「……叫びたがってる、か」
手にした歌詞ノートを天井に向かって掲げる。影に覆われたノートはあいも変わらず憎らしいほど真っ新だ。
ベットの上で寝返りをうつと、和紙に透かしたまろい電球の光が眩しくて、自分の顔にノートを被せた。
瞼を閉じると、じんわりと疲労が全身に広がっていく。最近、ずっと曲作りで悩んでいたからだろうか。
叫びたいほどの想いがあったって、私には言葉にする勇気がなかった。本音を口にするのは、勇気がいる。勇気を手にするには、自信がいる。自信を育てるには、他者からの評価に左右されない強い心が必要。全部、自分にないものだ。
「ほんと、どいつもこいつも、簡単に言ってくれる……」
それが出来たら、こんなんなってねえんだよ、バーカ。
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練習では、ミスなんてしたことのない箇所だった。
晴れやかな笑みを浮かべてトロフィーを掲げる演奏者の後ろ姿を、私は茫然と見ていた。眩いステージライトの輝きの中、青年が深々とお辞儀をする──本来だったら、そこに立っているのは私のはずだったのに。
何がいけなかった? 練習量が足りなかった? 気持ちの作り方? 曲と向き合えていなかった?
押し寄せる後悔の波の中、しかし、頭の片隅では驚くほど冷めた気持ちで物事を俯瞰している自分がいた。
……あーあ。また、お母さんに怒られる。
「貴方には失望しました」
頬に走った痛みは、思いのほか重かった。フローリングの上に投げ出された私は、チクリと痛みが走る右頬を押さえた。母のネイルが引っ掛かったせいだろう、手のひらを伝って一筋の赤い線が腕まで流れ落ち、床には赤い染みができた。黒板を引っ搔いたような甲高いヒステリックな声が、私を罵倒する。
こういうときは、いつも呪文を唱える。
私は、透明人間、透明人間、透明人間。だから、どんな罵声を浴びせられても、平気だ。
最初は耳を劈くような母の声も、まるでどこか遠い国の出来事のように思える。私ではない私が代わりに母の憎悪を受けてくれる感覚だった。
「どうして言われた事も出来ないの!」
「今まで完璧にできていたじゃない!」
「次で結果が残せなかったら、どうするつもり?」
「私が貴方にどれだけ尽くしたと思ってるの!?」
──うん。大丈夫、まだ、大丈夫。
母の目の届くところはすべて監視されているようで、息が詰まる。家にも、学校にも居場所のない私は、クローゼットの中だけが唯一の安全地帯だった。懐中電灯から伸びた一筋の光でタブ譜を照らしながら、私はヤケクソにギターをかき鳴らした。ギターに繋いだヘッドフォンから聴こえてくるのは、私の叫びだった。
両肩にのしかかる母の期待も、白い目を向ける学校の奴らの蔑みも、ここにはない。
誰かに分かってほしい、肯定してほしい、認めてほしい、頑張ったねって言ってほしい、1人は寂しい、助けて、助けて誰か、誰でもいいから、お願いだから、私を助けてよ!!
叫ぶ。叫ぶ、叫ぶ。私の代わりに、ギターが叫んでくれる。叫びたいほどの想いがある。はち切れそうな感情が、今、私の鼓動と共に産声を上げる。
でも、同時に天邪鬼な私が顔を出す。
否定されたくない! 同情されたくない! ほんの上辺だけ理解されるなんて死んでもごめんだ。誰に分かってもらわなくてもいい。だって、私は可哀想なんかじゃない!
たった一畳にも満たない、私の揺籠。私だけの世界。
それだけがあれば、もう他に何も要らない。それさえあれば、酸素の薄い世界でも、私は息が吸えるから。
「これは、なんですか?」
私のギターだった。リビングのローテーブルに横たわっていた。これから処刑される罪人のように。
母の顔を、見られなかった。首を絞められたような閉塞感で、視界がぼやけた。
「あの男に貰ったの?」
「……あ、の……ご、ごめんなさ、」
「あの男に貰ったものかどうかを聞いてるの!」
振りかざした母の手が、テーブルに叩きつけられた。反射的に私の肩が大きく跳ねる。私は、透明人間、透明人間、透明人間。何度も呪文を唱えるのに、いつものような感覚にならない。初めからそんな魔法はなかったとでも言うように。
涙が私の視界を覆う。言葉が痞えて、何も喋れない。言い訳しなきゃ。何か上手い言い訳を! じゃなきゃ、このままじゃ取り上げられてしまう。そうしたらもう、私は私でなくなる! 何か、言え! 早く! 言えよ! どうして、どうして声が出ないの!
「信じられない……あいつはアンタを捨てたの! そんな男のギターが、そんなに大事ですか!」
「ち、ちがっ……お、お父さんがくれたからじゃ……」
「あの男をお父さんって呼ぶんじゃないッ!」
母は、酷い金切り声とともに、テーブルに置かれていた花瓶をなぎ倒した。床に落ちたそれは、耳を塞ぎたくなるような破裂音の後、粉々に砕かれたガラスの破片が私の足元にまで飛び散った。スリッパに身を包んだ母の足がガラスを踏みつけて、私に飛び掛かってくる。真っ赤なネイルが肩に食い込むほど掴まれて、大きく揺さぶられた。
「ねえ、立夏もお母さんを馬鹿にするの? お母さんがどれだけ貴方のためを思って尽くしてきたと思ってるの? どうして分かってくれないの? こんなに頑張ってるのに!」
血走った眼にぐしゃぐしゃにして泣く私の顔が反射している。でも、お母さんが見ているのは私じゃない。いつだって、可哀そうな過去の自分しか見えていない。だって、お母さんにとって、私は──自分が叶えられなかった夢を実現させるための道具だから。
「貴方にこんなもの、必要ないのよ!」
母の手が、ギターに伸びる。
刹那、私の世界は一切の音が止んだ。そして次の瞬間、張り詰めたか細い糸の切れる音がした。
そこから先は、よく覚えていない。覚えているのは、自分の最後の言葉だけ。
「──それに触るな!!」
私ってこんな大声出せたんだな、と、思った。
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目が覚めると、見知らぬ天井があった。
網戸からすり抜けてくるじっとりとした雨の匂いが、私を現実に引き戻してくれる。
……そうだった。ここは、東京じゃない。
「……、最悪」
両腕で視界を遮った。額から吹き出した脂汗が、雨に打たれたかのように冷え切った腕に滲む。数日間寝込んだような倦怠感が体を支配する。
ここにきてからぱたりと見なくなった悪夢を、久々に見た。
多分、原因は二つ。一つは、曲作り。もう一つは……。
まるで私の心模様を現したかのように、窓の向こうから雷の唸る音がした。風はより一層強く吹き荒れ、壁にかけたカレンダーが捲れ上がる。カレンダーの日付の中で、唯一今日の日付に大きく×が書かれていた。
今日は、定期報告の日。
それが、私がここに来るための最低条件だった。



