紗枝は、ブティックで買った、花柄のワンピースを着ていた。薄い水色に白でさりげなく花柄をちりばめたもので、華美すぎず、地味過ぎず、サブリナ会にはちょうどいいだろうね、と佐々木や店員と決めたものだった。店員によると、サブリナ会の女性たちの娘がよく利用するブティックなのだという。佐々木は美佐子の娘、つまり佐々木の姪の女の子に服をプレゼントしたことがあったらしい。誕生日祝いだったそうだ。
この店を「思い出した」のは、そういうことだったのだ。
「じゃあ…ありがたく、いただきます」
恐縮ではあったが、今後美佐子の家にお菓子教室で行くとき、この服たちを着れるんだ、と思うと頬がゆるんだ。ブティックで買った服を着るのなんて、随分ひさしぶりだ。
「佐々木さん、私、またお菓子焼いてきます。食べてくださいね」
紗枝にできるお返しは、それくらいしかない。
「それはいいね。どんなのがくるのか、わくわくするな」
佐々木は機嫌のいい声を出した。そろそろパーティの時間が近づいていた。佐々木の車は美佐子の家へと向かった。
「えっ、じゃあ6人のマダムにお菓子作りを教えることになったの?」
美佐子の家で初めてお菓子教室に行ってから、数週間が経った。今日は平日の水曜日で、地元の友人京香がスマホの向こうで声をあげた。
紗枝は、うん、と頷いた。
美佐子のホームパーティで、紗枝は歓迎された。若いお嬢さんがくると嬉しいわね、と客のマダムたちが口々に言った。そして、美佐子が作ったパウンドケーキを食べると、みんな目の色が変わった。
「これ、美佐子さんが作ったの?信じられない!」
「そうよ、昔はお菓子と言ったらいつも焦げてたり、ぼそぼそしたのしか作れなかったじゃない」
美佐子は、うふふ、と笑った。
「だって、先生の教え方が上手なんだもの。すっかりマスターしちゃったわ。しかもね、この紗枝先生は、焼きたいケーキをリクエストしたら、それを教えてくれるのよ」
「えっ、そうなの?私、食べてみたいケーキが雑誌に載ってたわ」
「私も、こんなの焼いてみたいっていうのがあるのよ。紗枝さん、私にも教えてもらえないかしら」
私も、私も、とどんどん声があがり、最終的には美佐子を含めた六人の家で紗枝が出張お菓子教室をやることになった。必要な器具を説明したり、マダムたちのスケジュールのすり合わせをしたりして、目まぐるしい展開となった。
最終的には、土日の午前中に一人ずつ、午後に二人ずつ、月2回、教えることに。受講料を計算したら、土日の四日間だけなのに、カフェで働いていた頃の月給をあっさり越えた。
京香は、それを聞いてわあっ、と声をあげた。
「すごいじゃない。紗枝のパウンドケーキの威力。よっぽど美味しかったんだね」
「そう言ってもらってるんだけど…」
「え?何?なんかやらかした?」
「違うの。マダムたちが求めてるのは、お菓子だけじゃなくて。私とのおしゃべりも大事みたいなの。マダムたちは、もう娘さんや息子さんが家から出て行っててね、とにかく寂しいのよ。話を聞いてほしいの。サブリナ会も楽しいけど、いつも同じメンバーでつまらなくなってたんですって。しかも私のお菓子教室はマンツーマンでしょ。込み入った話も私にできる…そういうオプションに惹かれてるみたい」
「はあ…そうね。学生時代、紗枝はよくクラスメートの悩みとか相談に乗ってたもんね。紗枝には、人に話をさせる気分になるものがあるの、わかる。そっかあ、お菓子の技術だけじゃなくて、紗枝の人間力も買われたってわけね」
「人間力とかたいそうなものはないけど…まあ、なんにせよお菓子もおしゃべりも喜んでもらえるなら、ありがたいかな。週末、六人分のお菓子教室をやり終えて、今日も楽しかったなあ、って日曜の夜、しみじみ思うの。こんなに楽しくてお金までもらえるんだから神様に感謝しないとね、って思う」
「ふうん?」
京香の声がひそめられる。何か言いたいことがあるようだ。
「その神様ってお菓子好きな建築家さんのことじゃない?」
「佐々木さん?そうね、この仕事を思いついたのも彼だし、サブリナ会とつなげてくれたのも彼だから…そうね、確かに感謝すべきは佐々木さんだわ」
「感謝だけ?ラブはないの?」
「な、何言ってるの。お菓子が食べたいからってちょっと送ってくれるだけよ」
佐々木は、美佐子の教室の時だけ紗枝を迎えにきた。第一、第三の日曜日の午前中というのを覚えてくれたらしい。佐々木は、紗枝を美佐子の家に送り、紗枝の教室の間、本を読んだり何か書類を書いたりして時間をつぶす。それからみつさんの軽食と紗枝のお菓子を食べてから、佐々木は帰り、紗枝は他のマダムのところへ教室をしに行く。そんな流れができあがっていた。
「それって紗枝に逢いたいってことでしょ。好かれてるんじゃないの?」
「親切にしてくれてはいるけど…佐々木さん、誰にでも優しいから、うぬぼれると痛い目にあいそう。佐々木さんは、シンプルに、私のお菓子が食べたいだけだと思う」
「じゃあ、質問を変えるね。紗枝は佐々木さんをどう思ってるの」
「え…」
改めてそう言われるとためらってしまう。出会ってすぐは結婚してほしいと言われて面食らって、とんでもない人だと思っていた。でも一緒にいる時間が増えると、佐々木は常識的で、ポジティブで、優しい。逆になんでこんな人が私なんかをかまってくれるんだろう、という気持ちの方が強く、あ、そうかお菓子目当てだっけ、という解答が出て、この自問はそこで終わる。
「どう思ってるって…素敵な人だとは思うけど…まだ恋愛とかは考えられない、かな。いきなり始めたお菓子教室だから、まだまだやることが多くて」
実際、そうなのだ。マダムたちのリクエストに答えるために、教室で作るお菓子の予習をしたり、レシピを書いたり。こんなお菓子はどうかな、と創作お菓子なども作るようになって、コールセンターから帰ってくると紗枝はキッチンに立って結構な時間を過ごす。
自分の趣味の延長だから楽しいけれど、まだルーティン化していないことも多いので手探りでいろいろやっている、というのが今の状況だ。恋愛モードになるにはまだ余裕がない。
「じゃあ、もうちょっと時間が経って、紗枝に余裕ができたらどう転ぶかわからないわね」
「なによ、たきつけて。京香にはラブラブな満さんがいるから、もういいじゃない」
京香にはつきあって三年の彼氏がいるのだ。
「そうよ。だからこそ、よ。紗枝とお互いラブラブよね、ってのろけ話をしたいの。これでも、気を遣ってそういう話をしないようにしてたんだから」
務との恋が終わったばかりだ。京香なりに話題をチョイスしてくれていたのだ。
「ありがとう。何もないと思うけど、何かあったら報告するから。恋バナなんて、京香としかできないし」
コールセンターではすぐに噂が立つので、佐々木の話はしないようにしていた。芦田さんにお菓子教室を始めた、と言ったら、「今はやりの起業女子ね」と言われ、流行りだったのか、とびっくりした。
「じゃあ、報告、楽しみに待ってる。お菓子教室、頑張ってね」
「うん、京香もね。お仕事頑張って」
そう言って電話を切った。
京香は、地元のデパートの香水売り場で働いている。紗枝の誕生日には素敵な香水が贈られてくるので、毎年、楽しみだ。
時計を見ると、まだ十時だったので、ざっと下書きしたレシピをきちんと清書して、それからベッドに入った。
眠りの落ちる前に、佐々木の顔が浮かんで、京香があんなこと言うから…と思った。思い浮かべた佐々木の顔はいつも通り整った美しい顔をしていた。
「お菓子が好きな美形の建築家さんか…不思議なご縁だわ…」
この店を「思い出した」のは、そういうことだったのだ。
「じゃあ…ありがたく、いただきます」
恐縮ではあったが、今後美佐子の家にお菓子教室で行くとき、この服たちを着れるんだ、と思うと頬がゆるんだ。ブティックで買った服を着るのなんて、随分ひさしぶりだ。
「佐々木さん、私、またお菓子焼いてきます。食べてくださいね」
紗枝にできるお返しは、それくらいしかない。
「それはいいね。どんなのがくるのか、わくわくするな」
佐々木は機嫌のいい声を出した。そろそろパーティの時間が近づいていた。佐々木の車は美佐子の家へと向かった。
「えっ、じゃあ6人のマダムにお菓子作りを教えることになったの?」
美佐子の家で初めてお菓子教室に行ってから、数週間が経った。今日は平日の水曜日で、地元の友人京香がスマホの向こうで声をあげた。
紗枝は、うん、と頷いた。
美佐子のホームパーティで、紗枝は歓迎された。若いお嬢さんがくると嬉しいわね、と客のマダムたちが口々に言った。そして、美佐子が作ったパウンドケーキを食べると、みんな目の色が変わった。
「これ、美佐子さんが作ったの?信じられない!」
「そうよ、昔はお菓子と言ったらいつも焦げてたり、ぼそぼそしたのしか作れなかったじゃない」
美佐子は、うふふ、と笑った。
「だって、先生の教え方が上手なんだもの。すっかりマスターしちゃったわ。しかもね、この紗枝先生は、焼きたいケーキをリクエストしたら、それを教えてくれるのよ」
「えっ、そうなの?私、食べてみたいケーキが雑誌に載ってたわ」
「私も、こんなの焼いてみたいっていうのがあるのよ。紗枝さん、私にも教えてもらえないかしら」
私も、私も、とどんどん声があがり、最終的には美佐子を含めた六人の家で紗枝が出張お菓子教室をやることになった。必要な器具を説明したり、マダムたちのスケジュールのすり合わせをしたりして、目まぐるしい展開となった。
最終的には、土日の午前中に一人ずつ、午後に二人ずつ、月2回、教えることに。受講料を計算したら、土日の四日間だけなのに、カフェで働いていた頃の月給をあっさり越えた。
京香は、それを聞いてわあっ、と声をあげた。
「すごいじゃない。紗枝のパウンドケーキの威力。よっぽど美味しかったんだね」
「そう言ってもらってるんだけど…」
「え?何?なんかやらかした?」
「違うの。マダムたちが求めてるのは、お菓子だけじゃなくて。私とのおしゃべりも大事みたいなの。マダムたちは、もう娘さんや息子さんが家から出て行っててね、とにかく寂しいのよ。話を聞いてほしいの。サブリナ会も楽しいけど、いつも同じメンバーでつまらなくなってたんですって。しかも私のお菓子教室はマンツーマンでしょ。込み入った話も私にできる…そういうオプションに惹かれてるみたい」
「はあ…そうね。学生時代、紗枝はよくクラスメートの悩みとか相談に乗ってたもんね。紗枝には、人に話をさせる気分になるものがあるの、わかる。そっかあ、お菓子の技術だけじゃなくて、紗枝の人間力も買われたってわけね」
「人間力とかたいそうなものはないけど…まあ、なんにせよお菓子もおしゃべりも喜んでもらえるなら、ありがたいかな。週末、六人分のお菓子教室をやり終えて、今日も楽しかったなあ、って日曜の夜、しみじみ思うの。こんなに楽しくてお金までもらえるんだから神様に感謝しないとね、って思う」
「ふうん?」
京香の声がひそめられる。何か言いたいことがあるようだ。
「その神様ってお菓子好きな建築家さんのことじゃない?」
「佐々木さん?そうね、この仕事を思いついたのも彼だし、サブリナ会とつなげてくれたのも彼だから…そうね、確かに感謝すべきは佐々木さんだわ」
「感謝だけ?ラブはないの?」
「な、何言ってるの。お菓子が食べたいからってちょっと送ってくれるだけよ」
佐々木は、美佐子の教室の時だけ紗枝を迎えにきた。第一、第三の日曜日の午前中というのを覚えてくれたらしい。佐々木は、紗枝を美佐子の家に送り、紗枝の教室の間、本を読んだり何か書類を書いたりして時間をつぶす。それからみつさんの軽食と紗枝のお菓子を食べてから、佐々木は帰り、紗枝は他のマダムのところへ教室をしに行く。そんな流れができあがっていた。
「それって紗枝に逢いたいってことでしょ。好かれてるんじゃないの?」
「親切にしてくれてはいるけど…佐々木さん、誰にでも優しいから、うぬぼれると痛い目にあいそう。佐々木さんは、シンプルに、私のお菓子が食べたいだけだと思う」
「じゃあ、質問を変えるね。紗枝は佐々木さんをどう思ってるの」
「え…」
改めてそう言われるとためらってしまう。出会ってすぐは結婚してほしいと言われて面食らって、とんでもない人だと思っていた。でも一緒にいる時間が増えると、佐々木は常識的で、ポジティブで、優しい。逆になんでこんな人が私なんかをかまってくれるんだろう、という気持ちの方が強く、あ、そうかお菓子目当てだっけ、という解答が出て、この自問はそこで終わる。
「どう思ってるって…素敵な人だとは思うけど…まだ恋愛とかは考えられない、かな。いきなり始めたお菓子教室だから、まだまだやることが多くて」
実際、そうなのだ。マダムたちのリクエストに答えるために、教室で作るお菓子の予習をしたり、レシピを書いたり。こんなお菓子はどうかな、と創作お菓子なども作るようになって、コールセンターから帰ってくると紗枝はキッチンに立って結構な時間を過ごす。
自分の趣味の延長だから楽しいけれど、まだルーティン化していないことも多いので手探りでいろいろやっている、というのが今の状況だ。恋愛モードになるにはまだ余裕がない。
「じゃあ、もうちょっと時間が経って、紗枝に余裕ができたらどう転ぶかわからないわね」
「なによ、たきつけて。京香にはラブラブな満さんがいるから、もういいじゃない」
京香にはつきあって三年の彼氏がいるのだ。
「そうよ。だからこそ、よ。紗枝とお互いラブラブよね、ってのろけ話をしたいの。これでも、気を遣ってそういう話をしないようにしてたんだから」
務との恋が終わったばかりだ。京香なりに話題をチョイスしてくれていたのだ。
「ありがとう。何もないと思うけど、何かあったら報告するから。恋バナなんて、京香としかできないし」
コールセンターではすぐに噂が立つので、佐々木の話はしないようにしていた。芦田さんにお菓子教室を始めた、と言ったら、「今はやりの起業女子ね」と言われ、流行りだったのか、とびっくりした。
「じゃあ、報告、楽しみに待ってる。お菓子教室、頑張ってね」
「うん、京香もね。お仕事頑張って」
そう言って電話を切った。
京香は、地元のデパートの香水売り場で働いている。紗枝の誕生日には素敵な香水が贈られてくるので、毎年、楽しみだ。
時計を見ると、まだ十時だったので、ざっと下書きしたレシピをきちんと清書して、それからベッドに入った。
眠りの落ちる前に、佐々木の顔が浮かんで、京香があんなこと言うから…と思った。思い浮かべた佐々木の顔はいつも通り整った美しい顔をしていた。
「お菓子が好きな美形の建築家さんか…不思議なご縁だわ…」



