そう小声でつぶやくと、眠気がすこしづつ近づいてきた。
事件が起こったのは、その翌日だった。コールセンターから帰ってきて、何か軽い夕食を作ろうとしていた時のこと。玄関のチャイムが鳴った。出ると、アパートの大家さんだった。初老の女性だ。
「水内さん、今、ちょっとお話できる?」
「はい、大丈夫です。何かありました?」
大家さんは、ちょっと言いにくそうな顔をした。紗枝は家賃があがるのかな、と少し身構えてしまった。
「実はね…このアパート老朽化がすごくて。水内さんの部屋は、たまたま何もなかったんだけれど、他の部屋は水漏れなんかが多くて。最近、引っ越す人が多いなって思ってなかった?」
「あ…そういえば」
紗枝はここのところ、何回かアパートに引っ越し屋さんがきてるのを見ていた。確かに古いアパートだから、皆新しいところへ引っ越すのだろう、くらいにしか思ってなかった。
水漏れとか、そんな切実な理由があったんだ、と紗枝は少なからず驚いた。
「それでね、このアパートを壊して、土地を売ることにしたの。急で悪いんだけど、月末までにどこか引っ越し先を見つけてくれないかしら」
紗枝はごくりと息を飲んだ。つまりこのアパートから出ていかなければならない。退去宣告だ。
「水内さんは、家賃を滞納したりもしないし、ありがたかったんだけど…もう決めたことなの。お願いね」
「はあ…わかりました」
じゃあ、そういうことだから、と大家さんは自分のうちへ戻って行った。
紗枝は、困ったことになった、と立ち尽くした。早急に次のアパートを探さなくてはならない。このアパートは、古いけど家賃が安いのが魅力だった。また同じようなアパートが運よく見つかるといいけれど…。
お菓子教室がうまくいっているだけに、神様がそうそういいことばかり起きないよ、と言っている気がした。
次の日曜日は、美佐子の教室の日だった。いつものように佐々木がアパートに迎えに来てくれて、お菓子教室は順調に終わった。美佐子と佐々木、紗枝の三人でみつさんの軽食と美佐子と作ったばかりのケーキを食べた。他愛ないおしゃべりをして、楽しい時間だった。
今日は、午前中の美佐子の教室だけで、午後からの仕事は入っていなかった。紗枝は美佐子の家をお暇しながら、この後は不動産屋を覗いてみよう、と考えていた。
「紗枝さん、何か悩み事?」
帰りの車の中で、佐々木に紗枝は、そう聞かれた。
「あ…その、なんというか」
「いつもより微妙にテンションが低かったから気になってたんだ。話なら、聞くよ」
昨日も遅くまでスマホでアパートの物件を探していた。なかなかこれといった部屋が見つからない。コールセンターとお菓子教室をやる住宅街が結構離れているので、どちらにも行きやすい所に、となると、さらに物件数が少なくなってしまう。
「実は、今住んでいるアパートの老朽化がすごくて、今月末に退去するよう言われてるんです。でも、なかなか、いい物件がみつからなくて…」
気楽なおしゃべりを何度も重ねてきた佐々木に、紗枝はつい、本音をもらしてしまった。
「でも、探せば何とかなると思うんです。今のアパートも探せばあったし」
そう言いながらも、敷金礼金、引っ越し代のことを考えると頭が痛い。今のアパートを借りたときは、祖母のもたせてくれたお金で何とかなった。今は懐事情が心許ない。
「そうなんだ、住むところが…」
佐々木はしばらく黙った。そして言った。
「紗枝さん、これから一時間くらい時間もらえないかな」
不動産屋には、後で行けばいい。紗枝がはい、と答えると佐々木は車を方向転換させた。
そして、言った。
「紗枝さんは、バラは好き?今、綺麗に咲いてるから見せたいんだ」
「はい、好きです。そうか、秋のバラの季節ですね」
物件のことで思いつめた顔をしていたから、佐々木は気分転換にバラを見せようとしてくれているのかもしれない。気を遣わせてしまって申し訳ないな、と紗枝は思った。
紗枝はバラが咲いてると聞いて、どこかの公園や植物園のような場所を想像していたのだが、佐々木が連れてきたのは、大きな一軒の二階建ての家屋だった。
庭は広くとってあり、バラが何種類も咲いていて、見事だった。
「すごい、綺麗!」
「庭師に頼んでいるからな。この時期は毎朝、庭を見るのが楽しみだよ」
「え、庭師って」
「ここ、俺の家なんだ。半年前に建てた。結婚するんなら、家があった方がいいと思ってね。でも、見合いの相手から、自分で間取りとか考えたかったと言われた。難しいな女性っていうのは」
「はあ…そういうものでしょうか」
紗枝は、十分、大きな家だし、こんな洒落た庭もあって、素敵なのに、と思った。
「紗枝さん、コーヒー入れるよ。入って」
玄関から入るよう、促される。庭からが緩いスロープができていて、どっしりとした重厚なドアの玄関だった。中に入ると、想像以上に広々としていた。廊下からリビングに行くと、大きな窓がまず目に入った。陽の光がふんだんに入るようにしてある。高価そうなソファが窓の向かい側に置いてあり、キッチンも広々としている。
普段、キッチンにいることの多い紗枝には、こんなキッチンでお菓子を焼けたら嬉しいだろうな、と思った。
紗枝は、佐々木に促されてソファに座った。部屋の中を見回すと、きちんと整頓されていて、物が少なかった。濃い茶を基調にして家具も統一してある。とてもシックな部屋だ。
佐々木が、コーヒーの入ったマグカップを紗枝に渡した。
「建築家さんのお家ってもっと奇をてらってるものかと思ってました」
「よく言われる。でも、実用的な方が俺は好きでね」
「はい。私も、落ち着いた感じがすごく好きです。こんな家、住んでみたい」
「…じゃあ、一緒に住まないか、紗枝さん」
「えっ」
思わずマグカップを落としそうになって、慌ててしっかりつかむ。
「俺一人で住むには部屋が余ってるし。もちろん、無理強いはしない。ただ…俺は、紗枝さんとの結婚を考えてる」
紗枝は目を見開いた。カップをローテーブルに置く。
「結婚って、そんな」
紗枝は、一度、すでに佐々木との結婚を断っている。初めて会ったばかりだったからほとんど冗談のように聞こえた。佐々木の言い方も強引だった。
しかし、今日の佐々木は、あの時と違う。もっと落ち着いていて、この先の未来を見つめるような目をしている。
紗枝はなんと言葉を続けていいかわからなかった。
「紗枝さんが躊躇うのもわかる。まだ若いし、お菓子教室だって始めたばかりだ。これからいい出会いだってあるかもしれない。…だから、考えたんだ。俺と、契約結婚をしてもらえないだろうか」
「けいやくけっこん…」
思いがけないワードが続き、紗枝は動揺するばかりだ。
「うん。君と初めて逢った時、俺の建築の師匠である真田さんという建築家が入院していて、病状が悪かったんだ。もうお年だし、長くはないと言われていて…その真田さんが、俺にしきり結婚をすすめるんだ。俺の嫁を見たら寿命が伸びそうだ、なんて言ってね。真田さんに嫁を見せたら元気になるかもしれない、そう思って結婚を急いでた」
「そういうことだったんですね…」
確かに、訳あって結婚を急いでいると言っていた。
「でも、最近、病状が良くなってきたんだ。ただ、それでも俺の嫁を見たいという気持ち変わらなくて。見合いの世話も人を通してしてくれたんだが…ピンとこなくて」
「さすがに、好みじゃない人と結婚するのはやめたんですね」
事件が起こったのは、その翌日だった。コールセンターから帰ってきて、何か軽い夕食を作ろうとしていた時のこと。玄関のチャイムが鳴った。出ると、アパートの大家さんだった。初老の女性だ。
「水内さん、今、ちょっとお話できる?」
「はい、大丈夫です。何かありました?」
大家さんは、ちょっと言いにくそうな顔をした。紗枝は家賃があがるのかな、と少し身構えてしまった。
「実はね…このアパート老朽化がすごくて。水内さんの部屋は、たまたま何もなかったんだけれど、他の部屋は水漏れなんかが多くて。最近、引っ越す人が多いなって思ってなかった?」
「あ…そういえば」
紗枝はここのところ、何回かアパートに引っ越し屋さんがきてるのを見ていた。確かに古いアパートだから、皆新しいところへ引っ越すのだろう、くらいにしか思ってなかった。
水漏れとか、そんな切実な理由があったんだ、と紗枝は少なからず驚いた。
「それでね、このアパートを壊して、土地を売ることにしたの。急で悪いんだけど、月末までにどこか引っ越し先を見つけてくれないかしら」
紗枝はごくりと息を飲んだ。つまりこのアパートから出ていかなければならない。退去宣告だ。
「水内さんは、家賃を滞納したりもしないし、ありがたかったんだけど…もう決めたことなの。お願いね」
「はあ…わかりました」
じゃあ、そういうことだから、と大家さんは自分のうちへ戻って行った。
紗枝は、困ったことになった、と立ち尽くした。早急に次のアパートを探さなくてはならない。このアパートは、古いけど家賃が安いのが魅力だった。また同じようなアパートが運よく見つかるといいけれど…。
お菓子教室がうまくいっているだけに、神様がそうそういいことばかり起きないよ、と言っている気がした。
次の日曜日は、美佐子の教室の日だった。いつものように佐々木がアパートに迎えに来てくれて、お菓子教室は順調に終わった。美佐子と佐々木、紗枝の三人でみつさんの軽食と美佐子と作ったばかりのケーキを食べた。他愛ないおしゃべりをして、楽しい時間だった。
今日は、午前中の美佐子の教室だけで、午後からの仕事は入っていなかった。紗枝は美佐子の家をお暇しながら、この後は不動産屋を覗いてみよう、と考えていた。
「紗枝さん、何か悩み事?」
帰りの車の中で、佐々木に紗枝は、そう聞かれた。
「あ…その、なんというか」
「いつもより微妙にテンションが低かったから気になってたんだ。話なら、聞くよ」
昨日も遅くまでスマホでアパートの物件を探していた。なかなかこれといった部屋が見つからない。コールセンターとお菓子教室をやる住宅街が結構離れているので、どちらにも行きやすい所に、となると、さらに物件数が少なくなってしまう。
「実は、今住んでいるアパートの老朽化がすごくて、今月末に退去するよう言われてるんです。でも、なかなか、いい物件がみつからなくて…」
気楽なおしゃべりを何度も重ねてきた佐々木に、紗枝はつい、本音をもらしてしまった。
「でも、探せば何とかなると思うんです。今のアパートも探せばあったし」
そう言いながらも、敷金礼金、引っ越し代のことを考えると頭が痛い。今のアパートを借りたときは、祖母のもたせてくれたお金で何とかなった。今は懐事情が心許ない。
「そうなんだ、住むところが…」
佐々木はしばらく黙った。そして言った。
「紗枝さん、これから一時間くらい時間もらえないかな」
不動産屋には、後で行けばいい。紗枝がはい、と答えると佐々木は車を方向転換させた。
そして、言った。
「紗枝さんは、バラは好き?今、綺麗に咲いてるから見せたいんだ」
「はい、好きです。そうか、秋のバラの季節ですね」
物件のことで思いつめた顔をしていたから、佐々木は気分転換にバラを見せようとしてくれているのかもしれない。気を遣わせてしまって申し訳ないな、と紗枝は思った。
紗枝はバラが咲いてると聞いて、どこかの公園や植物園のような場所を想像していたのだが、佐々木が連れてきたのは、大きな一軒の二階建ての家屋だった。
庭は広くとってあり、バラが何種類も咲いていて、見事だった。
「すごい、綺麗!」
「庭師に頼んでいるからな。この時期は毎朝、庭を見るのが楽しみだよ」
「え、庭師って」
「ここ、俺の家なんだ。半年前に建てた。結婚するんなら、家があった方がいいと思ってね。でも、見合いの相手から、自分で間取りとか考えたかったと言われた。難しいな女性っていうのは」
「はあ…そういうものでしょうか」
紗枝は、十分、大きな家だし、こんな洒落た庭もあって、素敵なのに、と思った。
「紗枝さん、コーヒー入れるよ。入って」
玄関から入るよう、促される。庭からが緩いスロープができていて、どっしりとした重厚なドアの玄関だった。中に入ると、想像以上に広々としていた。廊下からリビングに行くと、大きな窓がまず目に入った。陽の光がふんだんに入るようにしてある。高価そうなソファが窓の向かい側に置いてあり、キッチンも広々としている。
普段、キッチンにいることの多い紗枝には、こんなキッチンでお菓子を焼けたら嬉しいだろうな、と思った。
紗枝は、佐々木に促されてソファに座った。部屋の中を見回すと、きちんと整頓されていて、物が少なかった。濃い茶を基調にして家具も統一してある。とてもシックな部屋だ。
佐々木が、コーヒーの入ったマグカップを紗枝に渡した。
「建築家さんのお家ってもっと奇をてらってるものかと思ってました」
「よく言われる。でも、実用的な方が俺は好きでね」
「はい。私も、落ち着いた感じがすごく好きです。こんな家、住んでみたい」
「…じゃあ、一緒に住まないか、紗枝さん」
「えっ」
思わずマグカップを落としそうになって、慌ててしっかりつかむ。
「俺一人で住むには部屋が余ってるし。もちろん、無理強いはしない。ただ…俺は、紗枝さんとの結婚を考えてる」
紗枝は目を見開いた。カップをローテーブルに置く。
「結婚って、そんな」
紗枝は、一度、すでに佐々木との結婚を断っている。初めて会ったばかりだったからほとんど冗談のように聞こえた。佐々木の言い方も強引だった。
しかし、今日の佐々木は、あの時と違う。もっと落ち着いていて、この先の未来を見つめるような目をしている。
紗枝はなんと言葉を続けていいかわからなかった。
「紗枝さんが躊躇うのもわかる。まだ若いし、お菓子教室だって始めたばかりだ。これからいい出会いだってあるかもしれない。…だから、考えたんだ。俺と、契約結婚をしてもらえないだろうか」
「けいやくけっこん…」
思いがけないワードが続き、紗枝は動揺するばかりだ。
「うん。君と初めて逢った時、俺の建築の師匠である真田さんという建築家が入院していて、病状が悪かったんだ。もうお年だし、長くはないと言われていて…その真田さんが、俺にしきり結婚をすすめるんだ。俺の嫁を見たら寿命が伸びそうだ、なんて言ってね。真田さんに嫁を見せたら元気になるかもしれない、そう思って結婚を急いでた」
「そういうことだったんですね…」
確かに、訳あって結婚を急いでいると言っていた。
「でも、最近、病状が良くなってきたんだ。ただ、それでも俺の嫁を見たいという気持ち変わらなくて。見合いの世話も人を通してしてくれたんだが…ピンとこなくて」
「さすがに、好みじゃない人と結婚するのはやめたんですね」



