エリート建築士はスイーツ妻を溺愛する

「そう。君に断られて、考え方が変わった。お互いにメリットがあれば、契約結婚でも、楽しくやれるんじゃないかな。俺は、真田さんにも嫁として紗枝さんを紹介できて、大助かりだ。それに、紗枝さんのお菓子が食べられるし言うことなしなんだ」
 佐々木は、改めて紗枝を見つめて言った。
「そして、紗枝さんには、住む場所を提供してあげられる」
 紗枝は、改めて考えた。佐々木のことは、初めて逢った時よりも、ずっと信頼できるようになっていた。そつのない送り迎えや、紗枝を喜ばせることをいつも考えてくれる。
 そして、この広々としたキッチンで、お菓子を焼く、というのは紗枝にとってかなり大きな魅力だった。
現実問題として、住むところができるのもとてもありがたい。どうあがいても、この一軒屋以上の物件に住めることはないだろう。
 でも…。
「契約結婚って佐々木さんの奥さんのフリをするってことでしょうか?」
 契約結婚しよう、と言われても具体的にどうすればいいかわからない。
「そう思ってくれてかまわないよ。ここに出入りするような会社の人間には君をきちんと紹介する。夫婦で呼ばれるパーティなんかも出席をしてもらえると助かる」
「会社勤めをしたことがない私に、できるでしょうか…」
「サブリナ会のホームパーティで君の言動を見ていた。君の振舞いはとてもよかった。控えめだけど、話を合わせるのもうまい。きっと妻のフリもうまくやれると思う」
 佐々木があのホームパーティでそんな事を考えていたなんて知らなかった。
 少しずつ、佐々木とこの家に暮らすことに気持ちが傾いていく。
「ええと…家賃なんかはどうしたらいいんでしょう?」
 佐々木は笑みを浮かべた。
「俺にお菓子を焼いてくれたらそれでいいよ。経済的援助もするつもりだ」
「そんな!こんなに立派なおうちに住まわせてもらうのに、それはいけません」
「紗枝さん。俺は、君がいつか独立してパティスリーを経営できるとふんでいる。そのために資金を貯めたらいい。この契約結婚は、君の未来のために決して悪いもんじゃないと思うんだが…どうだろう?」
 自分の店を持つ。務と見ていた夢。お金を貯めて自分で店を持つという一度は見た夢を、もう一度、見ることができるんだ。
 お菓子教室を始める時も、思い切って飛び込んだ。佐々木が背中を押してくれたからだ。そんな佐々木がさらに紗枝の未来を考えた上で契約結婚をしようと言う。
 佐々木の助けにもなり、自分の夢へのステップにもなる。
 紗枝は、気を引き締めて言った。
「じゃあ…家事を全般的に私にやらせてください。家賃を払わず何もしないなんて、できません」
「それは助かるけど…それじゃ、契約結婚を承諾してくれる?」
「はい。うまくできるか、やってみないとわかりませんが。よろしくお願いします」
 佐々木の顔がぱあっと明るくなった。
「よかった。紗枝さんとなら、いい生活ができそうだ。でも、何もかも自分でやろうとしないで、助けがいるときは、きちんと言ってほしい。そのための共同生活なんだから」
「はい。ありがとうございます」
「では、改めてこの家を案内しよう」
 大きな窓からは、午後の光があふれていた。

 土日は、お菓子教室があるので、紗枝はコールセンターに休みをもらい、平日に引っ越し屋さんを頼んで、荷物を運んでもらった。
 あまり物を持たない主義の紗枝の引っ越しはあっけなく終わった。荷物らしい荷物と言えば、最近増えたお菓子作りの道具や、佐々木に買ってもらった洋服ぐらいだった。
 紗枝には南側の一室が与えられていた。日差しが心地よく入り込んでくる、広々とした部屋だ。クローゼットもびっくりするくらい大きくて、紗枝が服をハンガーにかけてしまってもスカスカだ。しかも収納ボックスも置いてある。紗枝はこまごまとした荷物もそこに入れてしまうと、さっぱりとした部屋ができあがった。
「こんなに物が少ないとミニマリストになったみたい」
 ふふっと紗枝は微笑み、それから大きなベッドに横たわった。
「こういうベッドも久しぶり…」
 体をベッドに横たえる、弾むスプリングがいい。
 つい、うとうとしてしまった紗枝は、スマホの着信音が鳴って起き上がった。
 佐々木からだった。
「どう、引っ越しは。手伝えなくてすまない」
「お手伝いなんてとんでもないです。佐々木さん、お仕事で忙しいでしょう」
 最近、わかってきたことだが、佐々木の毎日はかなり忙しい。佐々木設計事務所の社長なので、自分の設計仕事をするだけではないのだ。部下の面倒を見たりもするし、他の会社との交流もマメにしなくてはならない。紗枝のように17時の定時であがることはできない。そして、日曜もイベントや会食の予定が入ることもある。これまで紗枝のお菓子教室につきあえたのは、スケジュールを随分、やりくりしてのことだったらしい。
「夕方、16時頃、迎えに行くよ。18時頃にはまた会社に戻る予定」
「はい、わかりました。準備しておきます」
 今日は、佐々木の恩師、真田のお見舞いに行くことになっている。この契約結婚のきっかけになった真田だ。何よりも優先して、紗枝を紹介しなきゃ、と今日真田に会う段どりを佐々木が組んでくれた。
 時計を見ると14時だった。きちんと髪の毛をブローしたいので、シャワーを浴びることにした。初めて使うバスルームに少し緊張する。 
 今は使わないが、ゆったりしたバスタブが目に入り、昨日まで体育座りがやっとできる浴槽に入っていたのが嘘みたいだ。
 髪の毛を洗い、お気に入りのシャワージェルで身体を磨いた。
 16時頃になって佐々木がやってきた。
「紗枝さん。行ける?」
 玄関に立つ佐々木に、紗枝がはい、と早足でやってきた。
「そのコーデ、いいね。似合ってる」
 そう佐々木に言ってくれた紗枝の服装は、紺色のワンピースに、白のカーディガンを羽織ったものだった。似合ってる、と言われて思わず頬がゆるむ。
 佐々木は、身体にぴったりとしたグレーのスーツだった。いつにもましてきりっとしている。
「佐々木さんも、素敵です」
 言葉にするのがてれくさくて、紗枝が小声で言った。
「紗枝さん。それなんだけど」
「え?」
「結婚するんだから、佐々木さん、じゃおかしいよ。誠司って呼んでくれ」
「あっ…そうか、そうですね。えっと…せ、せいじ、さん」
 急な名前呼びは、やはり気恥ずかしい。結婚に対して実感がなかったが、呼び方ひとつで、自分は妻のフリをしなきゃいけないんだ、ということがぐっと迫ってきた。
「よし、行こう」
 誠司と紗枝は車に乗り込み、真田のもとへ急いだ。
 真田は大きな総合病院に入院していた。病院の長い廊下を歩き、個室の病室のドアを誠司がノックした。どうぞ、と声がかかる。
「おやじさん。俺です」
「誠司じゃないか。よく来たな」
 ベッドに半身を起こした真田は、四角い顔をくしゃっとさせて嬉しそうに微笑んだ。誠司からは、70代と聞いているが、もっと若く見える。がっしりとした体躯の初老の男性だ。
 紗枝は、そっと誠司の脇に歩み寄った。
「誠司?そちらのお嬢さんは」
「紹介が遅れました。おやじさんに見せたかった、俺の妻です」
「なんだって?!」
 真田は、びっくりした顔をして、紗枝を頭からつま先まで、じっくり見た。
「なんだ、お前、人に心配させておいて、どこにこんな子、隠してたんだ」
 先ほど笑ってくしゃっとした顔をさらにくしゃくしゃにして真田は笑顔で言った。
「出会って間もないんですが…結婚することにしました」
「あんなに見合いをいくつもダメにしたのに、お嬢さん、こいつにだまされてないか?」
 紗枝は、親し気に言ってくれる真田に微笑んで、大丈夫です、と言った。