平日の練習時間は、平均4時間。
 土日は長くて10時間以上。レッスンがある日は実技の練習に加えて、聴音を鍛えるための練習。筆記試験の対策も行う。最低限の睡眠と風呂と食事以外は、すべて音楽に費やす。けれども、これはあくまでスタート地点に立つための言わば序奏だ。
 母は言った。鍵盤を叩く私の傍に立ち、妄執に囚われた瞳をかっぴらいて。「あなたは、ピアニストになるの。柳家の中で最も有名なピアニストに」、と。
 それが、高校2年までの私の日常だった。
 自分が何をやりたいかだなんて、そんなことを考える余裕はなかった。
 これまでの人生で多くの時間を費やした音楽は、私にとって"やりたいこと"ではなく、”やらなければならないこと”だった。
 そのしがらみから解放された今──私は一体、何がやりたいんだろうか。
 
 #

 私は今、板の上に立っている。
 正確に言うなら、この街に唯一存在するライブハウス『ハルジオン』のステージ上だ。スタンドには聞いていた以上の観客が、出入り口までギチギチに入っている。
 手を叩いて盛り上がる観客を尻目に、白目を剥いて卒倒したくなる。ギターのネックを握る手には、すでに変な汗が吹き出していた。
 ん~っと。……あれ? 聞いてた話と全然違うな? 「うち、超マイナーバンドだから、お客さんは10人ぐらいだって」って言ってなかったっけ? 普通に100人くらい入ってるように見えるな? これ、嵌めたな? 
 隣を振り返ると、肩まで伸びた金髪ロングが特徴的な女性──小波さんが、素知らぬ顔で私から視線を逸らした。おい。見ろ。こっちを見ろ。
 小波さんは、マイクのスイッチを入れて、軽く二、三回叩いた。
「あー、あー……みんな、ブルマンのライブ来てくれてありがとう!」
 フゥー! と一気に観客のボルテージが上がる。
「知ってると思うけど、うちのギターは旅行先で生牡蠣に当たって絶賛入院中なんで、代打で入ってくれたギターいます! ギターの、リツカ!」
「……(んな!? 紹介しなくていいって散々言ったのに!!)」
 一瞬にして会場中の視線が私に集まる。すごいアウェーだ。
 もうやだ逃げたい。適当に会釈して切り抜けよう。なるべく目立たないように、目立たないように……と、軽く頭を下げたその時、小馬鹿にした笑い声が耳に入った。「誰?」「知ってる?」「知らな〜い」「代打でJK連れてきたウケる」「下手くそだったら公開処刑じゃん」──ピクッ、と口の端が引き攣る。
 私は足元に設置したRATのエフェクター──ギターの音源を変化させる機材だ──のスイッチを踏む。挨拶代わりに、奏法の中で一番好きなカッティングでビートを刻む。最後に弦を下から上になぞるグリッサンドで締めると、ピンと張り詰めたピアノ弦のように、静まり返った。
 「……よろしくお願います」と、頭を下げた途端、会場が歓声に沸いた。
 さっきまで鼻で笑ってた観客の数人が気まずそうに周りを見回す様を見て、溜飲が下がる。……ふん。
 何となく視線を感じて再び横を見ると、小波さんがニヤニヤしながらこっちを見ていた。今度は私が視線を逸らす番だった。
「リツカが盛り上げてくれたところで、一曲目行きます! クリープハイプの左耳!」

 #

 梅の花が咲き始める頃、つゆ子さんのもとに一本の電話が掛かってきた。
 電話の相手はライブハウス『ハルジオン』の店長で、つゆ子さんの昔馴染みだという。
 『ハルジオン』の看板バンドのギターが病欠で、代わりのギターを探している。確か東京から越してきた姪っ子が、ギター弾けるんだったよな? もし可能なら一度うちに来てくれないか──暇を持て余していた私は、つゆ子さんに引きずられるようにして、『ハルジオン』に連れてこられた。
 それが1週間前の出来事だ。

 ギターをケースの中に入れて、チャックを閉める。
 肩紐を掛けて、すぐさま立ち上がった。
 まだお喋りに夢中なブルマンこと、ブルーマンデーのメンバーの方々に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で「お先に失礼します」と、一応声を掛けて控え室のドアを開けようとしたその時だ。
「立夏ァ〜どこ行くんだよォ」
「ヒッ」
 強引に肩を組まれて、取り押さえられる。
 振り返ると、耳まで赤らんだ顔を近づけて、「まだ帰るなよぉ」と駄々っ子みたいなことを言う。酒臭い。重い。同姓じゃなければ、普通にセクハラで訴えてる。
 ブルマンのギターボーカル、圧倒センスでブルマンのノスタルジックな世界観を引き出す天才──小波ヒカルは、板の上だけの存在だ。一度ステージから降りると、古典的な酒カスバンドマンになる。
 ここ一週間、彼女とバンドを組んだ教訓はひとつ。小波さんのペースに飲まれてはいけない、だ。
「離してください。帰るんで」
「ひいん。立夏が冷たい。もっと優しくしろよぉ」
「……私のこと騙してステージ立たせた張本人がそれを言いますか?」
「んあ〜? 私なんか言った? 何も覚えてないからノーカンノーカン」
「……(コイツ……)」
「──おい、ヒカル! 高校生にダル絡みすんな!」
「グエッ」
 いつの間にか私たちの背後に立つ人影が、小波さんの首根っこを引っ張って、引き剥がしてくれた。センターに前髪を分けた黒髪ショートが目を引く、長身でスラリとしたスタイルの美人──ベースの一条さんだ。
「今日は本当ごめん。騙すようなことして。立夏ちゃんくらいのギター弾ける人、そんな居ないからさ……。紹介の時のアレ、結構痺れた」
「えっ、いや、そんな。一条さんのベースもすごく良かったです……」
「ありがと」
「立夏~? なんか私と態度違くないか?」
「そ、そんな事ないですけど」
 これは私だけの偏見かもしれないけど、バンドのベーシストってミステリアスで近寄りがたくて、でも自然と目を惹かれる魔性さみたいなものが出ている気がする。一条さんはまさにそれだ。
 小波さんは目を細めて、冗談っぽく茶化した口調で言った。
「立夏さ、この際うちに入っちゃいなよ」
「……入りませんよ」
「ぬぁんでぇ? どっかバンド入る予定でもあんの?」
「ブルマンにはもうギタリストがいるじゃないですか。入院中の」
「あいつ? あ~もうダメダメ! あのクソ野郎倫理観終わってっから。既婚者女と不倫旅行して生牡蠣当たってんだぜ? バカすぎんだろ。やっぱギタリストってクソだわ~」
 ブーメラン? と思ったけど、口にはしない。
 絡み酒に付き合う気はないから。
「その点、立夏はギターうまいし、可愛いし、素直だし、言うことなし! ねえねえ入ろ~よ~~。うちら結構将来有望なバンドだと思うんだけどな~」
「……私、高校卒業したら東京戻るんです。入っても迷惑かけるので……」
「そうなの? なら、ちょうどいいじゃん」
 一条さんが腰に手を当てて、首を傾けた。艶やかな黒髪が揺れる。
「うちらも来年上京しようと思ってんだよね。大手からお声掛かっててさ」
「大手ってことは……メジャーデビューですか?」
「うん。まあ、上手くいくかはわかんないけどね。こういうのは若いうちに挑戦しとかないと」
「……」
「もし進路決まってないなら、うちに入るのもアリだと思うよ」
「……、考えておきます」
 1週間一緒に練習したから、分かる。ブルーマンデーはすごくレベルの高いバンドだと思う。
 それぞれの役割を理解して、互いを邪魔しない。それでいて、主張するところは前面に押し出す。
 調和のとれた、無駄のない、完成形に近いバンド──だからこそ、私が同じステージに立って演奏するイメージが全く湧かなかった。
 物思いに耽る思考を遮るように、控え室のドアが開く。穏やかな顔つきに薄いフレームのメガネをかけた中年の男性がドアから顔を出す。このライブハウスの店長さんだ。「ほら、次のバンド来るからそろそろ片してね〜」「ハッヤバ! もうこんな時間!」「バイト遅刻する!」蜘蛛の子を散らしたように、各々荷物を持って控室を飛び出る。

 出口に続く狭い階段を上がる途中、私の少し後ろで小波さんが思い出したように言った。
「つか、今日常盤高の子いたよね」
「……エッ」
 思わず肩が跳ねる。後ろを振り返ると、小波さんがきょとんと目を丸くした。
「あ。そういえば、4月から常盤高に通うんだっけ」
「……まあ」
「軽音部ってまだあるん?」
「……あるらしいですよ」
「うわー懐かし。私と一条、常盤高の軽音部でバンド組んでたんだ」
 後ろの方で昔話に花を咲かせ始めるが、正直それどころではなく会話が頭に入ってこない。
 一瞬、脳内に“春の歌”を歌う彼の横顔がチラついた。いや、流石に違うか……というか違ってて欲しい。
 憂鬱とした気持ちで地上へ続くドアを開けた──。
「──ヘブッ」
 突然視界が真っ黒になって、真正面から何かにぶつかった。打ちつけた鼻を押さえて、ふらつく足で数歩下がる。誰だ入り口で立ち止まる迷惑な野郎は!!
 勢いよく顔を上げた。
 が、文句の言葉が喉を通過する前に、私は固まった。
 数秒前に頭に思い浮かべた人物が今まさに、私の目の前に立っていたからだ。
 そして、呆然とする私の手を引いた。
 握られた手のひらは、我に返るには十分な熱を帯びていた。私を守る前髪の防護壁を無に帰すほど、煌々と輝く瞳が、目の前に迫る。
 そうして、彼──高坂春吉は言った。
「アンタに惚れた」
「………………は?」