「うまくいった決め手は何だ、誠司」
真田は、なれそめが気になって仕方ないらしい。誠司は、にっこり笑って言った。
「彼女は、なんとお菓子作りのエキスパートなんです。お菓子教室をやってるくらいの。こんなお菓子、毎日食べたい、というのが決め手でした」
「ああ、お前は、甘いもんが好きなんだったな。なんだ、そんなことで…全く、心配かけやがって…」
真田は芯から嬉しそうに言葉を詰まらせた。本当に誠司の妻を待ち望んでいたのがよくわかった。
真田は、紗枝を見て微笑んで言った。
「お嬢さん、お名前は?」
「失礼しました。紗枝と申します、旧姓は水内です」
誠司と入籍していなかったが、したように真田に振舞うよう誠司に言われていた。紗枝は、頭を下げた。
「ん、みずうち…」
真田は、ふと何か感じた顔をした。しかし、それは一瞬で、すぐに元の笑顔に戻った。
「紗枝さん。誠司は、仕事ばかりで、女性にうといが、悪いやつじゃない。こいつに気にいられたんなら、きっとあんたは幸せになるよ。保証する」
真田は、建築界の大御所で、誠司は十年前、随分、しごかれたのだと聞いている。しかし、その時の苦労がなかったら、今の俺はいないな、と感慨深げに言っていた。
紗枝は、大御所ながら気さくな真田に懐の深さを感じた。誠司の気さくな感じも、真田ゆずりなのかもしれない。
真田はもう少しで退院できるかもしれないという、いいニュースもあった。
歓談はしばらく続き、そろそろ真田の食事の時間だと気づき、病室を後にすることにした。
「それじゃあ、また」
と誠司が言うと、真田もまたな、と微笑んだ。紗枝も深くお辞儀をした。病室を出ると、長身の女性が立っていた。黒いストレートの髪の毛をたらし、パンツスーツをきりっと着こなしている。目元の涼しいシャープな感じの美人だ。
「社長、お疲れ様です」
女性は、誠司に軽く頭を下げた。
「吉沢。お疲れ。紗枝さん、これ、俺の秘書の吉沢。今日は、吉沢の運転で紗枝さんを送ってもらおうと思って、呼んだんだ」
最初は会社に戻ればいいと思っていた誠司だが、病院からの方が次の会食の場に近いことに気づいたのだと言う。
「奥様、はじめまして吉沢由佳と申します。今後もよろしくお願いします」
吉沢から会釈され、紗枝は慌ててしまった。奥様なんて、まだ慣れない。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
紗枝は、変なところから声が出てしまい、恥ずかしかった。
病院の駐車場で、誠司と別れ、吉沢の運転する車に乗った。
しばらく、車中は無言となった。吉沢が話を振る気配はない。前を見て運転している。紗枝は当たり前のように後部座席に座るよう促され、今、吉沢の後ろ頭を見ている。
小さくて恰好のいい頭だな…っていうか、話題。なにか、話題を、と焦ってしまう。
しかもただ話題を振ってもいけない。自分は社長婦人なのだ。気の利いた話はないものか、頭の中でいろんなことを思いめぐらせる。
「あ、あの誠司さんは、会社ではどんな感じですか」
ありきたりな質問になってしまった。でも、無言で終わるよりはいいだろう。
吉沢は少し間を置いてから、言った。
「そうですね。社長は、厳しいですね」
「えっ、そうなんですか」
てっきり気さくなムードメーカーのような社長かと思っていた。
「はい。億単位で動く仕事をしてますから。社長のチェックを抜けるのに皆必死で食らいついています。私も、社長について三年になりますが、随分鍛えられました」
「そうでしたか…」
美佐子の家でお菓子を嬉しそうに食べる誠司を見てきた紗枝は、誠司がすごい建築家であることを軽く見ていたのかもしれない。
「奥様」
急に呼ばれて、紗枝はどきりとした。はい、と答える。
「奥様はお菓子作りがお上手とのことですね」
「あ、はい」
思わず紗枝は、同じ女性だもの、お菓子談義ができるかも、と心を浮きたたせた。
「それでしたら、夜、社長が召し上がるお菓子は300キロカロリー以内にしてください。社長は、ジムに行けばいいと思っているようですが、毎晩お菓子を食べていたら、身体がおかしくなります。社長に倒れられたら、それこそ億単位の仕事を失いかねません。よろしくお願いします」
びしり、と言われた。紗枝は、ごくりと唾を飲み込んだ。
そうだった。誠司は、ビッグプロジェクトを引っ張っていくようなすごい建築家なのだ。
紗枝は、ついつい誠司の喜びそうなお菓子を作ろうとあれこれ考えていた。でもそれではダメだ。すごい仕事をする人の体調管理をするつもりで、食事を作り、カロリーや栄養を考えた上で、お菓子を食べさせないといけない。
契約結婚という言葉や、広い家に住めることにふわふわしていた自分が恥ずかしくなった。たとえ契約結婚でも、結婚は結婚だ。夫となる人の体調管理をきちんと考えなくてはいけないのだ。自分の甘さをぐっと感じた。
落ち込んだ紗枝は、そのまま話題を振ることもできなかった。吉沢も特に喋ることなく、紗枝を家に送り届けた。
別れ際に、何かあった時のために紗枝の連絡先が知りたい、と言われた。
確かに誠司が緊急の場合、紗枝に連絡することになる。紗枝は、お菓子教室をやるようになって作った名刺を吉沢に渡した。メールアドレスとスマホの電話番号が載っている。
美佐子以外の生徒にも、渡していたものだ。
「ありがとうございます。それでは」
吉沢はそう言って、車に乗り去ってしまった。
「未熟な奥さんと思われたな…挽回しなくちゃ」
紗枝は、自分にそう言い聞かせて玄関ドアを開けた。
「昨日、食べた紅茶のプリンは美味しかったな」
朝、誠司と朝食を食べている時に、誠司が言った。誠司は打ち合わせに残業、会食と、帰宅が遅い。そのため、紗枝は、作ったお菓子を少しだけカットし、誠司のために冷蔵庫に入れてから、休んでいた。毎日お菓子を食べさせるのが契約結婚の条件なので、一日でも欠かすわけにはいかない。
「そうでしたか、よかった」
誠司が紗枝のお菓子にダメ出しすることは、なかったけれど、やはり褒められるのは嬉しい。作った甲斐がある。
「それで、今日の朝食の品数が多いのは何故?美味いけど」
紗枝は、いつもより野菜の小鉢を増やしていたのだ。
「最近、栄養学の本を読んで研究していて…できるだけバランスよく、と思って」
「そんな勉強もしてるのか。お菓子教室のための作業だってあるだろうし、無理してないか」
「とんでもないです。誠司さんに比べたら、ずっとのんびりしてます。キッチンに立つのは歯磨きと一緒で、全然苦じゃないんです。楽しくやってます」
紗枝は微笑んだ。嘘ではなかった。誠司に食べてもらう、となったら、お菓子も料理も何だって楽しい。最初は、栄養バランスなどに頭を使ったが、コツをつかめば、もっとバリエーションが増やせそうだ、と思えるようになってきた。
朝食で使った食器をシンクで洗っていると、す、と誠司が近寄ってきた。なんだろうと振り返るまえに、ふわ、と誠司が紗枝の背中をだきしめた。
「…!」
突然の抱擁に、紗枝は驚いて言葉を発せなかった。
「奥さん。あんまり頑張りすぎないで」
紗枝の頭の上に、誠司が顎を乗せて、言う。
「せ、誠司さんこそ」
紗枝は、そう言い返すので精一杯だった。心臓がばくばく言っている。
「お菓子を作ってるからかな。紗枝さんは甘い香りがする」
紗枝は、ますます顔を赤くした。自分の香りなんてわからない。なんて言えばいいんだろう、とドキドキしていると、誠司が腕をほどいた。
「じゃ、行ってくる。今日は、早めに帰れると思う。続きは夜しよう」
「つづっ…?!」
真田は、なれそめが気になって仕方ないらしい。誠司は、にっこり笑って言った。
「彼女は、なんとお菓子作りのエキスパートなんです。お菓子教室をやってるくらいの。こんなお菓子、毎日食べたい、というのが決め手でした」
「ああ、お前は、甘いもんが好きなんだったな。なんだ、そんなことで…全く、心配かけやがって…」
真田は芯から嬉しそうに言葉を詰まらせた。本当に誠司の妻を待ち望んでいたのがよくわかった。
真田は、紗枝を見て微笑んで言った。
「お嬢さん、お名前は?」
「失礼しました。紗枝と申します、旧姓は水内です」
誠司と入籍していなかったが、したように真田に振舞うよう誠司に言われていた。紗枝は、頭を下げた。
「ん、みずうち…」
真田は、ふと何か感じた顔をした。しかし、それは一瞬で、すぐに元の笑顔に戻った。
「紗枝さん。誠司は、仕事ばかりで、女性にうといが、悪いやつじゃない。こいつに気にいられたんなら、きっとあんたは幸せになるよ。保証する」
真田は、建築界の大御所で、誠司は十年前、随分、しごかれたのだと聞いている。しかし、その時の苦労がなかったら、今の俺はいないな、と感慨深げに言っていた。
紗枝は、大御所ながら気さくな真田に懐の深さを感じた。誠司の気さくな感じも、真田ゆずりなのかもしれない。
真田はもう少しで退院できるかもしれないという、いいニュースもあった。
歓談はしばらく続き、そろそろ真田の食事の時間だと気づき、病室を後にすることにした。
「それじゃあ、また」
と誠司が言うと、真田もまたな、と微笑んだ。紗枝も深くお辞儀をした。病室を出ると、長身の女性が立っていた。黒いストレートの髪の毛をたらし、パンツスーツをきりっと着こなしている。目元の涼しいシャープな感じの美人だ。
「社長、お疲れ様です」
女性は、誠司に軽く頭を下げた。
「吉沢。お疲れ。紗枝さん、これ、俺の秘書の吉沢。今日は、吉沢の運転で紗枝さんを送ってもらおうと思って、呼んだんだ」
最初は会社に戻ればいいと思っていた誠司だが、病院からの方が次の会食の場に近いことに気づいたのだと言う。
「奥様、はじめまして吉沢由佳と申します。今後もよろしくお願いします」
吉沢から会釈され、紗枝は慌ててしまった。奥様なんて、まだ慣れない。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
紗枝は、変なところから声が出てしまい、恥ずかしかった。
病院の駐車場で、誠司と別れ、吉沢の運転する車に乗った。
しばらく、車中は無言となった。吉沢が話を振る気配はない。前を見て運転している。紗枝は当たり前のように後部座席に座るよう促され、今、吉沢の後ろ頭を見ている。
小さくて恰好のいい頭だな…っていうか、話題。なにか、話題を、と焦ってしまう。
しかもただ話題を振ってもいけない。自分は社長婦人なのだ。気の利いた話はないものか、頭の中でいろんなことを思いめぐらせる。
「あ、あの誠司さんは、会社ではどんな感じですか」
ありきたりな質問になってしまった。でも、無言で終わるよりはいいだろう。
吉沢は少し間を置いてから、言った。
「そうですね。社長は、厳しいですね」
「えっ、そうなんですか」
てっきり気さくなムードメーカーのような社長かと思っていた。
「はい。億単位で動く仕事をしてますから。社長のチェックを抜けるのに皆必死で食らいついています。私も、社長について三年になりますが、随分鍛えられました」
「そうでしたか…」
美佐子の家でお菓子を嬉しそうに食べる誠司を見てきた紗枝は、誠司がすごい建築家であることを軽く見ていたのかもしれない。
「奥様」
急に呼ばれて、紗枝はどきりとした。はい、と答える。
「奥様はお菓子作りがお上手とのことですね」
「あ、はい」
思わず紗枝は、同じ女性だもの、お菓子談義ができるかも、と心を浮きたたせた。
「それでしたら、夜、社長が召し上がるお菓子は300キロカロリー以内にしてください。社長は、ジムに行けばいいと思っているようですが、毎晩お菓子を食べていたら、身体がおかしくなります。社長に倒れられたら、それこそ億単位の仕事を失いかねません。よろしくお願いします」
びしり、と言われた。紗枝は、ごくりと唾を飲み込んだ。
そうだった。誠司は、ビッグプロジェクトを引っ張っていくようなすごい建築家なのだ。
紗枝は、ついつい誠司の喜びそうなお菓子を作ろうとあれこれ考えていた。でもそれではダメだ。すごい仕事をする人の体調管理をするつもりで、食事を作り、カロリーや栄養を考えた上で、お菓子を食べさせないといけない。
契約結婚という言葉や、広い家に住めることにふわふわしていた自分が恥ずかしくなった。たとえ契約結婚でも、結婚は結婚だ。夫となる人の体調管理をきちんと考えなくてはいけないのだ。自分の甘さをぐっと感じた。
落ち込んだ紗枝は、そのまま話題を振ることもできなかった。吉沢も特に喋ることなく、紗枝を家に送り届けた。
別れ際に、何かあった時のために紗枝の連絡先が知りたい、と言われた。
確かに誠司が緊急の場合、紗枝に連絡することになる。紗枝は、お菓子教室をやるようになって作った名刺を吉沢に渡した。メールアドレスとスマホの電話番号が載っている。
美佐子以外の生徒にも、渡していたものだ。
「ありがとうございます。それでは」
吉沢はそう言って、車に乗り去ってしまった。
「未熟な奥さんと思われたな…挽回しなくちゃ」
紗枝は、自分にそう言い聞かせて玄関ドアを開けた。
「昨日、食べた紅茶のプリンは美味しかったな」
朝、誠司と朝食を食べている時に、誠司が言った。誠司は打ち合わせに残業、会食と、帰宅が遅い。そのため、紗枝は、作ったお菓子を少しだけカットし、誠司のために冷蔵庫に入れてから、休んでいた。毎日お菓子を食べさせるのが契約結婚の条件なので、一日でも欠かすわけにはいかない。
「そうでしたか、よかった」
誠司が紗枝のお菓子にダメ出しすることは、なかったけれど、やはり褒められるのは嬉しい。作った甲斐がある。
「それで、今日の朝食の品数が多いのは何故?美味いけど」
紗枝は、いつもより野菜の小鉢を増やしていたのだ。
「最近、栄養学の本を読んで研究していて…できるだけバランスよく、と思って」
「そんな勉強もしてるのか。お菓子教室のための作業だってあるだろうし、無理してないか」
「とんでもないです。誠司さんに比べたら、ずっとのんびりしてます。キッチンに立つのは歯磨きと一緒で、全然苦じゃないんです。楽しくやってます」
紗枝は微笑んだ。嘘ではなかった。誠司に食べてもらう、となったら、お菓子も料理も何だって楽しい。最初は、栄養バランスなどに頭を使ったが、コツをつかめば、もっとバリエーションが増やせそうだ、と思えるようになってきた。
朝食で使った食器をシンクで洗っていると、す、と誠司が近寄ってきた。なんだろうと振り返るまえに、ふわ、と誠司が紗枝の背中をだきしめた。
「…!」
突然の抱擁に、紗枝は驚いて言葉を発せなかった。
「奥さん。あんまり頑張りすぎないで」
紗枝の頭の上に、誠司が顎を乗せて、言う。
「せ、誠司さんこそ」
紗枝は、そう言い返すので精一杯だった。心臓がばくばく言っている。
「お菓子を作ってるからかな。紗枝さんは甘い香りがする」
紗枝は、ますます顔を赤くした。自分の香りなんてわからない。なんて言えばいいんだろう、とドキドキしていると、誠司が腕をほどいた。
「じゃ、行ってくる。今日は、早めに帰れると思う。続きは夜しよう」
「つづっ…?!」



