浅黄色の恋物語

 久子姉さんから干し柿を貰った時、ぼくは何かを感じた。
それは患者さんとしてではなく一人の女性として久子姉さんを見ているってことだった。
 入院した時など再会すると本当に待ち焦がれていたような顔でぼくを迎えてくれる。
そしてぼくが誕生日のプレゼントを渡した時にはまるで彼氏から貰ったような顔で喜んでくれた。
 その干し柿を食べながらぼくは考えた。
 (久子姉さんと一緒に暮らせないか?)と。
 難しいことは分かっている。 足も健全じゃないし80も近い。
いつ倒れるかも分からない人だ。
 それでも一人の女性として共に暮らすことは出来ないだろうか?
もちろん久子姉さんはふんわりと断ってくるだろう。 「あたしはもうおばあちゃんなのよ。」
 それだって分かり切っていることだ。 あと何年生きられるかも分からない。
だからこそ二人で綴れる物語が有るんじゃないだろうか?

 人は誰でも死ぬことを何よりも恐れるし信じようとも受け止めようともしない。
それは「自分にはまだまだ生き抜くだけの元気は有り余っているし若いのだから当分死ぬなんて有り得ない。」と固すぎるくらいに信じ切っている。
 しかしそれが100パーセント無いと言い切れるだろうか?
事実、埼玉県の土管崩落現場では巻き込まれたトラック運転手が亡くなっている。
飛行機の事故で亡くなる人だって居る。 いきなり襲われて殺される人だって居る。
絶対に死なないという保証は何処にも誰にも無い。
 それを思う時、短い時間でも命を燃やし尽くしたいと思うのは人の常ではないか。
そこに久子姉さんが居たのだ。 ぼくは思った。
次の世にも一緒に生まれてこようと。
 人って一人で生まれて一人で死んでいくんだよ。 でも生まれた所にはたくさんの人が待ってくれている。
会いたくない人だって居るよ。 それが縁だから。
 そしてまた巡り合い、結ばれて次の世代へ繋げていく。
その中にぼくと久子姉さんが居たんだ。 今こうして会うために。