ふと、目が覚めた。いつの間にか外れたイヤホンから、笑えるくらいひどい演奏の"春の歌"が流れていた。
 外はまだ朝も明けない暗闇に包まれていた。朝刊を配達するバイクのエンジン音が通り過ぎていく。
 暖房をつけていても、底冷えするような寒さだった。今朝は雪が降るのかもしれない。
 ソファから体を起こして、大きく背伸びをした。その時、ふと、一本のギターが目に留まる。実家から持ち帰ったギブソンのギターだ。なんとなくギターを手に取り、構えてみる。
 もう長い間ギターを弾く機会がなかったのに、身体に染み付いた感覚はそう簡単に忘れない、らしい。確か、最初はGコードで……。昔の記憶を辿りながら、弦を押さえる。
 ピコン、傍らに置いていたスマホにメッセージが入った。"仕事は順調?"の一言だけがロック画面に表示されている。 

 K.H:仕事は順調?
 Y.R:あんまり
 K.H:あんまりか
 K.H:立夏?寝た?
 Y.R:起きてる
 Y.R:少し、疲れた
 Y.R:なんで頑張ってるんだろう
 Y.R:ごめん、忘れて
 K.H:ヘラってんな。ちゃんと寝てるか?
 Y.R:寝てるし。こんな時間に起きてるやつに言われたくないし
 K.H:そこ突かれるとなんも言えねえ〜
 Y.R:今日、昔の夢見たんだ
 K.H:昔の?
 Y.R:うん。私が引っ越したばかりの頃の
 K.H:あーツンの頃の? 
 Y.R:うるさい
 K.H:ひどい🥹

 私は、無意識のうちに文字を打ち込んでいた。

 Y.R:あの頃に、戻りたい

 そのメッセージは、送らなかった。
 デリートボタンを押すタップ音だけが、夜の沈んだ空気の中に響き渡った。