数百年の歴史があるこの旅館は、引き戸下の木目を踏むたびキシリと小さく鳴き声をあげる。
 その音を聞きながらこの部屋に入るのも、もう何年目か覚えていない。

 旅館の名は『リナリア』

 色鮮やかな花の名前を持つその庭先には、まるで自己主張のように同じ名の花が植えられていたけれど…
 冬が近づきプランターに移し替えられたか、いくつか庭先から室内へと避難されているそれを見て(もうそんな時期か…)と私はわずかに白みを帯びた息を吐く。


 キシキシと鳴く床板を歩き、窓際の座椅子に座ると、その窓からは活気ある市民達が町を往来する姿が見える。
 平穏ともとれるそんな光景を素直に受け取れないのは…
 今、私の頭がそれどころではない問題を抱えているからだろうーー

 いつからか、どうしてか。
 何もわからないが…私は今、大事なものをなくしている。

 それがなければ、この世界も私自身も
 存在意義が危うくなってしまうような、それほど大事なものなのだけど……。


「一体、どこになくしたのかな……」


 今日も今日とて見つからないそれに、どこでもない場所を見ながら呟いて…
 懐から取り出したキセルに葉を詰めていく。
 ーシュ、と小気味良い音と共に灯った火をキセルの火皿に近づけた時だったーーー。

 窓際に座る私の目の前、つまり部屋の中心の何もない空間から、『カラン』と鐘の音のような高く響く音が聞こえてきた。

 突然の事に体が固まるのは仕方ないとして、空耳かと耳をすませば、確かにもう一度『カランカラン』と何もないはずのそこから聞こえてくる…。

 一体いま、何が起こってるのか…。
 それを理解することに集中しよう、と持っていた火とキセルを一旦座卓に戻す。

 『カランカラン』と警報なのか祝砲なのかすらわからないその音が止み、それが何か、結局と理解できなかった脳内が、もしや幻聴なのかと疑いはじめた時ーー


 ードサリ、と消えた音に変わり、一人の人間が現れ部屋の床に落ちた。


 紺色の衣服からは肌色の手足が伸び、髪の毛は長く、胸は膨らんでいる。
 一見して普通の女性にしか見えないその人間は、目を瞑ったまま呼吸をし、ただ眠っているようだった。


 いくら私とて、現状を理解しようとするのはさすがに時間を有した。
 その長い時間の中で出てきたのは、自分で考えるよりも、目の前で眠っているこの女人を起こした方が早い、という結論だった。





ーーー





「あぁ、最悪だ…」


 脇から離した体温計を見て、大きなため息と共に呟いた声は一人の部屋にむなしく響いた。

 ケースに戻したそれにはしっかりと平熱に戻っている自分の体温が表示されていて…、熱で休んでいた会社へと、3日ぶりに出社しなければいけない事実に、もう頭痛などしないはずのそこが僅かに痛む。

 のそのそと布団から起き上がり、いつもだったらすぐつけるはずのテレビのリモコンすら手に取る気力がわかない。

 思い浮かぶのは3日ぶりに出社した自分へ上司から言われるだろう小言の数々。
 自己管理がどうとか、最近の若者は体が弱いとか、会社にどれだけ迷惑がかかるかとか…
 言われるであろう事が容易に想像できてしまうのは、それができるほどそういう環境に自分がいたからではあるのだけど…。

 呼吸するように部下達にイヤミを言うその上司は陰でMr.イヤミとあだ名がつけられるほど、昨今には珍しい時代遅れの上司だった。

 そんな職場に何年といれば。体に染みつくのは悲しい事に社畜精神というやつで、無遅刻無欠勤サービス残業休日出勤が当たり前の生活に限界がきて倒れたのが3日前。
 鉛のように重い体は病み上がりのせいだけではないなとぼんやり思いながら、私は朝の支度にとりかかった。

 朝ごはんを食べる食欲すらわかず、コーヒーを一杯だけ飲むと、紺色のスーツに袖を通して仕事用のカバンを肩にかける。

 一人暮らし向けのこの小さなアパートのドアは鉄製で、触るたびに体温が奪われるような気持ち悪さがあるけど、それにももう慣れてきた。
 こういう時、ペットでも恋人でもいれば、いってきます、と声をかけられるのだけど、あいにく私にそんな存在はいないため、一人無言で冷たいドアノブに手をかけた、その時だったーーー

 ーーー『カラン』、と突然聞こえてきた綺麗な鐘の音に、無意識にテレビを見るけど、そこは何も映ってはない…。
 当然だ、今日私はテレビのリモコンすら触っていない。

 でも、じゃあ、なんの音?

 隣の部屋の人が何かしているのだろうかと疑いながら、私はドアノブに添えていた手に力を込めて重い鉄の扉を押した。

『カラン、カラン、カラン』

 もう、うるさいな…。
 まるで脳内に直接響くようなその鐘の音が、どこから鳴っているのか辺りに視線を走らせながら部屋を出たのがいけなかったのかーー

 ーー私は自分の足が床ではなく、空を蹴った事に、気付くのがだいぶ遅れてしまった…。

 いつもだったらそこにあるはずのコンクリートむき出しの通路はなく、行き場を失った私の足が空振りした瞬間、ひゅっと自分の呼吸が一瞬止まる。

 おそらく何かの穴のようなものに落ちたのだろう事はすぐに分かった。

 重力に逆らう事なくビュウウと風切り音を立て落ちていく自分の体が、もううまく動かせないほど風圧がひどい。
 一体どんなスピードで落ちているかもわからないまま、まるでマンホールのような狭い空洞をぐんぐんと落ちていて…。
 掴まるものはないかとじたばたする手足は、なにも触れることができないし、目は暗闇しか捉えることはなかった…。


(なにこれ!なにこれ!)


 ビュゥウと自分の体がどんどん下へと落ちていく風の音と、ドクドクと恐怖に叫ぶ自分の心臓の音がうるさい。

 もがいても意味はなく、叫んでも声がかれるだけで…、一体どれほどの時間下へと落ち続けているのか、考えるのも億劫になってきたころ…。
 私の頭は、僅かな冷静さを取り戻していた。


(もしかして、夢かな?)


 あまりの非現実的な現状に、いよいよ脳が逃避しだしたのかもしれない。
 だけど確かに夢だと片付けたほうが納得いく。

 結構な速さで落ち続けているのに、まったく底につく気配がない。
 現実ならとっくに体を地面に打ち付けて死んでるはずだし、そもそもアパートの私の部屋の玄関前に突然こんな穴が出現しているのがおかしい話だ。

 本当の私はまだ熱に侵されていて、悪夢を見ているのだろう、と脳が答えを出しかけた時だった


ーポワ


 あまりにも突然に、私の目の前に金色の光が現れたーー。


「は…?」


 ふわふわと漂うそれは、落ちていく私と並行しながら、まるで私の存在を確かめているかのように、私の体の周りをくるくるふわふわと漂いだした。

 不規則な動きと淡い光に、子供のころに見た蛍の光を連想させる。

 これは一体なんなのか…

 不思議に思いながら観察していると、その光は私の顔の前でふと止まってみせた。
 正確には下に落ちているので、顔の前で並行していると言ったところだけど…。


「なによ、助けてくれるの?」


 人の言葉なんて無機物らしいこれに通じるなんて思ってもないが、この暗闇の穴の中、唯一現れた光にすがるようにつぶやいた

 夢なら覚ましてほしいし、もしもこれが現実だというなら、もうそれでもいいから終りにしてほしい。

 できることなら痛みのない終わりが良かったけど、よくわからない穴に落ちて終わるなんて…それもなかなか面白くていいんじゃない?

 夢でも現実でも、もうどちらでもいいけれど…。落ちるのにもそろそろ飽きてきたから、どうにかしてよ。

 そう願いながら、顔の前で並行するその光に手を伸ばすーー

 ーー触れたそれは、以外にも形があったようで小さな丸いビー玉のようだった。

 子供の頃、集めてたりしたな、と思い出した時、突如金色の光が強くなり、暗闇だったそこを覆いつくすようにブワリと光が広がった。


 あまりの眩しさに目を閉じる。
 『カランカラン』とまたあの鐘の音が聞こえた…

 その音が、何か言葉を発しているような気がしたけど、それを確かめる前に私の意識は途絶えていった。