エリート建築士はスイーツ妻を溺愛する

 頬を赤らめて目を見開く紗枝に、誠司はくすりと笑って玄関へ行ってしまった。
 紗枝は、誠司を見送るのも忘れて、床にへたりこんだ。
「契約結婚ってスキンシップもありなの…?!」
 紗枝のドキドキは、なかなか治まらなかった。

 夕方。早く帰ってくる、と言っていた誠司のために、紗枝は夕食作りをしていた。めったに夕食を一緒に食べることはできないので、栄養バランスのいい、でもちょっと贅沢なものを作ることにした。ほぼ下準備が終わり、ほっと一息ついたところで、玄関のインターフォンが鳴った。玄関のカメラに映っている人物を見ると、女性のようだ。
 誰だろうと思いながら、紗枝はドアを開けた。
 目の前に立った女性は、ショートカットで、タイトスカートのスーツを着た女性だった。大ぶりのイヤリングがよく似合っている。モデルのような美人だ。年は三十歳くらいに見えた。
「ハウスキーパーさんかしら。誠司はいる?」
 エプロンをしていた紗枝は、家政婦さんと思われてしまったようだ。Tシャツにデニムという恰好をしていた紗枝は、たちまち恥ずかしくなった。
「いえ、誠司さんは、まだ会社です。もう少ししたら帰ってこられます」
「そうなの。悪いけど、中で待たせてもらえないかしら」
 紗枝の判断で、家にあがらせていいものか、躊躇していると、女性は言った。
「あ、私、誠司の幼馴染なの。海外赴任から帰ってきたばかりだから、誠司に会っておきたかったのよね。基本的には、この家では顔パスなんだけど」
 幼馴染さんか…女性だし、大丈夫だろう。
「どうぞ。お入りください」
「ありがとう」
 女性は、ヒールの高いパンプスを脱ぎ、客用スリッパに足を入れた。
 勝手知ったる、という様子で、紗枝よりも先にリビングに入っていく。女性は、当然のように、ソファに座った。
 とにかくお客様なのだから、お茶でも入れよう、と紗枝はティーセットを出して準備を始めた。
「ねえ」
 ソファから、女性が、紗枝に声をかける。
「誠司、お見合い、いくつもしてたらしいけど、進展、あった?」
「えっと…お見合いは、ほとんどダメになったとか…」
 ぷっ、と女性は吹き出した。
「誠司らしい~。あいつってそういうとこあるのよね。女性に不器用っていうか。顔はイケメンなのに、バランス悪いわよね。ふうん、じゃ、今、誠司はフリーなんだ」
 あ、と紗枝は、身構えてしまった。ここで自分が妻だと言わないと、変なふうになってしまう。
「あの、実は」
 その時、玄関ドアの開く音がした。
「紗枝。ただいま」
 誠司が、リビングに入ってくる。
「あれ、真央…」
 女性をそう呼んだ誠司に、女性は、いきなり誠司に抱きついた。
「誠司!久しぶり!元気だった?」
「あ、ああ…真央は帰ってきてたんだな」
 真央さんという彼女は、ぱっと身体を離した。
「そうよ。海外なんて、大したことないわね。こっちに帰ってきた方が私にはあってるわ。誠司だっているし」
「じゃあ、この間、言ってたパリのプロジェクトは」
「もちろん成功したわよ。大手を振って帰ってこれたわ。誠司の仕事も順調みたいね」
「ああ何とか…」
 そこまで言って、キッチンから二人を見つめていた紗枝のことを、やっと誠司が気づいてくれた。誠司が、リビングに来るよう、手招きする。紗枝は、ためらいながらも、二人に近づいて行った。
「こちら、水内紗枝さん。結婚して、この家で一緒に暮らしてる」
「は…」
 真央は、口を大きく開けて驚いた顔をした。
「話が違うじゃない。お見合いは全部だめだって」
「だから、見合い結婚じゃないんだ。ちょっとしたことから知り合って…」
「そのなれそめ、聞こうじゃないの。紗枝さん、今作ってるの夕食でしょ。私にも食べさせて」
「なんだお前、図々しいな」
「だって、こんな展開!さっさと帰れないわよ。ね、いいでしょ、紗枝さん」
 真央は、にっこり笑った。
「はい、お口にあえば…」
 確かに、今日はゴージャス目の料理にしているので、真央が食べる分も十分ある。
「じゃ、お願いね。ところで、誠司、天本さんのやってるやつ、もう観に行った?」
「ああ。総合ミュージアムだろ。行ったよ。外壁の色がさすが天本さん、だった」
「そう?私はもっとシックでもいいかと思ったんだけど。それに天井が」
 真央は、どうやら建築に詳しいらしい。専門用語で、誠司と盛り上がっている。紗枝は、幼馴染ってやっぱり距離が近いものなんだな、と思った。子供のころから知ってるんだもんね。それはそうよね。そう思うのに、さっき真央が誠司に抱きついたとき、紗枝は、ちくっと胸が傷んだ。今朝、誠司にバックハグをされたのに、あれはそんなに意味はなかったんだろうか、などと考えてしまう。
 もやもやしながら、食事を完成させ、三人でテーブルについた。話題は建築のことが多かった。聞くところによると、真央はリフォーム専門の建築士なのだそうだ。誠司の建てるものとは規模が違うが、やはり同じ業界、込み入った話を真央は誠司とした。
 食事が終わり、紗枝がデザートのティラミスを分けて配ると、話題が紗枝のことになった。
「へえ、じゃあ、紗枝さんのお菓子がきっかけで、結婚、ってなったんだ」
 真央は、最初の言葉通り紗枝と誠司のなれそめを聞いてきた。
「その…私の住むアパートも老朽化して、退去宣告を言い渡されて。困ってたんです。それがきっかけで、誠司さんが一緒に暮らそうって言ってくれて」
「いいだろう、真央。帰ったらすげえ美味いスイーツが俺を待ってるんだ。仕事帰りのあんな癒し、他にはないな」
「そりゃあ、誠司が甘いものに目がないのは知っているけど。大丈夫なの、深夜にお菓子食べて。単純に太るわよ」
「毎日早朝ジムに行ってるんだ。大丈夫だよ」
 あ。と紗枝は思い、真央に言った。
「あの、ちゃんとカロリー計算してますし…できるだけヘルシーなお菓子を、と心がけています」
 サブリナ会の生徒さんたちも、高齢でさっぱりしたものを好むので、ちょうどよかったのだ。
 真央は、怪訝な顔をして、ふうん、と呟いた。
「お菓子教室かあ、確かにこのティラミス、すごく美味しい。すごい腕、持ってるわね、紗枝さん」
「ありがとうございます。でもまだ課題もいろいろあるんです。研究中です」
「そうなんだ。ねえ、紗枝さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
 真央がにっこり微笑んで言った。

 数日後の日曜日。今日は、美佐子さんのお菓子教室の日だった。誠司は、いつものように車で送ってくれた。今日もみつさんの作る軽食と、紗枝のお菓子を食べていくつもりのようだ。仕事の書類の入った鞄を持ってきているから、仕事をしながら紗枝の教室がおわるのを待つのだろう。
 紗枝は、美佐子さんとお菓子の材料を測りながら、懸念していることがあった。今日の教室に、真央が参加したい、と言っていたのだ。真央は、美佐子さんの遠縁に当たり、子供のころ、美佐子さんの家に預けられることが多かったそうだ。そこで、やはり遊びに来ていた誠司ともよく遊んでいた、そういう幼馴染らしい。
 しかし、美佐子さん宅のお菓子教室が始まる時間には、真央は来なかった。お菓子を作りも終盤にさしかかった。
 真央さん、来ないのだろうか…と思っていたころ。インターフォンが鳴った。
 みつさんが、ぱたぱたと対応する。話し声が聞こえて、紗枝は真央だ、と思った。
 今日は前回のスーツとは違って、赤のボウタイシャツにパンツ、という服装だった。華やかな感じでよく似合っている。
「美佐子さん!お久しぶりです」
「真央ちゃん、来てくれたの。今、お菓子作りの最中なのよ」