慎司君との関係は、私の初恋が砕けたあの日…高校の卒業式まで遡る。でも、出会いはその少し前。高校3年生の夏だった。

慎司君と私は、違う学校に通っていた。ただ、同じ電車を利用していた。私は中学にあまりいい思い出もなく、地元から離れた高校に進学していた。だから、大学受験に向けて少しの時間も無駄にしたくなくて、いつも電車内では勉強をしていた。他の利用客も学生ばかりで、携帯でゲームをしたり、音楽を聴いたり、お喋りをしたり。各々自由に過ごしていたと思う。

その日は前日に終わらなかった宿題をしていた。集中していたので、声をかけられた時はかなり変な声が出て恥ずかしかったのを覚えている。



「それ、何でそうなるの?」

「ひやいっ!?」



片手は吊り革に掴まったまま、私の手元を覗き込むように見てきた坊主頭に大きな鞄を持った男。学ランは、近くの男子高のものだった。



「それ。」



すっと指がノートの上を滑る。スポーツをしていることが一目見てわかるような、でも綺麗な手にドキリとした。



「え? えーっと、それは…。」



咄嗟に彼の質問に答えると、何故か彼は隣に腰掛けた。この広い車内、いくらでも座るところはあるというのに、別の問題についても色々と尋ねてきて、それは私の降車駅のアナウンスが流れるまで続いた。その日は突然私の時間を拘束して悪かったと謝ってきて別れたが、翌日以降も勉強をしているとやってきて、質問をされた。いつのまにか、車内勉強会が開かれるようになってしまったのだ。そこから、彼とは勉強以外の話もたまにするような仲になった。
その関係に変化が訪れたのは、高校の卒業式の日である。




「花江さん。」

「えっ? 牧瀬君…!?」



帰りの電車に乗るために駅へ向かうと、駅前には何故か牧瀬君が立っていた。



「どうしたの? こんなところで。」



今日はどこの高校も卒業式があったはずだ。もちろん私も、牧瀬君も。そして、今は夕方だ。彼の家の最寄り駅でも、高校の最寄り駅でもないこの駅前に、どうして彼がいるのか…。
口をついて出た言葉は、ブーメランになって私に返ってきて、自分で尋ねたことなのに虚しい気持ちになった。

って、私も、こんな時間まで何してるんだろう…。

実は卒業式の後。私は夏木君を探していた。初めての出会いから、なんとか会えば少しの立ち話をする程度まで仲を進展させることができていたが、クラスも同じになることはなく、その進路まで教えてもらえるような仲にはなれなかった。だから最後に一言話を…あわよくば進路を聞けたらいいなと探していたのだ。
しかし、ようやく見つけた夏木君は告白を受けている真っ最中で。後から、告白していた女生徒がOKをもらえた!と大騒ぎしていた。

ショックだった。

彼はモテる人だったけれど、これまで誰とも付き合ったことがないと聞いていたから。そんな彼の、初めての恋人。初めての失恋。涙が溢れた。心はぐちゃぐちゃだった。

泣き顔がまともな顔になるまで隠れていた。目が腫れたみっともない顔を、万が一にも夏木君に見られるわけにはいかなかった。騒ぐ生徒達の帰宅を待って、だけどすぐには帰る気になれなくて。二度と来ることはないだろう、私の青春が詰まった学校でただただぼーっと過ごしていた。
もう誰に会うこともあるまいと思って学校を出たのに。少しはマシになったとはいえ、まさかみっともない顔を牧瀬君に見られることになるなんて、誰が想像していただろうか。



「牧瀬君も、誰かから呼び出されたとか? 待ち合わせとか? それともこの近くでお祝いするのかな? お互い、あっという間の高校生活だったよね〜。」

「……何かあった?」



誤魔化しが通じず、ドキリとした。
牧瀬君には、他校の人ならと少し夏木君のことを相談したことがあった。



「ナツキと、何かあった?」



何でわかるの…?

その時程、うっかり想い人の名前を言ってしまったことを後悔したことはない。

牧瀬君に手を引かれ、乗るはずだった電車を見送った。止まっていたはずの涙が、また流れ始めて止まらなかった。その間、牧瀬君は何も聞かなかった。それがとても心地よくて、つい事の次第を話してしまった。



「…ごめんなさい。 こんな話して…無様な姿見せちゃって。 でも、もう大丈夫。」



粗方泣いてスッキリして、我に返ると、恥ずかしさと申し訳なさとで居た堪れない気持ちになった。泣き顔を隠してくれようとしたのだろう。頭にかけられていたタオルをとって、「洗ったら返すね」と約束した時に、初めて連絡先を交換した。これまで散々、いろいろな話をしてきたのに、今更なやりとりに思わず笑みが溢れた。



「今日は本当にありがとう。それから、本当にごめんなさい。 あの、今日は何か用事があったんじゃない? 私のせいで引き止めちゃって、本当にごめんね。」



私へ構わずに行くように言いかけた言葉が、目の前に突然ずいっと差し出されたもののおかげで引っ込んだ。それは、花束というのには小さすぎる、本当に小さな黄色い花束。



「これは…?」

「今までの礼。勉強、教えてくれたから。」

「ええ!? いや、そんな、いいのに!」

「卒業も。」

「いや、牧瀬君も今日卒業して……!」




押し返す私に、彼は一歩も譲る気はないらしい。私に花束を差し出したまま、真っ直ぐに見つめてくる。そのあまりの真っ直ぐさに、花束を受け取ってしまった。


 
「…ありがとう。 これ、可愛いね。 凄く、いい匂いがする。」



タオルを返す時に、私からもお礼をしよう。

花束を握る手にキュッと力を込めた時、牧瀬君の大きな手が私の手を包み込んだ。




「牧瀬君?」

「…俺を使って。」

「え?」




見上げると、すぐそこにあった牧瀬君の顔。長いまつ毛までよく見えるほどの近さに驚いて、身体が強張る。



「ま、牧瀬君どうしたの? いきなり何を……」

「ナツキってやつの、代わりになるかはわからないけど。」



また、あの視線だ。私が弱い、あの真っ直ぐな視線。牧瀬君の愚直さが伝わってくる、あの視線。



「俺を花江さんの…その……アイツを忘れるまでの繋ぎでいいから。 使ってほしい。」



あの日の私には、大きく3つの選択肢があったと思う。夏木君を想い続けるか。牧瀬君の手をとるか。夏木君を忘れて、牧瀬君の手も払って、彼らとの関係を絶ってリスタートするか。

1つ目の選択は簡単だ。なぜなら、簡単に忘れることができないのは明白だから。しかし、卒業して、もう彼に会うこともないと考えると、想い続けるのはいけないことのように思った。
2つ目の選択は、単純に牧瀬君に失礼だと思った。でも、夏木君を忘れるまたとないチャンスだとも思った。
3つ目を選択は、する勇気がなかった。夏木君を追いかけていた日々も、牧瀬君と朝一緒に過ごせた日々も、捨て去りたくなかった。それを捨てたら、私の高校生活、何が残るだろう。

色々考えて、あの日私は、牧瀬君の手をとったのだ。