ヤンキー高校のアリス

※ ※ ※


「おひい……?」
「なんですかこれは!」

 聞き知った声が立て続けにそう言うから、わたしは泣き濡れた目で振り返った。
 千住くんとあずき先輩だ。

「あ、……先輩」
「誰がこんな……まさか麗華様が?」
「……はい」 
 
 あずき先輩はわたしの絵を痛ましげに見た。投げ捨てられた墨汁の容器を拾い上げた千住くんが、悲しげな顔でこちらを見ている。
「おひい……」

「まさか私の聖域にまで手を出してくるなんて……麗華様……」
「どうしましょう、先輩。あと三日でなんて……」
 汚れた夏祭りの絵を見て、わたしはまた泣きそうになる。
「無理です、どう考えても。……無理です」
「落ち着いて、有朱さん。……ところで千代田くんは」
「まだ来てません」
「……」

 あずき先輩は目を細めて唇を引き結んだ。

「彼にも聞きたいことがあります。ひとまずは床を掃除しましょう。できる限り絵画の復旧のお手伝いはしますが……それでも間に合わなかった場合は、あの天使の絵を有朱さんの名義で展示しましょう」
「えっ」
「……せっかくの文化祭に、私が至らなかったせいです。ごめんなさい」
「あ、あずき先輩が謝ることじゃないです、だって――」

――誰のせいでもない。

言いかけて、わたしは止まる。

本当に?
本当に麗華のせいじゃないの?
本当は、麗華が全て悪いんじゃないの?

「おひい。……明日から部活中、ここで勉強してもいい?」
 千住くんが言った。
「え」
「顧問の先生に掛け合ってみます。私としては是非お願いしたいですが、一応」

 わたしは千住くんの顔を見つめた。そこに確固たる決意がみなぎっているのを見て、わたしは頷いた。

「うん……」



「千住に聞いた。……大丈夫か、ありす」
「わたしは大丈夫」
 絵が大丈夫じゃない。
 泣いても絵は帰ってこないから、泣きはしないけど。
「……ただ、許せないだけ」
「何の絵だったんだ?」
「夏祭りの絵」

 るいくんは痛みをこらえるような顔をして、私をみつめた。

「……そうか」
「だから、許せないだけ。……殴りたいとか、痛い目に遭ってほしいとか、思わないけど。ただ……謝ってほしい」
 わたしは少しずつ本音を吐く。
「わたしの今までが、全部なくなっちゃったみたいで――」
「うん」
 るいくんはわたしの手を握った。
「……わたしに痛い目を見せたかったなら、大成功だと思う。……ほんとに」
「ありす、でも、――」

 何か言いたげにるいくんはわたしの手を握りしめた。だけどわたしは、彼の言葉を聞く余裕がなかったから――、

「負けないよ」

 全てを封じるように、告げた。

「わたしは麗華に負けない。……【姫】としてじゃない。わたしとして、負けたくない」

「……うん。それでこそ、オレの彼女だな」
 るいくんは安心したみたいに笑った。握り合った手は、固く固く結んでほどけない糸みたいだった。


※ ※ ※


 一方その頃。八王子が訪れたのは空き教室だった。そこに麗華の根城がある。時に【クイーンオブハート】の本拠地として、そして麗華のごく個人的な居室として使われているその部屋は、常に施錠されており、中を覗くことはできない。

 だが、八王子の来訪を待っていたかのようにその扉はすんなりと彼を受け入れた。

「あ、……早い。復讐?」
「復讐? なんのことです」
 八王子は首をかしげてみせた。甘いマスクが一層甘く笑む。
「僕はただ、【女王】が僕をお呼びだと聞いてやってきたまでですが」
「あれ、何も知らないんだ。【姫】の大事な絵を汚してあげたから、その復讐かと思ったんだけど」
 八王子は顔色を変えず、麗華の前まで歩み寄り、その膝元に(ひざまず)いた。
「何があったかは知りませんが、南中の【参謀】、ただいまここに参上いたしました」
「てっきりあの【姫】に骨抜きにされてしまったと思っていたけれど、こうしてきてくれるってことは、そういうことなんでしょ?」
 麗華が微笑み、そのおとがいに指を掛けた。そして、花に誘われる蝶のように、八王子に口づける。八王子は応えるように麗華の肩に腕をまわし、キスに応えた。

「――人払いを」
 口づけの息継ぎの間に、麗華が一言命じると、控えていたヤンキーたちはぞろぞろと列をなして居なくなった。残されたのは八王子と麗華のみ――。

「あたしはね」はだけていく肌を嬉しそうに見下ろしながら、麗華は無邪気に言う。
「あたしより持ってる奴が大嫌い。わかる? 縞」
「もちろん。存じてますよ」
 
 甘い声がひびく。校舎に似つかわしくない水音がする。

「全部奪ってやりたいの。不幸にしてやりたいの。縞……」
 麗華の飾られた爪が、脱げかけた八王子のワイシャツをくしゃりと握った。

「手始めに、あんたからよ……、――ね、これであたしのもの」
「【女王(クイーン)】。……麗華。ダメですよ、僕だけ見ててくれなくちゃ。足立や千住なんか、本当は貴女の目に入れたくもない」
「ふふ、嫉妬? うれし――、あ」

 八王子は、伝う汗を拭えずに顎から滴らせる。脳裏にいるのはただ一人。


『守ってくれて、ありがとう』
 あの日の膝枕。
『縞くん』
 あの日の水族館。あの日のキス。

――僕ひとりの身でどうにかなるのなら、こんなにすばらしいことはないじゃないか。ねえ、有朱。有朱。

有朱。
有朱が好きだよ。愛してる。

愛してる――だから。


 この世で最もむなしい行為のひとつを遂げた後、八王子は【女王】に嘘をささやく。



「貴女だけです、麗華」