「ここでヘラを返すようにして、ツヤが出るまで合わせます。ここでしっかり合わせておくと、生地がしっとりしますよ」
あらあ、と美佐子が意外そうな声を出した。
「パウンドケーキなんて、材料をさっくり、混ぜておしまい、と思ってたわ。こんなに丁寧にやるものなのね」
紗枝はにっこり微笑んで言った。
「何を丁寧にやるかで、結果が大きく変わるから、やった甲斐がありますよ」
「なるほどねえ」
と、美佐子は感嘆の声をもらした。
その後も作業をし、後はオーブンで焼くだけになった。焼いている間、泡だて器や、使ったボウルなどを紗枝が洗って、美佐子が布巾で拭いた。
「ふふふ、焼き上がりまで待つときのドキドキ感って最高ね」
「そうですね、いい匂いもしてくるし…格別な瞬間ですよね」
「先生の教え方、とってもよかったわ。かゆいところに手が行き届いている感じよ。手書きで作ってきてらったレシピも助かったわ。あれがないと、一人でつくれないもの」
「はい。この教室で作っただけじゃなくて、ご自分の好きタイミングで、また作ってほしくて。お一人で作って成功するのも、また楽しいと思います」
「あーあ。うちの娘も、先生くらい素直だといいのに。なんていうのかな、家事をなんでもみつさんに任せているせいで、『お母さんなんて、何にもできないのね』って、なめられているのよ。娘が幼いときは、必死に家事も育児もやったものよ。今、ちょっとゆっくりしてるだけなのに…。絶対、先生と作ったケーキを今度食べさせて、『お母さん、やるじゃん』って見返してやりたいわ」
「ふふふ。じゃあ、お嬢様がお好きなタイプのケーキを次回、作りましょう。何ケーキがお好きですか?」
「うーん、やっぱりレアチーズケーキには、目がないわね。いろんなお店のを買って、食べ比べしているみたい」
「なるほど。チーズケーキですね」
紗枝は、スマホで撮ったケーキの写真を探した。焼き上がりの記録として、一応自分で作ったお菓子類は、写真に残しておいたのだ。
スマホの画面に、赤いソースのかかったチーズケーキが現れた。
「あら、これも美味しそうねえ」
「私も、チーズケーキを食べるのが好きなので、よく作ります。じゃあ、次回の教室は、これでいいですか?」
「すごい、どんなケーキを作るか、こちらに選ばせてくれるのね。巷のお菓子教室じゃ、こうはいかないわ。大して好きじゃないケーキを作ることだってあるもの。マンツーマンの教室、大当たりね」
美佐子が嬉しそうに言ってくれるので、紗枝も微笑んだ。
そうこうしている内に、オーブンが鳴り、焼き上がりを知らせた。
できあがったのは、きつね色の美しいパウンドケーキだった。少し冷めるのを待って、美佐子と佐々木、紗枝の三人で、食べてみることにした。
テーブルの上には、いつの間にかサンドイッチやサラダといった軽食も並べられていた。みつさんが用意していてくれたらしい。
「お菓子を焼いたらこのくらいの時間になると思って、昼食も食べて行ってほしいの。
先生、お時間は大丈夫?」
「はい…恐縮です。お菓子を教えただけなのに、昼食もごちそうになるなんて」
「何言ってるの、こんなのお安い御用よ。私は、先生とゆっくりお話ができて嬉しいわ」
佐々木も入れて三人で軽食をいただいた。丁寧にいれられた紅茶も美味しい。他愛ない話をして、ケーキが冷めるのを待った。
「そろそろ、ケーキが冷めたかしら?」
「そうですね。いいと思います」
紗枝は、慎重にパウンドケーキをカットして、三人の皿に一切れずつ置いた。三人で同時に食べ始める。
「うん、これも美味いな」
一番に声をあげたのは、佐々木だった。
「本当。しっとりしていて、さくさくね。確か、洋酒を入れたわよね。あれがよく効いてるわ」
「小さいお子さんがいるわけではないので、洋酒をアクセントにしてみました。お気に召されたようで、すごく嬉しいです」
「嬉しいのはこっちの方よ。先生とだったら、こんなケーキが作れるのね。すっかり自信がついたわ。私、この後、もう一回このパウンドケーキ、作ってみるわ。夕方、うちでホームパーティをやるから、来てくれた皆に食べてほしいの。『私が焼いたのよ』って言って、皆を驚かせたいわ」
いたずらっ子な少女のように美佐子が目をキラキラさせてそう言うので、紗枝も嬉しかった。ちょっとお菓子を教えただけで、こんなに喜んでもらえるなんて。高価な受講料をもらえるだけでなく、誰か人の役に立ったことからくる充足感は、紗枝の想像をはるかに超えていた。
美佐子は、そうだわ、と声をあげた。
「ねえ、夕方のホームパーティにも、先生顔を出さない?この間言っていたサブリナ会のメンバーが五人くらい来るの。私、先生を彼女たちに紹介したいわ。そして、先生に私がちゃんと作ったんだ、ってことを証明してほしいの。こんなに美味しいお菓子を食べたら、彼女たち、きっと買ってきたんでしょ、って信じてくれないもの。ね、いいでしょ。先生、いらっしゃいよ。気さくな会よ。それとも何か予定がおありかしら」
「いえ…特に予定は。でも、私なんかが参加して差支えないんですか?」
「全然。大歓迎よ。若い人とお話できるの、皆よろこぶと思うし」
「は、はあ…」
急なお誘いに、戸惑い、思わず佐々木の方を見る。
「行ってみるといい。楽しいマダムたちだから心配いらないよ。今後、お菓子教室をやっていくのに、人脈を作っておくのは大事だ。アピールして、生徒さんを増やしたらいいじゃないか」
そんなに簡単に集客できるだろうか、と紗枝は思ったが、美佐子さんとつきあっていくのにサブリナ会は避けて通れない気がする。早めになじんでおくのは悪くない選択かもしれない。
「アピールできるかわかりませんが…私でお邪魔にならないのなら、行かせてください」
美佐子は、紗枝の返事に喜色満面となった。
「嬉しい!ぜひ楽しみに来てちょうだい。パーティは17時半からよ。誠司さんは、どう?」
「僕もよかったら寄せてほしいですね。今日は紗枝さんの足がわりのつもりで来てるし。
夕方もこちらにお届けしますよ」
「それはよかったわ。じゃあ、誠司君、よろしくね」
紗枝は目をぱちくりした。この教室の送り迎えだけでも恐縮なのに、ホームパーティの送迎までしてくれると言う。
「そ、そんな佐々木さん、ご迷惑じゃないんですか。私にばっかりかまけてられないでしょう」
「来るときも言ったろう。大きな仕事が終わったばかりだから時間はあるんだ。君は気にせず、俺を使うといいよ」
いいよ、と言われても「はい、そうですか」とも言いにくい。
「パウンドケーキも美味いが、みつさんのサンドイッチも最高だ。腕をあげられたのではないですか」
紅茶などを給仕していたみつさんに、佐々木が言った。
「とんでもないです。でも、こうして食べていただけるだけで、ありがたく思っています」
三人ともに頷きながら、食事を楽しんだ。話題はホームパーティの準備の話になり、いつの間にか、紗枝と佐々木は午後を一緒に過ごし、夕方また美佐子の邸宅に来る流れになった。
昼食を食べ終え、ではまた後で、と美佐子に挨拶して、紗枝は佐々木の車に乗った。
「さて。思いがけず時間ができたな。紗枝さん、どこか行きたいところはない?」
佐々木は車を出しながら言った。
「そうですね…私、教室が終わったら自分の部屋へ帰ろうと思っていたので、特にどこも考えていなかったというか…」
「天気がいいからな、公園でも行ってみようか」
紗枝もそれがいい、と思った。気楽な空間で体を伸ばしたかった。美佐子は気さくだが、やはり60代のマダムという貫禄がある。緊張せずにはいられなかった。
あらあ、と美佐子が意外そうな声を出した。
「パウンドケーキなんて、材料をさっくり、混ぜておしまい、と思ってたわ。こんなに丁寧にやるものなのね」
紗枝はにっこり微笑んで言った。
「何を丁寧にやるかで、結果が大きく変わるから、やった甲斐がありますよ」
「なるほどねえ」
と、美佐子は感嘆の声をもらした。
その後も作業をし、後はオーブンで焼くだけになった。焼いている間、泡だて器や、使ったボウルなどを紗枝が洗って、美佐子が布巾で拭いた。
「ふふふ、焼き上がりまで待つときのドキドキ感って最高ね」
「そうですね、いい匂いもしてくるし…格別な瞬間ですよね」
「先生の教え方、とってもよかったわ。かゆいところに手が行き届いている感じよ。手書きで作ってきてらったレシピも助かったわ。あれがないと、一人でつくれないもの」
「はい。この教室で作っただけじゃなくて、ご自分の好きタイミングで、また作ってほしくて。お一人で作って成功するのも、また楽しいと思います」
「あーあ。うちの娘も、先生くらい素直だといいのに。なんていうのかな、家事をなんでもみつさんに任せているせいで、『お母さんなんて、何にもできないのね』って、なめられているのよ。娘が幼いときは、必死に家事も育児もやったものよ。今、ちょっとゆっくりしてるだけなのに…。絶対、先生と作ったケーキを今度食べさせて、『お母さん、やるじゃん』って見返してやりたいわ」
「ふふふ。じゃあ、お嬢様がお好きなタイプのケーキを次回、作りましょう。何ケーキがお好きですか?」
「うーん、やっぱりレアチーズケーキには、目がないわね。いろんなお店のを買って、食べ比べしているみたい」
「なるほど。チーズケーキですね」
紗枝は、スマホで撮ったケーキの写真を探した。焼き上がりの記録として、一応自分で作ったお菓子類は、写真に残しておいたのだ。
スマホの画面に、赤いソースのかかったチーズケーキが現れた。
「あら、これも美味しそうねえ」
「私も、チーズケーキを食べるのが好きなので、よく作ります。じゃあ、次回の教室は、これでいいですか?」
「すごい、どんなケーキを作るか、こちらに選ばせてくれるのね。巷のお菓子教室じゃ、こうはいかないわ。大して好きじゃないケーキを作ることだってあるもの。マンツーマンの教室、大当たりね」
美佐子が嬉しそうに言ってくれるので、紗枝も微笑んだ。
そうこうしている内に、オーブンが鳴り、焼き上がりを知らせた。
できあがったのは、きつね色の美しいパウンドケーキだった。少し冷めるのを待って、美佐子と佐々木、紗枝の三人で、食べてみることにした。
テーブルの上には、いつの間にかサンドイッチやサラダといった軽食も並べられていた。みつさんが用意していてくれたらしい。
「お菓子を焼いたらこのくらいの時間になると思って、昼食も食べて行ってほしいの。
先生、お時間は大丈夫?」
「はい…恐縮です。お菓子を教えただけなのに、昼食もごちそうになるなんて」
「何言ってるの、こんなのお安い御用よ。私は、先生とゆっくりお話ができて嬉しいわ」
佐々木も入れて三人で軽食をいただいた。丁寧にいれられた紅茶も美味しい。他愛ない話をして、ケーキが冷めるのを待った。
「そろそろ、ケーキが冷めたかしら?」
「そうですね。いいと思います」
紗枝は、慎重にパウンドケーキをカットして、三人の皿に一切れずつ置いた。三人で同時に食べ始める。
「うん、これも美味いな」
一番に声をあげたのは、佐々木だった。
「本当。しっとりしていて、さくさくね。確か、洋酒を入れたわよね。あれがよく効いてるわ」
「小さいお子さんがいるわけではないので、洋酒をアクセントにしてみました。お気に召されたようで、すごく嬉しいです」
「嬉しいのはこっちの方よ。先生とだったら、こんなケーキが作れるのね。すっかり自信がついたわ。私、この後、もう一回このパウンドケーキ、作ってみるわ。夕方、うちでホームパーティをやるから、来てくれた皆に食べてほしいの。『私が焼いたのよ』って言って、皆を驚かせたいわ」
いたずらっ子な少女のように美佐子が目をキラキラさせてそう言うので、紗枝も嬉しかった。ちょっとお菓子を教えただけで、こんなに喜んでもらえるなんて。高価な受講料をもらえるだけでなく、誰か人の役に立ったことからくる充足感は、紗枝の想像をはるかに超えていた。
美佐子は、そうだわ、と声をあげた。
「ねえ、夕方のホームパーティにも、先生顔を出さない?この間言っていたサブリナ会のメンバーが五人くらい来るの。私、先生を彼女たちに紹介したいわ。そして、先生に私がちゃんと作ったんだ、ってことを証明してほしいの。こんなに美味しいお菓子を食べたら、彼女たち、きっと買ってきたんでしょ、って信じてくれないもの。ね、いいでしょ。先生、いらっしゃいよ。気さくな会よ。それとも何か予定がおありかしら」
「いえ…特に予定は。でも、私なんかが参加して差支えないんですか?」
「全然。大歓迎よ。若い人とお話できるの、皆よろこぶと思うし」
「は、はあ…」
急なお誘いに、戸惑い、思わず佐々木の方を見る。
「行ってみるといい。楽しいマダムたちだから心配いらないよ。今後、お菓子教室をやっていくのに、人脈を作っておくのは大事だ。アピールして、生徒さんを増やしたらいいじゃないか」
そんなに簡単に集客できるだろうか、と紗枝は思ったが、美佐子さんとつきあっていくのにサブリナ会は避けて通れない気がする。早めになじんでおくのは悪くない選択かもしれない。
「アピールできるかわかりませんが…私でお邪魔にならないのなら、行かせてください」
美佐子は、紗枝の返事に喜色満面となった。
「嬉しい!ぜひ楽しみに来てちょうだい。パーティは17時半からよ。誠司さんは、どう?」
「僕もよかったら寄せてほしいですね。今日は紗枝さんの足がわりのつもりで来てるし。
夕方もこちらにお届けしますよ」
「それはよかったわ。じゃあ、誠司君、よろしくね」
紗枝は目をぱちくりした。この教室の送り迎えだけでも恐縮なのに、ホームパーティの送迎までしてくれると言う。
「そ、そんな佐々木さん、ご迷惑じゃないんですか。私にばっかりかまけてられないでしょう」
「来るときも言ったろう。大きな仕事が終わったばかりだから時間はあるんだ。君は気にせず、俺を使うといいよ」
いいよ、と言われても「はい、そうですか」とも言いにくい。
「パウンドケーキも美味いが、みつさんのサンドイッチも最高だ。腕をあげられたのではないですか」
紅茶などを給仕していたみつさんに、佐々木が言った。
「とんでもないです。でも、こうして食べていただけるだけで、ありがたく思っています」
三人ともに頷きながら、食事を楽しんだ。話題はホームパーティの準備の話になり、いつの間にか、紗枝と佐々木は午後を一緒に過ごし、夕方また美佐子の邸宅に来る流れになった。
昼食を食べ終え、ではまた後で、と美佐子に挨拶して、紗枝は佐々木の車に乗った。
「さて。思いがけず時間ができたな。紗枝さん、どこか行きたいところはない?」
佐々木は車を出しながら言った。
「そうですね…私、教室が終わったら自分の部屋へ帰ろうと思っていたので、特にどこも考えていなかったというか…」
「天気がいいからな、公園でも行ってみようか」
紗枝もそれがいい、と思った。気楽な空間で体を伸ばしたかった。美佐子は気さくだが、やはり60代のマダムという貫禄がある。緊張せずにはいられなかった。



