「シオ様!猿の異形めが逃げ出しました!!」
仕事の途中、突然の報告にすぐさま武器を手に取り駆け出した。
地下牢に堅く封じていたはずなのに、一体どうやって逃げ出したのかは分からないが、今は一刻も早く被害を抑える事が最優先だ。
城の廊下の窓を開け、そこから屋根へと飛び移った。
そこから見えるミツドナの町の全景。視界の端に逃げ出した異形を捉え、そこに向かおうと屋根を蹴った時だった…。
町のはずれに禍々しい瘴気と共に、もう一匹、新たな異形の出現を目視する。
(まずい…!)
一度に二匹は手に負えない…。
屋根に踏みとどまれば、ガララと屋根瓦が音を奏でる。二匹の異形を前に、対処に迷う自分の肩に、ぽんと暖かな手が置かれ振り向くと漆黒の髪が見えた。
「猿の異形は任せて大丈夫か?」
フッと笑ってこちらを見る兄上様に目を丸くしながら、咄嗟に「はい」と頷けば、兄上様は武器である槍をその手に、新たに現れたもう一匹の異形の方へと駆けていった。
深紅の衣を翻し、駆けるその姿はまさに王そのものだ。自分はまだこの人に敵わないなと痛感するのに、前ほどの嫌な焦燥感や背徳感に苛まれないのは、きっとあの人のおかげだろう…。
由羅様や、兄上様の期待に応えるためにも、自分も早くこの国を背負うに足る人間にならなければならない。
「申し訳ありませんが、私の愛する民に手出しはさせません」
守れる人間に私はなってみせる。と己の武器である爪を構えると、猿の異形の血走ったその目が私を見る。
四本もある腕と、太く長い足と尾を器用に使い、屋根を飛ぶようにぐんぐんとこちらに駆け襲いかかってくる異形に私は腰を低くする。
「あなたも身のこなしに自信がおありのようですが、私も長けている方だと自負しております」
おとなしく牢に戻っていただきます。とドカンと落とされたその腕の攻撃を避け、反撃に出ようとした時だった…。
ぶわり、と突然に豪風でも吹いたかのように、自分の体に衝撃が走るーー…。
「っ、これ、は…!」
あぁ…、なくなる…!
最初に思ったのはそれだった…。
自分の中にずっとあった何かが、暖かな光に溶けていく感覚…。
恐ろしくて怖いような…、待ちわびて喜びにあふれているような…
よくわからない自分の心情に、気付けば大量の涙が頬に流れていた。
異形を目の前に民を守らねばならないこんな時に、何故…。と、どこからか冷静な自分が嘆くのに、体はいうことをきかず、固まってしまい、涙もとまらない…。
「ギャギャギャガア!」
怒り狂ったように、猿の異形が襲ってくるのに
涙で滲む視界のせいで、それがよく見えない…。
「シオ!」
ーギィン!と猿の爪がはじき吹き飛んだ。おかげでそれは自分を襲う事はなかったが、目前に現れた深紅の衣に慌てて涙を拭う。
「大丈夫か」と見てきた兄上様に、助けられてしまったらしい…。
「申し訳ありません」
不甲斐なく見上げた兄上様の頬にも自分と同じように涙が流れていて、驚いた。
なんだというのか…。一体何が起こっているのか…。
「…おそらく、これは一時的だ。涙もじきおさまる。自分の中の光に寄り添え、シオ。」
にっこりと小さく笑い、再び別の異形の元へと駆けていった兄上様は、この涙の原因を知っているのだろうか…。
(………いや、そうではない)
知っているのではない。分かったんだ…。
そしてきっとそれは、私にも分かる事であるのだろう…。
「ギィギィガァ!」
「…あなたも、分かっているようですね?」
唐突に腑に落ちた。
どうやら終わりの時が来たようですね…。
長く、永い、時間を共に過ごした気がするのがとても不思議ですが、それも今日この時まで………。
「・・・お疲れ様でした。狂猿」
異形にしては小ぶり。だけど猿にしては巨大なその体を、私の武器である爪が鋭く深く切り裂いた…。
声にならない断末魔を発しながら、シュウシュウとチリへと消えゆくその姿に私の頬に涙がまた零れる。
言いようのない喪失感に襲われながらも、感傷に浸る時間はないと涙を拭い、屋根の上を飛びながら兄上様の元へ迎えば、ちょうど異形にとどめを刺す瞬間だった…。
「さらばだ羊害。10年前の因縁ここではらさせてもらう」
長く大きな巻角をもつその異形は、10年前この町を襲ったその異形だ。
その時以来、初めて現れた仇ともいえるその異形に兄上様が一体どんな心境なのかは、私には計り知れない・・・。
「兄上様…」
「シオか…お前の方も終わったか…」
「はい…」
そうか…。と空を見上げる兄上様は母上のダリア様の事を想っているのだろうか…。異形がチリへと消えていく光景に目を伏せる。
胸が痛く、苦しい。それなのに、ひどく安堵し、安らかだ…。
この矛盾を表す言葉を私では思い浮かばない…。
「シオ…」
「はい、兄上様。」
「涙が止まらない。」
「…。」
「それとなんだか、物凄く由羅君に会いたいのだが…これは何故かな」
「不思議と…私も同じ気持ちです…。」
心にじわりと広がる暖かな光に、由羅様を感じるからだろうか…。
今すぐにでもあの人の元へ行きたい衝動にかられ、また少し泣きたくなった…。
