窓から吹き込んだ風が、まつ毛にかかるほど伸ばした前髪を攫っていく。
 私は手で前髪を抑え、風が止むとすぐさま手櫛で整える。私の前を歩くのは、よれた白シャツを着る中年のおじさんと、パンツスタイルのスーツに身を包んだショートカットの女性。
 中年のおじさんは、この学校の教頭だ。職員室までの道すがら、学校内を案内するという名目のもと、教頭の熱弁は止まらない。やれ、うちの高校は県内ではトップクラスの偏差値だとか、生徒の自主性を重んじているだとか、部活動が盛んで特に野球部は毎年いいところまで行く、とか。
 しきりにショートカットの女性──、私の叔母であるつゆ子さんに語り掛けている。教頭の目にはどうやら私は映っていないようだ。これではどちらが入学するのかもはや分からない。まあ、別にいいけど。
「本校は、校訓にもありますように"自由"を掲げておりまして、」
 前の二人が足を止めたことに気づいて、私も立ち止まる。
 前髪で塞がれた狭い視界の中で、前方から高校の指定ジャージを着た女子生徒たちが二人、やってくるのが見えた。
「教頭先生、こんにちは~」
「こんにちは~」
「はい、こんにちは」
 彼女たちは、教頭に軽く会釈をして通り過ぎる。
 私とすれ違う直前、彼女たちは好奇心に満ちた視線で上から下まで舐めるように私を見た。互いに目配せをして笑いあった後、私たちとは反対方向へと走り去っていく。声量を落とした会話が、ほんの少しだけ聞こえた。
「見ない制服だね。転校生?」「知らないの? ほら、東京から転校してくるっていう……」「あ~あの子がそうなんだ」無意識的に制服の上に羽織っていたカーディガンを手繰り寄せ、さらに顔を伏せた。
「──、……か、立夏?」
「え?」
 顔を上げると、つゆ子さんが心配そうにこちらを見ていた。
「これから担任の先生と話があるから、外で待っててくれる? 終わったら校門に車回すから」
「うん。わかった」
 職員室の前でつゆ子さんと別れ、職員専用の下駄箱で来客用スリッパからローファーに履き替えて、外に出た。校門の前で待っていようかと踏み出した足が、思わず止まる。校門前に部活動を終えたらしい生徒が数人、自転車に跨りながら駄弁っているのが見えたからだ。あの輪の片隅でつゆ子さんを待つ自分を想像して、背筋がヒヤリとした。職員用の昇降口の前で突っ立ったまま動かない私に気づいて、輪の中の数人がこちらを振り返る。
 私は思わず踵を返して、校門とは真逆の方向へ逃げるように早歩き。
 しばらく歩くと、人気のない校舎の裏手側に出た。使われなくなった焼却炉が隅っこで寂しげに佇んでいる。
 ボロいトタン屋根で繋がれた渡り廊下の階段に腰を下ろすと、ようやく心臓の鼓動が落ち着き始めた。
 春を感じさせる暖かな風が頬を撫でる。目を閉じて胸いっぱいに吸うと、春の陽気に混じって潮風の凛とした涼やかな匂いがした。両手を上に突き上げて、大きく伸びをしたその時──ドカーーーーン!!! と、とんでもない爆発音がした。お尻が数センチ地面から浮くくらい飛び跳ねた。
 な、何!? 爆発事故!? 
 渡り廊下を出て、爆発音の発信源を探していると、「おいうるっせーぞ!! 軽音部!!」と、怒号が校舎の中から聞こえてくる。その後すぐに、「すんませーん!」とあまり悪びれていない声が返ってくる。しばらくして、ギターのGコードがジャンジャンと鳴る。
 さっきの絶対、アンプの音量絞り忘れてた奴だ。初心者にありがちな……。
 再び階段に腰を下ろして、頬杖をつく。
 暇つぶしにどこからか聞こえてくるヘタクソな演奏に耳を澄ませることした。コードの切り替えが雑だ。指先をガン見しながらやっているんだろうなと想像が付く。おまけに5弦のチューニングが甘い。聴いていると耳がザワザワする。
 何度か同じコード進行を弾いた後、少し硬い声音で歌声が紡がれ始める──あ、これ、”春の歌”だ。演奏は拙いけど、歌声はやけに耳に残る。10人中10人が手放しで褒めるような声質では無いけれど、2人くらいには刺さりそうな、はっきりとした芯の強いハスキーめな声だ。エレカシとか合いそう。
 その声につられて、自然と足先でリズムを取ってしまう。鼻歌を転がして、サビに向かう1小節前──唐突に風が吹き荒れる。横凪に吹く風で髪が視界を遮った。
 途切れた歌声の代わりに、「あ!」と遠くの方で声が上がった。髪を手で押さえて振り返ると、螺旋を描きながら空から何かが落ちてくる。それは、私の足元に引っかかって、紙の端が鳥の翼のようにパタパタとはためいた。拾い上げて紙を裏返すと、タブ譜だった。
 渡り廊下から顔を出して、空を見上げると──目が合った。2階の窓からひょこっと顔を出して私を見下げる青年が、「あ! そこの人ー!」と大きく手を振った。
「すまん!!! 今から取りに行くから待ってて!」
「……あ、」
 私が口を開く前に、彼は引っ込んでしまった。
 3分くらいその場で立ち尽くしていると、後ろからバタバタと騒がしい足音がした。振り返ると、先程の青年が駆け足でやってくる。背中に回したギターのネックが横から飛び出ていた。
 やけに、心臓が騒がしい。呼吸をするたびに肺が軋む。なんだ、これ。
 私の前までやってきた青年は膝に手をついて、荒い呼吸を繰り返す。顎先を伝う汗を手の甲で拭い、不意に顔を上げた。
「ごめん、助かった。無くしたら、また巡にドヤされるとこだっ……ど、どうした!?」
「──え?」
 意思の強そうな凛とした瞳が、ギョッと見開かれた。
 頬に手を添えると、指先に水滴が滲んだ。……涙だ。あれ? なんで私、泣いてるんだ?
 蛇口が壊れた水道みたいに私の瞳から次から次へと涙がこぼれ落ちた。
「……す、すいません。目にゴミが」
 心配そうに眉を落とす視線がいたたまれなくて、分かりやすい嘘をついて顔を伏せた。
「本当に大丈夫か? ちょっと見せてく、」
 伸びてきた手を避けて、代わりにタブ譜を彼の胸に押しつけた。
「あの、これ!」
「お、おお。悪い」
 歯切れ悪い返事と共に、彼はタブ譜を受け取った。
 ……ああ、もう。最悪。見ず知らずの初対面で、しかも同い年くらいの男子に変なところ見られた。転校する前に黒歴史を作ってしまった。
「ティッシュいるか?」
「……どうも」
 善意を無碍にするわけにもいかず、手のひらに乗せられたポケットテッシュを受け取る。数枚抜き取って、遠慮なく使わせてもらうことにした。涙を拭う間にも、横から突き刺さる視線が痛い。ついに耐えきれなくなり、私は口を開く。
「……チューニング」
「チューニング?」
「5弦。チューニングし直した方がいいです。少し高いから」
「あ、ああ。これか? 今日、チューナー忘れて。勘で合わせた」
 青年は左腕を上げて、背中に垂れ下がるギターを振り返った。モノクロの可愛めのフォルム。エレキと言ったら、まず名前が挙がる──フェンダーテレキャスターだ。
「……そうなんですね(逆に他の弦は合わせられたんだ……すご……)」
 丸めたティッシュを手のひらで握り、恐る恐る口を開いた。
「あの、良ければ──」

 ギターのペグを回して、弦を弾く。ディン、ディン、と音の波を聴き分けながら、音程を探る。頭の中でなるラの音と、ギターの音がピッタリ重なった。
「……チューニング、できました」
「すまん。ありがとな」
 ストラップを外してギターを彼に渡すと、開放弦──弦を何も押さえずにジャーン、と弾いた。
「おーすげえ。なんかあってる気するわ。絶対音感ってやつか?」
「いや……そんな大したものじゃないです」
「経験者だよな?」
「……、趣味で少し」
「どんくらいやってんの?」
「……2年くらいです」
「通りで。ギター持つの様になってた」
「……はは」
 嘘です。すいません。
 本当は小3くらいからやってます。歴は10年以上です。でもそれを言うと、大体引かれるから言わないようにしてます。……なんて言えるわけない。
 ストラップをかけ直した彼は、さっきまで弾いていた”春の歌”のイントロを再び弾き始めた。
「転校生?」
「……え? ……はい。一応」
「何年?」
「4月で高3です」
「同い年だ。4月からよろしくな」
「……あ、はい」
「えっと……あー、名前は?」
「……柳立夏(やなぎりつか)
 ギターの音がピタリと止んだ。
「柳さんか。俺は高坂。高坂春吉(こうさかはるよし)
 見上げた狭い視界の中で、私を見つめて笑う彼は、名前の通り、春のような人だった。
 今の私には、眩しすぎて、少し目に染みる。
「──立夏! 行くよー!」
 私を呼ぶ声でハッと我に返る。昇降口の前でつゆ子さんが片手を大きく振っているのが見えた。
「……じゃあ、私はこれで」
 スカートについた皺を払い、高坂くんに背を向けて一歩踏み出す。「柳さーん!」と、唐突に私を呼ぶ声がして振り返る。人懐っこい笑みを浮かべて、大きく手を振る高坂くんがいた。
「もし興味あったら、見学来て! 軽音部!」
 軽い会釈だけして、その場をすぐに立ち去る。
 高坂春吉。
 根明で、声が大きくて、野球とかやってそうで。
 はっきり言って、苦手なタイプだった。

 #

「さっきの子、軽音部の子?」
「そうみたい」
「は〜今の高校には軽音部があんのね。時代だわ〜」
 運転席でハンドルを握るつゆ子さんが、渋い声で頷いた。
 時速40キロの緩やかな走行で、知らない街並みがパノラマみたいに流れていく。こうして窓の外を眺めていると、本当にここは東京じゃ無いんだなと思い知る。
「立夏。見て、海」
 つゆ子さんが運転席側の窓を開けると、さざ波が打ち寄せるホワイトノイズと、頬を摘まれたような冷たい風が吹き込んでくる。身を起こして、つゆ子さん越しに窓の外へ目をやった。
 海と空の間、水平線が落ち合う境線に、目玉焼きの黄身がどろりと溶け出したような太陽の光が滲んでいる。防波堤を沿って敷き詰められたテトラポッドに打ち寄せた波で、宙に飛沫が上がる。それは、太陽の光に反射してキラキラと輝いていた。
 しばらく海沿いの風景を眺めていると、ふと視線の隅を白い何かが掠めた。それを追いかけてバックドアガラスを振り返った瞬間、隣から声をかけられる。
「あそこの床屋さんを左に曲がって、直進したら到着。どう? 覚えやすいでしょ?」
「うん。覚えた。……ごめんね、付き合わせて」
「そんな畏まらなくていいって言ったでしょ。今日から私が立夏の保護者なんだし! 遠慮せずわがまま言いな?」
「……うん。ありがとう」
 小さく頷くと、つゆ子さんはバックミラー越しに私を見て小さく微笑むのだった。

 つゆ子さんは母の妹にあたる、私の叔母だ。
 普段はカメラを手に世界中を飛び回る写真家で、この街にやってきたのも、1冊の写真集を作るためだと言う。
 これから1年をかけて、この地域に訪れる四季折々をカメラに収めるために、数年ぶりに日本に帰国したのだ。私はそれに帯同する形で、東京から引っ越してきた。
「ごめん、引っ越してきたの一週間前でさ。色々片付いてなくって」
 建て付けの悪そうなすりガラスの引き戸を開けると、つゆ子さんは勝手知ったる感じで土間を上がった。玄関から続く長い廊下には、ダンボールが山積みにされており、人がひとりがやっと通れるくらいに狭い。
「……お邪魔します」
 ローファーを脱いで段差を上ると同時に、眼前に何かが差し出される。一瞬、何か分からなかったけれど、鍵だと気づいて、顔を上げた。つゆ子さんは左手を腰について、わざとらしく難しい顔をした。
「ただいま、でしょ?」
「……うん。ただいま」
「よろしい」
 手のひらに乗せられたそれを握り、もう一度開く。
 メッキの禿げかけた古めかしい鍵に私の体温が移って、緩い熱さが手に馴染んだ。
「ね。立夏、寿司好き?」
「あ、は、はい!」
「よし。今日は記念すべき日だから、出前取ろう! ここの魚美味しいわよ〜! 東京ではまず食べられないんだから」
 ジャラジャラ、とつゆ子さんが珠のれんをくぐった音が廊下に響く。しばらくして、「あ、そうだったそうだった」とつゆ子さんが顔を出した。
「アレ、立夏の部屋に運んどいたから。2階あがってすぐの部屋ね」
 左手を横に構え、右手を振り下ろすジェスチャーをしたつゆ子さんを見て、一気に心拍数が上がる。
「──ありがとうございます!」
 勢いよく頭を下げて、私は2階に続く階段を駆け上がる。2階を上がってすぐの部屋──閉じられた襖を開けると、ピュウと窓から吹き込む風が前髪を吹き上げた。窓から差し込んだ鮮やかな赤に照らされて、”それ”は私の足元まで長い影が伸びていた。
ギタースタンドに立てかけられた一本のギターが、鎮座している。
 生唾を飲み込んで、ネックの部分に手を添えると、懐かしい感覚に鼻奥がツンとした。「おかえり」と、口に出してみる。両手で抱きしめると、シーソーのように不安定だった心が、凪いでいくような気さえした。
 ストラップを肩に通して、ギターを構える。
 初めて、ギターに触れたときを思い出す。
 父が別れ際にくれたギターを、狭いクローゼットの中で弾いた日。懐中電灯の頼りない灯りの中で、私は右手を振り翳して──開放弦を鳴らす。
「ふふっ……全然合ってないや……」
 息を吸う。天井に向かってゆっくりと吐き出す。
 ああ。やっと。
 やっと、息が吸えた。

 #

「ふい〜食った食ったぁ〜」
 豪快にお腹を叩いて、つゆ子さんは畳の上に大の字になった。空になった寿司桶を持って台所に向かう私を見るなり、「立夏ぁ、ビール持ってきて〜」と、甘えた声が飛んでくる。広間で伸びているあの人は、本当に今日学校でスーツを着こなしていたつゆ子さんと同一人物なんだろうか。ちなみに冷蔵庫の中は、酒と水しかなかった。私が越してくるまでこの人は一体何を摂取して生きてきたのだろうか。
 ビール缶とペットボトルの水を一つずつ手に取って、広間に戻ると、縁側でぼんやり空を見上げるつゆ子さんの背中が見えた。静かに隣に腰を下ろすと、つゆ子さんは待ってましたと言わんばかりに笑みを浮かべた。
「どうぞ」
「お。ありがと〜」
 プシュ、と軽快な音を立ててプルタブを開け──こちらにビールをかけ向けた。今日二度目の乾杯だ。私は手にしたペットボトルを当てた。カコン、と鈍い音が鳴る。
「ようこそ我が家へ」
「……はい」
 隣で豪快にビールを煽るつゆ子さんの横顔が、月の光の中で青白く光って見えた。手のひらの冷たい感覚が無ければ、今ここにいることすら夢だと錯覚してしまうところだ。
 ここはもう、東京じゃない。
 ここでなら、隠れてギターを弾く必要はないんだ。
 私は、改まって姿勢を正した。
「つゆ子さん、ありがとうございます。おかあ……母を説得してくれて」
「ん〜? いいよ、もう。それは散々聞いたって」
「……でも、こんなに迷惑ばかり……つゆ子さんに返せるものが……」
「──よし、分かった」
 つゆ子さんは、カコン、とビールを床に置いた。
「ひとつ条件を出す」
 目の前に突き出された人差し指を凝視する。
「高校卒業するまでの1年間──なんでもいいから、立夏のやりたいことを見つけること」
「やりたいこと……」
「別になんだっていいさ。ファッションとか、勉強とか、音楽とか、それこそ私みたいに”これ”でもね」
 つゆ子さんは、両手で人差し指と親指を使って四角いフレームを作り、その中からじっと私を見つめた。
「一年後、立夏のやりたいことを聞かせてよ」
「……」
「どんなことでも、あんたの味方になるからさ」
 春を感じさせる柔らかな風が吹く。
 一瞬にして広がった私の世界の景色が、とてつもなく恐ろしいものに見えた。
 私はすぐさま視線を逸らして、頷く事しかできなかった。