君の一番になりたかった。【短編集】



もう一度洟をすすった時、ふと手に冷たい感触がした。

反射で顔を上げると、今度は瞼に当たる。


空は所々に雲があり、晴れ間も見えている。

”それ”は段々と勢いを増して、2つ、3つと私を目がけて降ってくる。


-夕立だ。


鞄には折り畳み傘を常備してある。

けど、今の私にそれを取り出す気力など残っていない。
むしろ、この冷たさに、惨めな気持ちに、黙って浸っていたかった。

雨はどんどん勢いを増し、次第に私のカーディガンの色を変えていく。


もう、なんでもいいや。

どうせだったらこのままびしょびしょになって、風邪でもひいてしまえばいい。

そしたら、明日は旭陽に会わなくて済む。

どんな顔をして会えばいいかなんて考える必要も、なくなるんだけどな。





「……あ」


突然、聞き馴染みのある声が、すっと耳に入ってきた。


「え、ちょっと先輩!? 何してるんですかこんなとこで」


道路の向こう側にいた彼は、私を見つけた途端、急いですぐ近くの信号まで走り、もどかしそうに立ち止まる。

今は人に会いたくなかったのに。
信号が変わる前に逃げ出そうという私の思いも虚しく、すぐに青になってしまった。


「……千紘」

「千紘。じゃないですよ。傘はどうしたんですか傘は」


コンビニにでも行ってきたのだろうか。
千紘は手に提げていたレジ袋を躊躇いもなく地面に下ろし、傘を私の方に傾けた。

それから大きめの白いハンカチを取り出し、「もー、こんな濡れて」と私の肩を優しく叩いている。


髪を拭こうと私の顔に目線を動かした瞬間、千紘は驚いたように固まった。


「……せんぱ」

「嫌っ」


涙でぐしゃぐしゃになった顔を見られたくなくて、思わずバッと下を向く。

最悪だ。
意識がぼーっとしていて、そこまで思考が回っていなかった。

後輩の、よりにもよって千紘の前で、こんな姿なんて見せたくなかったのに。

千紘はどう思うだろう。
彼には、旭陽のことは話してある。
こんなことになっている理由を、千紘は訊くだろうか。


「……先輩、とりあえずどこか軒下にでも入りませんか」


私は俯いたまま首を振る。

一瞬の沈黙のあと、再び冷たいものが全身に当たりだした。

気になって見ると、千紘は軽く傘を振って畳んでいた。


「え、千紘……風邪ひくよ」

「それ、まんま先輩に返したいですね」


千紘はなんてことないように言って、私を振り返った。


「けど先輩、そのままでいたいんでしょ。だったら俺だけ差してんのもおかしいし、どうせなら一緒に風邪ひきましょうよ」


別に無理に話そうとしなくてもいいから、少しだけ一緒に歩きません?
そう言って、袋を拾い上げてから私に歩調を合わせるようにゆっくり歩き出した。


「傘、持ってなかっただけかもしんないじゃん。これだって、ただ雨で濡れただけかも」

「”かも”って言ってる時点で嘘ですよね。先輩が、傘常備してるんだーって俺に見せてきたこと、覚えてますからね」


そんなことを言われてしまったら、もう何も言い返せない。

千紘はなぜか、いつも私の考えていることを見透かしてくる。
私がどんなに嘘をついても、全部見破られてしまう。

当の私は、千紘が何を考えているのかいつもわからない。

当たり前といえば当たり前だけど、急いでいても信号は律儀に守ったり、はたまた私が首を振るだけで全部察して自分まで雨に降られようとしたり。


「そういえば、昨日うちにヤツが現れたんです。あの触覚の長い、憎きヤツが。そんで軽くパニックになってたら蜘蛛が出てきて、ヤツを食べてくれたんすよ。普段は忌まわしいものでも、役に立ってくれてるんですね」

「……何で今その話」

「その後帰ってきた母さんに同じ話したら今度は蜘蛛にビビってました。あいつ良い奴なんですけどね」


ほら、やっぱりわからない。

泣いている人の隣を歩きながら虫の話をする人は、果たしてどれくらいいるのだろうか。

多分、そう簡単に見つかりはしないだろう。


「先輩、何か言いました?」

「……いや、なんも」

「ならいいです。あ、てか今日用事とかありませんでした?」

「ない。なんで?」

「いや、どうせこのまま家に帰るつもりなんてないだろうし。もし先輩がなんか忘れてたとかだったら俺が怒られるじゃないですか」


心配してくれたのかと思ったら、自分のことか。
まあ、千紘らしいけど。


千紘は私が落ち込んでいるとき、旭陽が傍にいられないときは、決まって隣にいてくれる。
そしてそういうとき、決まって全然関係ない話をする。

辛いときに限って千紘が現れる原理は私も千紘もわかってないけど、いつしかこれが当たり前になっていた。

旭陽も千紘のことは信頼していたようで、付き合っていた頃も千紘だけは私の隣にいることを許容してくれた。


…………旭陽。

もしかしたら、信頼というより、大して気にしていなかったのかもしれない。

私への恋愛感情が薄れていたから、嫉妬もしなかったのだとしたら。

いつから?

いつから、旭陽は。


「…………旭陽……」


急に立ち止まってまた俯く私に、少し遅れて止まった千紘が振り返る。

無言で寄り添ってくれる千紘に、ふと罪悪感を覚えた。

きっと千紘は、見返りだとかそういうのは求めていない。
さっきだって、何も言わなくていいと言ってくれた。

けど、何も話さないままでいるのは、私が許せなかった。


「千紘」

「はい」

「……聞いてくれる?私の話」

「嫌なんて言うわけないじゃないですか」


千紘はそう言って、小さく笑った。