしまってから、あ、しまった、と思ったが遅かった。
「好み…じゃない」
そのたった一つのワードは、彼女の機嫌を大いに損ねた。
「へえ。ミスコン荒らしの私に向かって、そういう事を言うのね」
確かに彼女は抜きんでた容姿をしていた。凝った化粧、整えられたネイル、つややかな髪の毛。きっと婚約者として連れ歩くには一番うらやましがられるかもしれない。
「いや…俺が好みじゃないというのはさして重要じゃない。こうして出会った縁を大事にしたいんだ。そろそろレストランの予約時間になる。ドレス選びは、また今度にして食事に行かないか」
誠司は、かなり腹をすかしていた。昨日まで、大きな仕事にかかりきりだった。寝たのは朝方で、午後、婚約者から電話がかかってきて、お色直しのドレス選びにつきあってほしいと言われた。誠司は、今夜どうしても行きつけのレストランKOYOIで食事がしたかった。大きな仕事をした後の楽しみなのだ。ドレス選びの後に食事に行けるなら、という事で今日、彼女に会うことをOKしたのだった。
婚約者は言った。
「私のことを好みじゃないって思ってる男と食事なんてしたこと、ないわ」
「まあ、たまには変わり種もいるさ。美味い店なんだ、きっと気に入るよ」
ふーっ、と彼女は息を吐いた。
「信じられない…こんな仕打ちを受けたのは初めてよ。都内に一軒家を持ってるエリート建築士さん。なかなか魅力的だったけど、私が好みじゃない男性とは、結婚できないわ」
誠司は、好みか好みじゃないかがそんなに大きなことかと思った。先に結婚した先輩は、結婚とは忍耐だ、と言っていた。ちょっと外見が好みじゃないくらい、受け入れるのが普通なのではないか。こっちは、さっさと結婚して、恩師である真田さんに妻を紹介したいだけなのだ。
だが、いつも、誠司が不要なことを言ってしまい、見合いをすでに三つほどダメにしている。今回は、なんとか婚約までこぎつけたのだが…。
「誠司さん。短いおつきあいだったわね。私は、私を好みだと言ってくれる人と結婚します。あなたのように、無神経な人と暮らせるとは思えない。婚約は破棄よ。もちろん今日の食事にも行きません」
「わかった。そうしよう。君とは縁がなかったようだ」
「そのようね」
彼女は、カタログをテーブルに置き、サロンから出て行った。
取り残された誠司は、ため息をついた。
「またダメか…おやじさんに早く見せたいのに…」
誠司は、肩を落とした。どんなにビッグプロジェクトの建物でも、図面を引いたり、実際にその現場に行くことで、どんどんアイデアは湧いてくる。こうすればいいんだ、というひらめきが、天啓のようにやってくる。
誠司は、そんな自分の才能を信じて、この十年、がむしゃらに働いてきた。若造が生意気だ、と言う業界人もいたけれど、恩師の真田が「お前は、それでいい。自分を信じて突き進んでいけ」と言ってくれた。
誠司の建築スタイルは、徐々に周囲から認められるものになっていき、去年は、イーストタワーという誰も知る建造物も設計した。
仕事だと何とかなるが…女性が相手だと、うまくいかないものだな。
誠司は気を取り直し、予約してあるレストランKOYOIに行った。
まだ早い時間だったので、客は誠司一人だった。お気に入りのレストランで貸し切り状態。ささやかな癒し。美味い物を食べて気持ちを切り替えよう。
すると、そこにいかにもOL風な若い女性が隣の席に座った。何気に見ていると、ケーキとコーヒーだけを頼んでいる。
なんだ、ここの料理は美味いのに、食べないのだろうか。
急にその彼女のことが気になってきて、それとなく眺めていた。
彼女は、何となく元気がなかった。笑えば可愛いタイプのような気がする。
なんだか、妙に気を引かれる。しかも、今、誠司の座った席の向かいには、カトラリーとナプキンが置いてあり、誰かが食事するのを待っている仕様になっている。
最初は、料理を二人分食べてやろうか、とも思っていたのだが、隣でうつむいている彼女に、KOYOIの美味い料理を食べさせてやりたくなった。
誠司は何かを無駄にするのが嫌いだ。だから、そう言って、思い切って隣の女性に食事をつきあってもらうよう、誘ってみた。
彼女は、最初は戸惑っていたが、タイミングよくお腹がすいていたようで、おそるおそる誠司の前の席に座った。
ぽつぽつと話をすると、どうやら失恋したばかりらしい。だが、相手の男を悪く言ったりしない。品性の高い子だな、と誠司は好感を持った。
しかも働き者で、ダブルワークをしていると言う。誠司は、仕事に前向きな女性が好きだ。女性から仕事の愚痴を聞かされると、こっちのエネルギーを吸い取られるような気がする。
その点、今、目の前で食事をしている紗枝は違った。
コールセンターの仕事にも、カフェのバイトにも、いいいところや達成感を見いだしていて、とても楽しそうに仕事の話をする。一緒にいて楽しい好みのタイプだ。
そして、彼女は、この食事のお礼に、と誠司にラッピングされたクッキーをくれた。甘いものが好きな誠司は、すぐにそれを食べた。
「そうなんだ、紗枝さんが…」
誠司がすっと紗枝の両手を自分の方に引いた。そのせいで、紗枝の上半身が傾いた。紗枝の顔が誠司の顔の至近距離にある。
「紗枝」
心なしか、誠司の声が甘く響いた。
気が付くと、誠司の唇が、紗枝の唇に重ねられていた。紗枝は、目を見開いて驚きを隠せない。しかも、驚いてはいるのに、誠司を突き飛ばすことができない。魔法にかかったように身体が動かせなかった。
しばらく誠司は紗枝の唇をついばんだ。
そして、そっと身を離した。
「紗枝さんの唇、お菓子みたいに甘い」
ふっと目を細めて、誠司は言った。それから立ち上がり、シャワー浴びてくるよ、と浴室の方へ向かった。
テーブルの椅子に座ったままの紗枝は、顔を真っ赤にして固まっていた。
キ、キスされちゃった…!
頭の中がぼうっとして、芯がとろけそうだ。そんな自分に戸惑うばかりで、紗枝はなかなかその場から離れられなかった。
【 誠司サイド 】
二か月前。
誠司は、某結婚式場のティールームにいた。
さっきから、目の前にいる婚約者は、分厚いお色直し用ドレスカタログのページをひたすらめくっている。
「ああ…どれにしようかしら、悩むわあ」
かれこれ三時間は経っただろうか。お色直し用のドレスがずらりと並んだブライダルサロンの一室でも、彼女は自分が式で着るドレスを選びきれなかった。そこで、係りの人に頼んで、特別仕様のドレスが載っているカタログを見せてもらっている。
これでもない、あれでもない、とため息をつき、時折、誠司にも意見を求める。
「ねえ、これなんかどうかしら」
どれもドレスが同じに見える誠司は、いいんじゃないの、とかそれにしたら、とか適当に答えていた。何しろ、本気で考えて答えても、
「うーん。やっぱ、そっちじゃないのよね」
と、必ず否定するのだ。アドバイスしようという気が削がれるのも無理はない。
それでも、彼女はもう十何回目かの質問を誠司にした。
「うーん。これだと、誠司さんの好みにあってるんじゃないの?」
彼女はいくらか譲歩したつもりなのかもしれないが、随分とどや顔をしている。
「さあ。もともと君は、俺の好みじゃないから、わからないな」
ぼそり、と言ってしまってから、あ、しまった、と思ったが遅かった。
「好み…じゃない」
そのたった一つのワードは、彼女の機嫌を大いに損ねた。
「へえ。ミスコン荒らしの私に向かって、そういう事を言うのね」
確かに彼女は抜きんでた容姿をしていた。凝った化粧、整えられたネイル、つややかな髪の毛。きっと婚約者として連れ歩くには一番うらやましがられるかもしれない。
「いや…俺が好みじゃないというのはさして重要じゃない。こうして出会った縁を大事にしたいんだ。そろそろレストランの予約時間になる。ドレス選びは、また今度にして食事に行かないか」
誠司は、かなり腹をすかしていた。昨日まで、大きな仕事にかかりきりだった。寝たのは朝方で、午後、婚約者から電話がかかってきて、お色直しのドレス選びにつきあってほしいと言われた。誠司は、今夜どうしても行きつけのレストランKOYOIで食事がしたかった。大きな仕事をした後の楽しみなのだ。ドレス選びの後に食事に行けるなら、という事で今日、彼女に会うことをOKしたのだった。
婚約者は言った。
「私のことを好みじゃないって思ってる男と食事なんてしたこと、ないわ」
「まあ、たまには変わり種もいるさ。美味い店なんだ、きっと気に入るよ」
ふーっ、と彼女は息を吐いた。
「信じられない…こんな仕打ちを受けたのは初めてよ。都内に一軒家を持ってるエリート建築士さん。なかなか魅力的だったけど、私が好みじゃない男性とは、結婚できないわ」
誠司は、好みか好みじゃないかがそんなに大きなことかと思った。先に結婚した先輩は、結婚とは忍耐だ、と言っていた。ちょっと外見が好みじゃないくらい、受け入れるのが普通なのではないか。こっちは、さっさと結婚して、恩師である真田さんに妻を紹介したいだけなのだ。
だが、いつも、誠司が不要なことを言ってしまい、見合いをすでに三つほどダメにしている。今回は、なんとか婚約までこぎつけたのだが…。
「誠司さん。短いおつきあいだったわね。私は、私を好みだと言ってくれる人と結婚します。あなたのように、無神経な人と暮らせるとは思えない。婚約は破棄よ。もちろん今日の食事にも行きません」
「わかった。そうしよう。君とは縁がなかったようだ」
「そのようね」
彼女は、カタログをテーブルに置き、サロンから出て行った。
取り残された誠司は、ため息をついた。
「またダメか…おやじさんに早く見せたいのに…」
誠司は、肩を落とした。どんなにビッグプロジェクトの建物でも、図面を引いたり、実際にその現場に行くことで、どんどんアイデアは湧いてくる。こうすればいいんだ、というひらめきが、天啓のようにやってくる。
誠司は、そんな自分の才能を信じて、この十年、がむしゃらに働いてきた。若造が生意気だ、と言う業界人もいたけれど、恩師の真田が「お前は、それでいい。自分を信じて突き進んでいけ」と言ってくれた。
誠司の建築スタイルは、徐々に周囲から認められるものになっていき、去年は、イーストタワーという誰も知る建造物も設計した。
仕事だと何とかなるが…女性が相手だと、うまくいかないものだな。
誠司は気を取り直し、予約してあるレストランKOYOIに行った。
まだ早い時間だったので、客は誠司一人だった。お気に入りのレストランで貸し切り状態。ささやかな癒し。美味い物を食べて気持ちを切り替えよう。
すると、そこにいかにもOL風な若い女性が隣の席に座った。何気に見ていると、ケーキとコーヒーだけを頼んでいる。
なんだ、ここの料理は美味いのに、食べないのだろうか。
急にその彼女のことが気になってきて、それとなく眺めていた。
彼女は、何となく元気がなかった。笑えば可愛いタイプのような気がする。
なんだか、妙に気を引かれる。しかも、今、誠司の座った席の向かいには、カトラリーとナプキンが置いてあり、誰かが食事するのを待っている仕様になっている。
最初は、料理を二人分食べてやろうか、とも思っていたのだが、隣でうつむいている彼女に、KOYOIの美味い料理を食べさせてやりたくなった。
誠司は何かを無駄にするのが嫌いだ。だから、そう言って、思い切って隣の女性に食事をつきあってもらうよう、誘ってみた。
彼女は、最初は戸惑っていたが、タイミングよくお腹がすいていたようで、おそるおそる誠司の前の席に座った。
ぽつぽつと話をすると、どうやら失恋したばかりらしい。だが、相手の男を悪く言ったりしない。品性の高い子だな、と誠司は好感を持った。
しかも働き者で、ダブルワークをしていると言う。誠司は、仕事に前向きな女性が好きだ。女性から仕事の愚痴を聞かされると、こっちのエネルギーを吸い取られるような気がする。
その点、今、目の前で食事をしている紗枝は違った。
コールセンターの仕事にも、カフェのバイトにも、いいいところや達成感を見いだしていて、とても楽しそうに仕事の話をする。一緒にいて楽しい好みのタイプだ。
そして、彼女は、この食事のお礼に、と誠司にラッピングされたクッキーをくれた。甘いものが好きな誠司は、すぐにそれを食べた。



