──春の嵐は、唐突にやってきた。
「ハルくん、またきてたねぇ」
「熱烈だね〜」
「だね〜」
背中に突き刺さる視線に、思わずため息が漏れそうだった。これ以上ここにいたら彼女たちの餌食になるのは間違いない。私はギターケースを背負って、立ち上がる。
「……お先です」
「はーい。ハルくんによろしく〜」
「……」
小波さんの冗談に言い返す気力もない。
重い足取りで、ライブハウス『ハルジオン』を後にした。地上に出ると、夜に沈んだ街並みが目に入る。等間隔に歩道を照らす街灯の下には、仕事を終えただろうスーツの社会人達が、駅のホームに吸い込まれていく。
澄んだ春の夜風に紛れて、ギターのシャカシャカ音が聞こえてくる。その音を辿るように視線を上げると、街頭樹のちょっとした花壇に腰を下ろしてギターを構える人影が見えた。前より観客が増えてる。と言っても塾帰りの小学生だけど。
ここ数日、全く同じ光景を目の当たりにしている。
何度も聞いた“春の歌”を演奏し終わると、観客の小学生達からまばらな拍手が送られた。
彼はギターから顔を上げるなり、ふふんと鼻を鳴らして得意げな顔をする。「どうよ」「んー。ヘタクソ」「この前よりは成長したんじゃない?」「月並みだけど」「日進月歩だね」……き、厳しいな小学生。
思わず立ち止まってしまったが、運の尽き。
「──あ! 柳さーーん!」
わかりやすく凹んでいた彼、高坂春吉は、顔色をパッと明るくさせて大きく手を振った。小学生たちどころか待ち行く人々も私の方を振り返る。やめろ。街中で人の名前を呼ぶな。
ギターをケースにしまった彼は、颯爽と私の元へ走ってくる。
「今日の演奏もアツかった! 特にソロのギュイイイーーンってとこ! マジで痺れた! 天才!」
「…………はは。どうも」
半笑いで返答しても、へこたれない強メンタルだけは見習いたいくらいだ。
『アンタに惚れた』
彼は春の嵐だった。
ライブハウスの前で、手を握られ、熱視線を向けられたあの日。
言葉を失う私の呆然とした顔が、一番星よりも光り輝く瞳の中に反射していた。吸い込まれてそうで、目が離せない。
状況が把握できずに固まる私の背後で、『おお〜。やるやん』『青春だ』と感嘆の声が上がる。
『ちょっとこっち!』
私は握られた手のひらをそのまま引っ張って、人気のない裏路地に向かう。後ろ2人がつけてきていないのを確認した後、ため息を一つ落として振り返った。
『……何? 馬鹿なの? それとも私を揶揄ってる?』
『揶揄ってなんかない』
思いの外強く否定されて、狼狽えた。
彼の目、苦手だ。迷いのない、真っ直ぐな瞳。彼から視線を逸らした瞬間、負けた気分になる。だから迂闊に逸らせない。
『あの紹介ん時の、ソロ、ほんとにやばくて。心が震えた』
『……どうも』
『本気で惚れたんだ』
『……(ほっ!?)』
え、え? 今告られてる? 会って2回目の人に?
分からん分からん。恋愛経験値無さすぎて判断つかない。まだ揶揄われてる可能性だってあるし……ここは一旦平静を装うが吉だ! ──口を固く結んでできる限り無表情を作る。しかし、私の努力はいとも簡単に砕かれた。顔を上げた瞬間、彼との間にあったはずの数十センチの距離が、瞬く間に詰められた。大好物を目の前にした子供みたいに輝かせた瞳が、頼りない街灯の明かりでその光を増す。
思わず一歩後ろに下がるが、背中に硬い感触が当たった。しまった。もう逃げ場がない。飛んで火にいる夏の虫とはまさに自分のことだ。
いきなり告白されても普通に困る。ここは誠意をもって謝るしか、ない!
『高坂くん、ごめ、』
『お前の"ギター"に惚れたんだ!』
たっぷりと間を置いて、私の『は?』という間抜けな声が裏路地に響き渡る。
高坂春吉は、腰から直角に曲げた綺麗なお辞儀と共に言った。
『頼む! 俺にギターを教えてくれ!』
#
一体何が彼の琴線に触れたのか。
彼の思考は全く理解できないけれど、ここ数日、彼が筋金入りのバカだということは身に染みて理解した。
ライブが終わると、待ってましたと言わんばかりに「柳さーん!」のコール。図体がでかいから遠くにいてもよく目立つ。駅まで向かう私の後ろをついて回り、「俺にギターを教えてくれ」の一点張り。ついに嫌気がさして、出口からクラウチングスタートを切って大爆走した日もあった。奴は涼しい顔をして「ギターには体力づくりも必要なのか?」などと頓珍漢なことを言いながら並走してきた。足ではかなわないと悟って逃げるのは諦めた。
「柳さん、これからカラオケ行かね? 最近駅前に出来たとこ! あそこスタジオある、」
「あの、高坂くん」
立ち止まって振り返る。人懐っこい笑みを浮かべた高坂くんが、首を傾げた。
「ハルでいいよ」
「……高坂くん」
遠回しの線引き。でも、彼は怯まない。
今まで関わったことのない人類すぎて、対処法がこれ以上思い浮かばない。お手上げだ。コイツには直球以外何も伝わらない。察して欲しいと念じるだけ無駄だ。できるだけ険しい表情で言い放つ。
「何度も言ってるけど、私には無理。他を当たって」
「え、嫌だ」
「……」
もうヤダ。ほんとにどうしよう。言葉通じないこの人。怖ッ。どうしたらそんな純粋な眼でいられんだ。
「俺は柳さんみたいに弾けるようになりたい」
「……私より上手い人、世の中にごまんといるから。あそこのギター教室とか評判いいらしいよ」
「そういうんじゃなくて。なんつーか、こう、ジリジリしたヒリついた感じっていうか……訴えかける感じって言うか……そう、腹ん中にある妬み嫉みが全部音になってぶちまける感じがいいんだよ!」
「……(ん? 喧嘩売ってる?)」
無意識に口元が引き攣る。しかし、高坂くんは完全に自分の世界に入り込んでいるのか、私のご機嫌など気にする様子もなく。無邪気に笑いながら空を見上げた。
「俺もあんな風に弾けるようになりたい。そしたら──ギター弾くの、もっと楽しくなる気がすんだ」
「──」
心臓の毛を逆撫でられたような気分だった。
ムカつく。ムカつく、ムカつく──なんで、こんなムカつくんだ。
深夜だけだった。母が寝ている時間だけ、私はギターが弾けた。クローゼットの中が、唯一許される私のテリトリーだった。
お前に──お前なんかに、分かってたまるか。
お前みたいな、暇つぶしでギター始めたようなド素人に。ギターを弾く時にしか、息の吸えない私の惨めさが!
「……努力だけで私に追いつけるだなんて、思い上がるのも大概にして」
張り詰めた空気の中で、私は顔を上げた。
そして、手にした言葉のナイフを容赦なく、振り下ろした。
「才能ない奴が努力しても時間の無駄。さっさとギター辞めれば?」
#
「ウワッーーーーーーー!!!!」
思わず飛び起きた。じっとりとした脂汗が顎を伝って、フローリングの床に落ちた。
日の光はすでに落ち、部屋の中は真っ暗だった。唯一、手元に落ちていたテープレコーダーのモニター画面だけ、ぼんやりとした光を放っている。
夢か……今の。やけに鮮明な夢だった。
私は深呼吸をして、顔を覆った。そのまま後ろに倒れこむ。ごちん、と後頭部が床に当たったせいで地味に痛い。でも、今はそれどころじゃない。
「……ん゛ん゛ん゛ん゛〜〜〜〜〜!!!」
あ~~~~~恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!! 高校生の私痛すぎる!!! 何!? 何なの!? 思い上がってんのはお前だお前!! ちょ~~とギター弾けるくらいでイキりすぎだから!! 背中痒ッ!! 死ぬ死ぬ死ぬ最悪すぎる!!
両足をジタバタさせて、何とか大声で叫びたい衝動を抑える。
ようやくその衝動が落ち着いたところで、私は茫然と天井を見上げた。蛍光灯もカバーもついていないむき出しのシーリングライトが暗がりの中で浮き上がって見えた。
……でも、そうだった。
高校生の頃の私は、こういう奴だった。自己肯定感は地よりも低く、その癖プライドだけは一人前。誰かに認められたいと切に願いながら、理解されることは拒む。
世界の中で唯一心の底から信じられるものは、ギターだけ。それ以外のものは、根っこの部分では絶対に分かり合えないと思っていた。
言葉を選ばすに言うなら、私は──めちゃくちゃ嫌な奴だったのだ。
その日から、時々、昔の出来事を夢に見た。
まるで、古い映画が時を経て再上映されるように。



