【Quintet】

6月3日(Wed)

 今日はショパンの〈雨だれ〉とドビュッシーの〈雨の庭〉を弾いた。ショパンがしとしとと静かに降る雨ならドビュッシーは激しく降り注ぐ雨。

 今日の練習曲はすべて梅雨の時期に似合う雨をモチーフとした曲だった。
音楽の流派ではショパンはロマン派、ドビュッシーは印象主義音楽と分類され、表現の解釈が異なる。ロマン派が得意な沙羅はショパンの演奏の方が楽しかった。

 レッスン室の窓から見える空模様は水気を含んだ灰色。九州地方は今日梅雨入りが発表された。関東地方も明日には梅雨入りしそうな天気だ。

帰りは独りだった。織江はフルートオーケストラのサークル、他の友達も演奏会やバイトがある。
沙羅も月に何度か放課後にピアノサークルの活動があるが、今週はサークル活動は休みだった。

 渋谷駅のハチ公前広場で信号待ちをしていた沙羅の隣に男が並んだ。茶髪の髪にキャップを被った男からはきつめの香水の香りがした。

『さーらーちゃん』

ふいに隣で呼ばれた自分の名前に危うく返事をしそうになった。隣にいるのは知らない男。
もしかしたら別の“サラちゃん”のことかもしれないと思った沙羅は開きかけた口をきゅっと閉じた。
しかしまた男は沙羅の名を呼んだ。

『おーい。沙羅ちゃーん。シカト?』

 今度は間違いない。男は自分に話しかけている。恐る恐る隣に視線を移した沙羅は見上げた男の顔を凝視した。