「実は、紗枝さんに先日お会いして、私もお菓子教室に参加させてもらえることになってるんです。今日は、仕事の関係で遅くなってごめんなさい。これ、お詫びです」
真央は、キッチンからリビングに出てきた美佐子さんに立派な花束を渡した。たくさんの百合の花がメインで美しい。
「美佐子さん、百合が好きでしょう。駅前に売ってたから」
「まあ、覚えててくれたの?嬉しいわあ」
美佐子さんは、嬉しそうに花束に顔を近づけ、うっとりした。そして、後で家政婦のみつさんに活けてもらいましょう、と花束をカウンターに置いた。
ちょうどお菓子は焼き上がった。今日は、洋梨のクリームパイだった。美しい焼き色と、梨の甘い香りでキッチンがいっぱいになる。
「素敵。紗枝さんのお菓子の腕前は、本物ね」
真央は、手放しで褒めた。
みつさんの給仕で、もう軽食の用意はできていた。紗枝は、できたてのパイを綺麗に人数分切り分けた。
いつものように、誠司も入った皆で、軽食とパイを楽しむ。
「焼きたての、温かいパイって最高ね」
真央が紗枝に言い、紗枝は頷いた。
「こんなの、店で食べられないだろ。もうやみつきだよ」
誠司が言う。
「はいはいごちそうさま。そうだ、私美佐子さんにお話があって。前言ってた、リフォームの件、どうされますか」
「あっ、そうなの。離れがどうしても古くなってしまっていて。きちんとリフォームして、絵とか飾ってちょっとしたギャラリーみたいにしたいの」
「じゃあ、私に任せてください。離れは、どんなイメージにしますか」
「そうね、落ち着いた感じがいいから、クリーム色の壁とかイメージだわ」
「ドアもしっかりしたのにするといい。重厚感のあるものだと家の格が違ってくる」
誠司も、もちろんアドバイスをする。
「そうね、じゃあ…」
一気に会話が建築関係になってしまった。途中から専門用語が入りみだり、紗枝はついていけなくなった。ちょっとした疎外感があったけれど、仕方がない、と受け入れた。
食事もパイも食べ終えて、紗枝は化粧室に立った。リビングに戻ってくる時に、カウンターに置かれた真央の持ってきていた花束がそのままになっていた。みつは、食べ終わった食器をキッチンに運んだりと忙しくしている。花まで手が回らないのだろう。
ひとしきり、リフォームの話が終わった頃、真央が言った。
「いけない。私、この後約束があるんだった。そろそろお暇します」
「あら、そう?また相談に乗ってちょうだいね。真央ちゃん、頼りにしてるわ」
「もちろんです。あ…紗枝さん、お菓子の作業できなくてごめんなさい。次回は遅れないように来るからよろしくね」
「はい。もちろんです」
そう言いながらも、紗枝は、真央が来たら、また建築関係の話になってしまうんだろうな…と思った。美佐子と誠司と三人だけだった時は、たっぷりお菓子の話ができてたのしかったのに。でも、きっと結婚する、ってこういうことなのだ。いろんなことを受け入れなくちゃいけないんだ。
そう胸の内で呟いた時、あら、と美佐子さんが声をあげた。
「素敵。これ、いつの間に誰が活けたの?」
キッチンカウンターの傍の小さな丸テーブルに、大ぶりの花器に、剣山を使って百合が活けてあった。百合とシダの葉のバランスがいい。
「あの、私が…みつさんが忙しそうだったので、花器と剣山をお借りして…すみません、勝手なことを。でも、お花がしおれそうだったので、つい」
そう紗枝は言った。化粧室の帰り、カウンターにあった百合の花束がとても綺麗なので、活けてみたくなったのだ。リフォームの話には、紗枝は頷くことしかできないので、あまり役に立たない。それならできることをやろうかな…とみつに百合の花を活けさせてもらうよう頼んだのだった。
「すごく上手く活けられてる。紗枝さん、華道をしていたの?」
美佐子さんが言った。
「はい。大学の時に…」
バイトもさせてもらえなかった窮屈な大学生活だった。だが花嫁修業として華道もやっていたのが、こんな時に役に立った。
その時、わずかにちっ、と舌打ちをしたのが聞こえた。
え?今の…真央さん?
「いけない。遅れちゃう。じゃあ、美佐子さん、紗枝さん、またね。今度こそ一緒にお菓子作るから。よろしくね。誠司、笹岡邸の件、また連絡するわ。もっと詰めよう」
「了解」
紗枝は、真央の言葉がちくっと刺さった。話を詰める、というのは二人きりで会うということだろうか。真央にとっても誠司にとっても仕事の話だ。仕方ない。わかっているのに、もやもやしてしまう。
真央はタクシーを呼びつけて帰り、誠司は日曜日にしか会えない施主と会うと言った。紗枝も、この後のお菓子教室の準備をしなくてはいけない。あわただしく、今日の美佐子さんのお菓子教室はおしまいになった。
その夜。会食をして帰ってきた誠司に、紗枝はコーヒーとフィナンシェをテーブルに用意した。ちゃんと300キロカロリー以内にしてある。
「ふう。この時間が、一番落ち着くな」
椅子の背もたれに背をしっかり預けて、誠司は言った。緊張していた顔がほぐれる瞬間だ。向かいの席に座った紗枝は、ほっとしてくれたのが嬉しくなる。
「このお菓子も美味いけど…今日は、紗枝さんが大活躍だったな」
「え?」
「ほら、お菓子だけじゃなく、花も綺麗に活けてみせたじゃないか」
「そんな、お花がしおれそうだったので…大したことはしてません」
「そんなことないさ。美しかったよ。綺麗なものを見ると、建築のデザインが浮かんだりするんだ。俺は、いい奥さんをもらったな」
真央の舌打ちや、真央と誠司が二人きりで会うことなどに、心が乱されていた。
でも、誠司が、こんな風に言ってくれることで、ささくれていた胸の内が、やわらかく潤ってくる。
「誠司さんはいつも…私を喜ばせてくれますね」
少してれくさくて、うつむいて紗枝は言った。
「うん?思ったことを言ってるだけだよ。リップサービスなんかじゃないからね」
紗枝は、にっこりして顔をあげた。
「はい、知っています」
「…紗枝さん、ハンドクリームを持ってる?」
「え?はい」
紗枝は、棚の引き出しからハンドクリームを取ってきた。誠司は、立ち上がり、紗枝のすぐ横の椅子に座った。そして、紗枝の手を取り、ハンドクリームを塗り始めた。
「せ、誠司さん」
そんなことをされるとは全く予想外だったので、紗枝は驚きを隠せなかった。
「静かに。紗枝さんの手は、今日、いっぱい働いただろう。俺は今、お菓子で癒された。紗枝さんも癒されるべきだよ」
誠司は、淡々として、言う。だが紗枝の胸は高鳴りっぱなしだ。頬を赤くしながらも、確かに手をマッサージされていると肩のあたりの凝りがほぐれる。今日は、お菓子教室を3箇所でやった。充実感で忘れてしまうが、身体はそれなりに疲れているのだ。
「なんか…もやもやがすっきりしました。真央さんのこととか…」
「ん?真央のこと?」
紗枝は、マッサージの気持ちよさに、つい本音が出てしまった。
「い、いえ。なんでもないんです」
「そうは見えないな。何?言ってほしいな」
誠司は、顔を近づけて、紗枝の目を覗き込む。そうされると、うやむやにして逃げ切れる気がしなくなってくる。
「真央さんと誠司さんが仲がいいので、ちょっと…」
そこまで言うので、精一杯だった。これ以上言葉にするのは恥ずかしい。
「それって、まさか」
マッサージの手が止まり、誠司は、ぎゅっと紗枝の手をつかんだ。
「俺と、真央のことを妬いたってこと…?」
図星のことを言われて、紗枝は、かああっと赤くなってしまった。
真央は、キッチンからリビングに出てきた美佐子さんに立派な花束を渡した。たくさんの百合の花がメインで美しい。
「美佐子さん、百合が好きでしょう。駅前に売ってたから」
「まあ、覚えててくれたの?嬉しいわあ」
美佐子さんは、嬉しそうに花束に顔を近づけ、うっとりした。そして、後で家政婦のみつさんに活けてもらいましょう、と花束をカウンターに置いた。
ちょうどお菓子は焼き上がった。今日は、洋梨のクリームパイだった。美しい焼き色と、梨の甘い香りでキッチンがいっぱいになる。
「素敵。紗枝さんのお菓子の腕前は、本物ね」
真央は、手放しで褒めた。
みつさんの給仕で、もう軽食の用意はできていた。紗枝は、できたてのパイを綺麗に人数分切り分けた。
いつものように、誠司も入った皆で、軽食とパイを楽しむ。
「焼きたての、温かいパイって最高ね」
真央が紗枝に言い、紗枝は頷いた。
「こんなの、店で食べられないだろ。もうやみつきだよ」
誠司が言う。
「はいはいごちそうさま。そうだ、私美佐子さんにお話があって。前言ってた、リフォームの件、どうされますか」
「あっ、そうなの。離れがどうしても古くなってしまっていて。きちんとリフォームして、絵とか飾ってちょっとしたギャラリーみたいにしたいの」
「じゃあ、私に任せてください。離れは、どんなイメージにしますか」
「そうね、落ち着いた感じがいいから、クリーム色の壁とかイメージだわ」
「ドアもしっかりしたのにするといい。重厚感のあるものだと家の格が違ってくる」
誠司も、もちろんアドバイスをする。
「そうね、じゃあ…」
一気に会話が建築関係になってしまった。途中から専門用語が入りみだり、紗枝はついていけなくなった。ちょっとした疎外感があったけれど、仕方がない、と受け入れた。
食事もパイも食べ終えて、紗枝は化粧室に立った。リビングに戻ってくる時に、カウンターに置かれた真央の持ってきていた花束がそのままになっていた。みつは、食べ終わった食器をキッチンに運んだりと忙しくしている。花まで手が回らないのだろう。
ひとしきり、リフォームの話が終わった頃、真央が言った。
「いけない。私、この後約束があるんだった。そろそろお暇します」
「あら、そう?また相談に乗ってちょうだいね。真央ちゃん、頼りにしてるわ」
「もちろんです。あ…紗枝さん、お菓子の作業できなくてごめんなさい。次回は遅れないように来るからよろしくね」
「はい。もちろんです」
そう言いながらも、紗枝は、真央が来たら、また建築関係の話になってしまうんだろうな…と思った。美佐子と誠司と三人だけだった時は、たっぷりお菓子の話ができてたのしかったのに。でも、きっと結婚する、ってこういうことなのだ。いろんなことを受け入れなくちゃいけないんだ。
そう胸の内で呟いた時、あら、と美佐子さんが声をあげた。
「素敵。これ、いつの間に誰が活けたの?」
キッチンカウンターの傍の小さな丸テーブルに、大ぶりの花器に、剣山を使って百合が活けてあった。百合とシダの葉のバランスがいい。
「あの、私が…みつさんが忙しそうだったので、花器と剣山をお借りして…すみません、勝手なことを。でも、お花がしおれそうだったので、つい」
そう紗枝は言った。化粧室の帰り、カウンターにあった百合の花束がとても綺麗なので、活けてみたくなったのだ。リフォームの話には、紗枝は頷くことしかできないので、あまり役に立たない。それならできることをやろうかな…とみつに百合の花を活けさせてもらうよう頼んだのだった。
「すごく上手く活けられてる。紗枝さん、華道をしていたの?」
美佐子さんが言った。
「はい。大学の時に…」
バイトもさせてもらえなかった窮屈な大学生活だった。だが花嫁修業として華道もやっていたのが、こんな時に役に立った。
その時、わずかにちっ、と舌打ちをしたのが聞こえた。
え?今の…真央さん?
「いけない。遅れちゃう。じゃあ、美佐子さん、紗枝さん、またね。今度こそ一緒にお菓子作るから。よろしくね。誠司、笹岡邸の件、また連絡するわ。もっと詰めよう」
「了解」
紗枝は、真央の言葉がちくっと刺さった。話を詰める、というのは二人きりで会うということだろうか。真央にとっても誠司にとっても仕事の話だ。仕方ない。わかっているのに、もやもやしてしまう。
真央はタクシーを呼びつけて帰り、誠司は日曜日にしか会えない施主と会うと言った。紗枝も、この後のお菓子教室の準備をしなくてはいけない。あわただしく、今日の美佐子さんのお菓子教室はおしまいになった。
その夜。会食をして帰ってきた誠司に、紗枝はコーヒーとフィナンシェをテーブルに用意した。ちゃんと300キロカロリー以内にしてある。
「ふう。この時間が、一番落ち着くな」
椅子の背もたれに背をしっかり預けて、誠司は言った。緊張していた顔がほぐれる瞬間だ。向かいの席に座った紗枝は、ほっとしてくれたのが嬉しくなる。
「このお菓子も美味いけど…今日は、紗枝さんが大活躍だったな」
「え?」
「ほら、お菓子だけじゃなく、花も綺麗に活けてみせたじゃないか」
「そんな、お花がしおれそうだったので…大したことはしてません」
「そんなことないさ。美しかったよ。綺麗なものを見ると、建築のデザインが浮かんだりするんだ。俺は、いい奥さんをもらったな」
真央の舌打ちや、真央と誠司が二人きりで会うことなどに、心が乱されていた。
でも、誠司が、こんな風に言ってくれることで、ささくれていた胸の内が、やわらかく潤ってくる。
「誠司さんはいつも…私を喜ばせてくれますね」
少してれくさくて、うつむいて紗枝は言った。
「うん?思ったことを言ってるだけだよ。リップサービスなんかじゃないからね」
紗枝は、にっこりして顔をあげた。
「はい、知っています」
「…紗枝さん、ハンドクリームを持ってる?」
「え?はい」
紗枝は、棚の引き出しからハンドクリームを取ってきた。誠司は、立ち上がり、紗枝のすぐ横の椅子に座った。そして、紗枝の手を取り、ハンドクリームを塗り始めた。
「せ、誠司さん」
そんなことをされるとは全く予想外だったので、紗枝は驚きを隠せなかった。
「静かに。紗枝さんの手は、今日、いっぱい働いただろう。俺は今、お菓子で癒された。紗枝さんも癒されるべきだよ」
誠司は、淡々として、言う。だが紗枝の胸は高鳴りっぱなしだ。頬を赤くしながらも、確かに手をマッサージされていると肩のあたりの凝りがほぐれる。今日は、お菓子教室を3箇所でやった。充実感で忘れてしまうが、身体はそれなりに疲れているのだ。
「なんか…もやもやがすっきりしました。真央さんのこととか…」
「ん?真央のこと?」
紗枝は、マッサージの気持ちよさに、つい本音が出てしまった。
「い、いえ。なんでもないんです」
「そうは見えないな。何?言ってほしいな」
誠司は、顔を近づけて、紗枝の目を覗き込む。そうされると、うやむやにして逃げ切れる気がしなくなってくる。
「真央さんと誠司さんが仲がいいので、ちょっと…」
そこまで言うので、精一杯だった。これ以上言葉にするのは恥ずかしい。
「それって、まさか」
マッサージの手が止まり、誠司は、ぎゅっと紗枝の手をつかんだ。
「俺と、真央のことを妬いたってこと…?」
図星のことを言われて、紗枝は、かああっと赤くなってしまった。



