※ ※ ※
美術部の合同展示物は大きな天使の絵だ。あずき先輩が下絵を描き、それを部員三人で塗っていくというもの。画材はアクリル絵の具だからそう難しくはない。
難しいと言えば、個人制作物の風景画だ。こちらは油絵だから、結構手間がかかる。暗い色調の中に、色鮮やかな提灯が揺れている。行き交うのは着飾った男女、親子連れ。夏祭りの風景をイメージして描いている。ここまでは順調にうまくいっていて、お気に入りの作品になると思う。
平行して行われる準備の合間にも、わたしとるいくんは連絡を取り合っていた。千住くんが八王子くんの講義を大人しく受けていることを聞いて、わたしはほっとした。
「るいくんは文化祭どうするの?」
『ありすと回ろうと思ってた。いやか?』
「ぜんぜん。うれしいよ」
そうやって、ちびちびとながら、仕上げの制作を続けていた矢先のことだった。
美術室の扉が薄く開いている事に気づいたのは、文化祭三日前のことだった。まだ誰も来ていないはずだ、とわたしは思う。誰かが来ていればそこは開け放たれていて、電気がついているはずだから。けれど電気はついていないし、引き戸も閉じたまま。不気味にあいたそこから、不穏な空気が漏れ出していて、わたしは息を止めたまま引き戸を開けた。
ふわりと香るにおい。カーテンを引いた暗がりに潜んでいたその人物は、墨汁の匂いを漂わせながらゆっくりと立ち上がった。
「あ。思ったより早いね。一年の【姫】」
「……麗華先輩!」
「先輩だなんて呼ばなくても良い。思ってもいないことを言うな」
「先輩、何を……」
言葉の続きは消えた。制作途中のわたしの絵に、墨汁が垂らされているのを見たから。輝く提灯にも、着飾った男女にも、真っ黒な液体が垂らされて、見るも無惨だった。
「――そんな」
「何って、かっこよくしてあげようと思って」
美しい顔が笑む。目が笑っていない。
「調子に乗っている一年の【姫】に、贈り物を、ね?」
「どうして」
「どうしてって、自分の胸に聞いてみなさいな」
麗華先輩は容器の中にのこった墨汁をわたしの絵に流して、空っぽになった容器を放り捨てた。
「【騎士団】にも、この学園のトップである【女王】にも、――恥を掻かせたのは誰?」
わたしは言葉を失った。
もとはといえば、三年生の【騎士団】からけしかけてきたことじゃない……! そう思ったけど、言葉にならなかった。これまで作ってきたものを目の前で台無しにされたことが、頭の中をぐるぐると回っていた。
「あずきが居ない間に済ませてしまおうと思っていたのに、アンタにばれるんじゃあね。意味が無かったわ」
麗華先輩はつかつかとわたしの横を通り過ぎながら、低い声でささやいた。
「これだけで済むと思わないでね」
彼女の憎悪はわたしの絵にだけ向けられていた。あずき先輩の絵も、千代田くんの絵も、合同制作の絵も無事だった。それだけで済んでよかった。
それだけで済んで――。
「……うう」
わたしは床の墨汁を拭いながら、視界の中でにじんでいく自分の絵を眺めていた。
あの日るいくんと見た景色まで汚された気がして、悔しくて、悲しくて、だから、忘れてしまった。
『これだけで済むと思わないでね』
言い残された言葉も、その意味も。
※ ※ ※
「……で、ここはどうなるの、縞せんせー」
「その呼び方やめろって言ったよね?」
例によって向かい合ってテラスで勉強している二人のもとへ、女子生徒が一人歩み寄っていく。
渋谷あずきだ。
「失礼しますね」
「ん」
応えたのは千住だ。
「誰だっけ?」
「渋谷あずき。二年生。……南中出身といった方がわかりやすいでしょうか。千住白兎。……そして、縞」
「なに」
とたんに不機嫌になった八王子に、あずきは目を細めて言い放つ。
「忠告をしに来たわ、あなたたち、有朱さん……【姫】の従者たちに」
「従者になったつもりはないけどね」と千住。八王子は黙ってあずきをにらむように見上げるばかりだ。
「あずき。君が立ち上がる時って大抵面倒ごとを連れてくるイメージがあるんだけど」
腕組みをした八王子に対して、あずきは肩をすくめる。
「残念ながらその通りよ、縞。【クイーンオブハート】は……麗華様は仕掛けるおつもりです。【姫】に対して」
「何を?」
「そこまでは、私も麗華様の全てを知るわけではありません。ですが」
あずきはいったん言葉を句切り、八王子を見下ろした。
「麗華様は、あなたの心をお望みのようよ、縞」
「はぁ」
気の抜けた返事をしたのは千住だった。
「八王子って女の子から引く手あまただな。すごいね。これで本命にだけ――」
「五月蠅い」
「とにかく、麗華様は八王子縞を欲している。そして、有朱さんに対して非常に残酷な仕打ちをしようとしている……この意味は分かるでしょう」
あずきは目を細めて、小さくため息をついた。
「ちなみに、これらはあなたたち二人がウッカリ聞いてしまったわたしの独り言として流してください」
「うん」
千住がまたもや返事をした。八王子は机の下で千住の足を軽く踏んだ。
「麗華様は有朱さんを敵視しているばかりか嫉妬なさっておいでだわ。有朱さんの全てを喰らい尽くすまであの方は止まらない。分かるでしょう、縞。あの方は冷酷な夜の女王。……どれだけ欲しても欲しても満たされない悲しき吸血鬼」
「ポエムなら聞かないよ、あずき」
八王子が目を閉じたままつぶやく。あずきは小さく笑い、
「要するに、……貴方と同じよ、縞。貴方が一番分かってるはず」
「忠告どうも。あ、独り言だったっけ。全部聞いたよ」
「それはよかった。……気をつけて。有朱さんに注意して。いつ何時、麗華様に狙われるか分からない」
「わかった」
千住が立ち上がった。
「美術室、見てくるね」
美術部の合同展示物は大きな天使の絵だ。あずき先輩が下絵を描き、それを部員三人で塗っていくというもの。画材はアクリル絵の具だからそう難しくはない。
難しいと言えば、個人制作物の風景画だ。こちらは油絵だから、結構手間がかかる。暗い色調の中に、色鮮やかな提灯が揺れている。行き交うのは着飾った男女、親子連れ。夏祭りの風景をイメージして描いている。ここまでは順調にうまくいっていて、お気に入りの作品になると思う。
平行して行われる準備の合間にも、わたしとるいくんは連絡を取り合っていた。千住くんが八王子くんの講義を大人しく受けていることを聞いて、わたしはほっとした。
「るいくんは文化祭どうするの?」
『ありすと回ろうと思ってた。いやか?』
「ぜんぜん。うれしいよ」
そうやって、ちびちびとながら、仕上げの制作を続けていた矢先のことだった。
美術室の扉が薄く開いている事に気づいたのは、文化祭三日前のことだった。まだ誰も来ていないはずだ、とわたしは思う。誰かが来ていればそこは開け放たれていて、電気がついているはずだから。けれど電気はついていないし、引き戸も閉じたまま。不気味にあいたそこから、不穏な空気が漏れ出していて、わたしは息を止めたまま引き戸を開けた。
ふわりと香るにおい。カーテンを引いた暗がりに潜んでいたその人物は、墨汁の匂いを漂わせながらゆっくりと立ち上がった。
「あ。思ったより早いね。一年の【姫】」
「……麗華先輩!」
「先輩だなんて呼ばなくても良い。思ってもいないことを言うな」
「先輩、何を……」
言葉の続きは消えた。制作途中のわたしの絵に、墨汁が垂らされているのを見たから。輝く提灯にも、着飾った男女にも、真っ黒な液体が垂らされて、見るも無惨だった。
「――そんな」
「何って、かっこよくしてあげようと思って」
美しい顔が笑む。目が笑っていない。
「調子に乗っている一年の【姫】に、贈り物を、ね?」
「どうして」
「どうしてって、自分の胸に聞いてみなさいな」
麗華先輩は容器の中にのこった墨汁をわたしの絵に流して、空っぽになった容器を放り捨てた。
「【騎士団】にも、この学園のトップである【女王】にも、――恥を掻かせたのは誰?」
わたしは言葉を失った。
もとはといえば、三年生の【騎士団】からけしかけてきたことじゃない……! そう思ったけど、言葉にならなかった。これまで作ってきたものを目の前で台無しにされたことが、頭の中をぐるぐると回っていた。
「あずきが居ない間に済ませてしまおうと思っていたのに、アンタにばれるんじゃあね。意味が無かったわ」
麗華先輩はつかつかとわたしの横を通り過ぎながら、低い声でささやいた。
「これだけで済むと思わないでね」
彼女の憎悪はわたしの絵にだけ向けられていた。あずき先輩の絵も、千代田くんの絵も、合同制作の絵も無事だった。それだけで済んでよかった。
それだけで済んで――。
「……うう」
わたしは床の墨汁を拭いながら、視界の中でにじんでいく自分の絵を眺めていた。
あの日るいくんと見た景色まで汚された気がして、悔しくて、悲しくて、だから、忘れてしまった。
『これだけで済むと思わないでね』
言い残された言葉も、その意味も。
※ ※ ※
「……で、ここはどうなるの、縞せんせー」
「その呼び方やめろって言ったよね?」
例によって向かい合ってテラスで勉強している二人のもとへ、女子生徒が一人歩み寄っていく。
渋谷あずきだ。
「失礼しますね」
「ん」
応えたのは千住だ。
「誰だっけ?」
「渋谷あずき。二年生。……南中出身といった方がわかりやすいでしょうか。千住白兎。……そして、縞」
「なに」
とたんに不機嫌になった八王子に、あずきは目を細めて言い放つ。
「忠告をしに来たわ、あなたたち、有朱さん……【姫】の従者たちに」
「従者になったつもりはないけどね」と千住。八王子は黙ってあずきをにらむように見上げるばかりだ。
「あずき。君が立ち上がる時って大抵面倒ごとを連れてくるイメージがあるんだけど」
腕組みをした八王子に対して、あずきは肩をすくめる。
「残念ながらその通りよ、縞。【クイーンオブハート】は……麗華様は仕掛けるおつもりです。【姫】に対して」
「何を?」
「そこまでは、私も麗華様の全てを知るわけではありません。ですが」
あずきはいったん言葉を句切り、八王子を見下ろした。
「麗華様は、あなたの心をお望みのようよ、縞」
「はぁ」
気の抜けた返事をしたのは千住だった。
「八王子って女の子から引く手あまただな。すごいね。これで本命にだけ――」
「五月蠅い」
「とにかく、麗華様は八王子縞を欲している。そして、有朱さんに対して非常に残酷な仕打ちをしようとしている……この意味は分かるでしょう」
あずきは目を細めて、小さくため息をついた。
「ちなみに、これらはあなたたち二人がウッカリ聞いてしまったわたしの独り言として流してください」
「うん」
千住がまたもや返事をした。八王子は机の下で千住の足を軽く踏んだ。
「麗華様は有朱さんを敵視しているばかりか嫉妬なさっておいでだわ。有朱さんの全てを喰らい尽くすまであの方は止まらない。分かるでしょう、縞。あの方は冷酷な夜の女王。……どれだけ欲しても欲しても満たされない悲しき吸血鬼」
「ポエムなら聞かないよ、あずき」
八王子が目を閉じたままつぶやく。あずきは小さく笑い、
「要するに、……貴方と同じよ、縞。貴方が一番分かってるはず」
「忠告どうも。あ、独り言だったっけ。全部聞いたよ」
「それはよかった。……気をつけて。有朱さんに注意して。いつ何時、麗華様に狙われるか分からない」
「わかった」
千住が立ち上がった。
「美術室、見てくるね」


