執事のヘロルフが案内をする。ルーセとウィルヘルミナがヘロルフの後ろを歩き、その後ろをイルセとニコラスを抱いた乳母が続いた。
部屋に入ったルーセは、ヘロルフに向って、
「今日はイルセに話しがあって来たのです。人払いを。お茶もこちらが頼むまで持ってこないように。」
「畏まりました。」
ルーセは、二人がけソファーに腰を下ろした。その隣にウィルヘルミナも腰を下ろす。イルセはニコラスを抱くと、ルーセの前にやって来た。
「陛下、是非ともニコラスを・・・」
「人払いの意味が分からないの?イルセ以外は直ぐさま退室なさい。」
ルーセの今日の服装は、貴族女性としても、とても地味な格好で、イルセにとっては母を思い出すような慎ましさを感じる。しかし、目の前のルーセは母のように自分を慈しみ深く見るのではなく、自分の紅茶に虫が入り込んだ時のような、迷惑な異物を見る目でこちらを見ていた。その背筋が寒くなるような視線や、こちらが畏怖の念を抱かずにはいられないその佇まいを、自分はなぜ今の今まで感じずにいられたのだろうかとイルセは思った。
脱力したように、ルーセの目の前に座ったイルセを見て、ルーセは話し始めた。
「あなたは、産後の肥立ちが悪くずっと臥せっていた。」
「陛下。ご心配頂いて恐縮ですが、私は産後の体調が悪かったわけでは、」
「いいえ。悪かったのです。第二王子のニコラスの顔も見に行けぬほど。」
室内に、しばらく沈黙の時が過ぎる。それを破ったのは、イルセだった。
「第二王子?」
「あなたの側仕えたちは、あなたになんと言っていたのか私には分かりませんが、ユリアーナは無事に第一王子を産みましたよ。あなたの方が産気づくのは早かった様ですが、産み落としたのはユリアーナの方が早かった。ユリアーナの産んだ第一王子は、アルテナ公爵の初代で忠臣だった方から名前を頂き、アンドレと名付けられました。」
再び、沈黙が流れる。
「貴族社会での側妻や愛妾の存在は決して少なくはありません。あなたは若く、容姿も良い。生まれが男爵家とは言っても、あのブラウェルス辺境伯家の家門。公爵家の側妻としては申し分ない身の上ね。」
イルセの緊張が解けていく。
「それに、なんといっても王子を出産した。あなたのそんな力添えにヴィレムも感謝しているでしょう。」
イルセは、静かに微笑んだ。
「しかし、それは側妻としての働きに対してです。王族に連なる公爵家の正妻の座に自分を据えるなど、なんと恥知らずで、厚かましいことでしょう。あなたに勘違いをさせたヴィレムの態度も不適当ではありました。しかし、私の耳に届くほどにあなたの態度は醜悪でした。しかも、側妻ごときが、アルテナの名を名乗るなど。」
ルーセが右隣に座ったウィルヘルミナの方へ手を差し出すと、彼女は紙を手渡した。ルーセはそれをイルセの方へ差し出した。
「あなたは、難産だった故、体力の消耗が激しく産後の体調回復が思わしくなく長く臥せっていた。ヴィレムが外遊で不在の中、体調は更に悪化し王子の面倒も側妻としての役目もこなす気力がなくなった。ヴィレムと連絡が取れなかったあなたのご両親は、実家へ帰って来るようにあなたに言った。けれども王家としてはこれまでこの家のために助力してくれたイルセを実家に帰してしまうのは気がとがめた。ついては、私の持っている海辺のヴィラであなたを静養させることにした。」
ルーセは穏やかにイルセに微笑みかけ、差し出していた紙を指さした。
「ここに好きなだけ金額を書きなさい。ヴィレムの不適当な態度に対する謝罪の気持ちです。ヴィラで一生を過ごすのだからお金は必要よ。」
ルーセはそう言うと、執事のヘロルフとメイドのネスをを呼んだ。
「イルセは体調が優れないから、私の持つ南部のヴィラで静養することになりました。急な事で申訳ないけれど、今日これから出立します。彼女の出立の準備をしてちょうだい。急いでいるから荷物は当座の間のものだけで結構よ。」
「畏まりました。」
ネスは、ルーセと目が合わないよう頭を下げて視線を床に落とし、言葉を続けた。
「陛下、そのヴィラへは私もお供させては頂けないでしょうか?」
「イルセも静養するのに気の置けないメイドがいるのは心強い事でしょう。」
ネスは、その言葉で微笑む。
「しかし、あちらには王城で教育されたメイドや執事が配置されていますから、あなたはこのままこちらの城で働きなさい。付いていく必要はありません。荷造りはイルセ一人分で十分よ。それと、私たちと一緒に来たマルハレータはいる?」
ルーセの呼びかけに、中年の女性が一人顔を出した。
「彼女は私のそばで長く仕えてくれたマルハレータです。今日からイルセあなたの専属メイドになります。」
マルハレータは、イルセに向って自己紹介をする。
「私が、ヴィレムの外遊中にこうしてやって来た理由がわかるかしら?」
いつまでも金額を記入しないイルセを見かねたルーセは、自ら小切手に金額を書く。
「私はね、ユリアーナのことが本当に可愛いのよ。実の孫であるヴィレムよりずっとね。あの子の作る綺麗な庭には粗末な草など入り込んではいけないの。あの子を煩わす物は全て取り除いてしまわないとね。お金はこのくらいあれば、あなた一人の生活が困ることはないでしょう。」
イルセは、書かれた金額に言葉が出ない。
「ニコラスのことは心配しなくていいわ。」
「ニコラスも一緒ではないのですか?」
「一緒に行けるわけないでしょう?ニコラスは母親がどうであれ、ヴィレムの血を継いでる王子なのだから。イルセの荷造りは出来たの?」
「はい。荷物はまとめたようです。」
ヘロルフは答える。
「では、クンラート。イルセの荷物を馬車に運んで。さぁ、イルセ。あっ、あと最後に、貴女のお名前は何だったかしら?」
「・・イル・イルセ・・イルセ・ハルセマでございます。」
「そうですね、よろしいでしょう。」
立ち上がったルーセは、イルセに向って手を差し出す。イルセは戸惑いながらもその手を取った。
「では、行きましょう。これから行くノティアステッパと言う町は、王都からは遠いけれど、とても綺麗な町よ。私のヴィラからは海が見えて、まだ父や母が存命だった頃は毎年冬になると二人ともバカンスで行っていたわ。一年中温暖でとても良い土地よ。生涯あの地を出られなかったとしても、苦にはならないでしょう。」
「私はこのまま南部へ向うのですか?母や父にお別れは?ヴィレム様とお別れは?ニコラスとも・・・」
「ハルセマ家へは私の使者がもう伝えに行っています。あなたが心身共に疲れ切っていて、静養が必要な状態で、今は面会を控えて欲しいとね。ご両親には落ち着いたらあちらから手紙を出すと良いわ。ヴィレムは…外遊から帰って来たらあなたが南部のヴィラへ行ったことは伝えておきましょう。こちらを心配せずとも、ゆっくり養生するようにと言うのじゃないかしら?」
イルセは、マルハレータに促されるまま、簡素な馬車に乗り込んだ。
「私の生家フェルカイク家の私兵が警護に付いてくれますから道中の心配はしなくても大丈夫ですよ。では、イルセ、道中恙無きように。あなたの心が穏やかであることを祈っています。」
扉が閉まり、馬車が走り出した。その馬車が走って行くのをルーセとウィルヘルミナは眺めていた。
「親に従うことが当たり前、親の言う事が全てと教えられたご令嬢は、自分の意思表示も出来ないままで自分の人生を定められてしまうのですね。」
「そう言うご令嬢だからこそ、こんなに上手くいったのだけれどね。もう少し手こずるかと思ったけれど、流されやすい娘で良かったわ。」
「彼女のご両親は?」
「どんなに娘に会いたくとも、王妃の所有するヴィラに勝手には訪問できないでしょうね。まぁしかし…夏はとても暑いところだから、冬にでもヴィラへ招待して差し上げましょう。その頃にはあの娘も自分の運命を受け入れているでしょうから。」
部屋に入ったルーセは、ヘロルフに向って、
「今日はイルセに話しがあって来たのです。人払いを。お茶もこちらが頼むまで持ってこないように。」
「畏まりました。」
ルーセは、二人がけソファーに腰を下ろした。その隣にウィルヘルミナも腰を下ろす。イルセはニコラスを抱くと、ルーセの前にやって来た。
「陛下、是非ともニコラスを・・・」
「人払いの意味が分からないの?イルセ以外は直ぐさま退室なさい。」
ルーセの今日の服装は、貴族女性としても、とても地味な格好で、イルセにとっては母を思い出すような慎ましさを感じる。しかし、目の前のルーセは母のように自分を慈しみ深く見るのではなく、自分の紅茶に虫が入り込んだ時のような、迷惑な異物を見る目でこちらを見ていた。その背筋が寒くなるような視線や、こちらが畏怖の念を抱かずにはいられないその佇まいを、自分はなぜ今の今まで感じずにいられたのだろうかとイルセは思った。
脱力したように、ルーセの目の前に座ったイルセを見て、ルーセは話し始めた。
「あなたは、産後の肥立ちが悪くずっと臥せっていた。」
「陛下。ご心配頂いて恐縮ですが、私は産後の体調が悪かったわけでは、」
「いいえ。悪かったのです。第二王子のニコラスの顔も見に行けぬほど。」
室内に、しばらく沈黙の時が過ぎる。それを破ったのは、イルセだった。
「第二王子?」
「あなたの側仕えたちは、あなたになんと言っていたのか私には分かりませんが、ユリアーナは無事に第一王子を産みましたよ。あなたの方が産気づくのは早かった様ですが、産み落としたのはユリアーナの方が早かった。ユリアーナの産んだ第一王子は、アルテナ公爵の初代で忠臣だった方から名前を頂き、アンドレと名付けられました。」
再び、沈黙が流れる。
「貴族社会での側妻や愛妾の存在は決して少なくはありません。あなたは若く、容姿も良い。生まれが男爵家とは言っても、あのブラウェルス辺境伯家の家門。公爵家の側妻としては申し分ない身の上ね。」
イルセの緊張が解けていく。
「それに、なんといっても王子を出産した。あなたのそんな力添えにヴィレムも感謝しているでしょう。」
イルセは、静かに微笑んだ。
「しかし、それは側妻としての働きに対してです。王族に連なる公爵家の正妻の座に自分を据えるなど、なんと恥知らずで、厚かましいことでしょう。あなたに勘違いをさせたヴィレムの態度も不適当ではありました。しかし、私の耳に届くほどにあなたの態度は醜悪でした。しかも、側妻ごときが、アルテナの名を名乗るなど。」
ルーセが右隣に座ったウィルヘルミナの方へ手を差し出すと、彼女は紙を手渡した。ルーセはそれをイルセの方へ差し出した。
「あなたは、難産だった故、体力の消耗が激しく産後の体調回復が思わしくなく長く臥せっていた。ヴィレムが外遊で不在の中、体調は更に悪化し王子の面倒も側妻としての役目もこなす気力がなくなった。ヴィレムと連絡が取れなかったあなたのご両親は、実家へ帰って来るようにあなたに言った。けれども王家としてはこれまでこの家のために助力してくれたイルセを実家に帰してしまうのは気がとがめた。ついては、私の持っている海辺のヴィラであなたを静養させることにした。」
ルーセは穏やかにイルセに微笑みかけ、差し出していた紙を指さした。
「ここに好きなだけ金額を書きなさい。ヴィレムの不適当な態度に対する謝罪の気持ちです。ヴィラで一生を過ごすのだからお金は必要よ。」
ルーセはそう言うと、執事のヘロルフとメイドのネスをを呼んだ。
「イルセは体調が優れないから、私の持つ南部のヴィラで静養することになりました。急な事で申訳ないけれど、今日これから出立します。彼女の出立の準備をしてちょうだい。急いでいるから荷物は当座の間のものだけで結構よ。」
「畏まりました。」
ネスは、ルーセと目が合わないよう頭を下げて視線を床に落とし、言葉を続けた。
「陛下、そのヴィラへは私もお供させては頂けないでしょうか?」
「イルセも静養するのに気の置けないメイドがいるのは心強い事でしょう。」
ネスは、その言葉で微笑む。
「しかし、あちらには王城で教育されたメイドや執事が配置されていますから、あなたはこのままこちらの城で働きなさい。付いていく必要はありません。荷造りはイルセ一人分で十分よ。それと、私たちと一緒に来たマルハレータはいる?」
ルーセの呼びかけに、中年の女性が一人顔を出した。
「彼女は私のそばで長く仕えてくれたマルハレータです。今日からイルセあなたの専属メイドになります。」
マルハレータは、イルセに向って自己紹介をする。
「私が、ヴィレムの外遊中にこうしてやって来た理由がわかるかしら?」
いつまでも金額を記入しないイルセを見かねたルーセは、自ら小切手に金額を書く。
「私はね、ユリアーナのことが本当に可愛いのよ。実の孫であるヴィレムよりずっとね。あの子の作る綺麗な庭には粗末な草など入り込んではいけないの。あの子を煩わす物は全て取り除いてしまわないとね。お金はこのくらいあれば、あなた一人の生活が困ることはないでしょう。」
イルセは、書かれた金額に言葉が出ない。
「ニコラスのことは心配しなくていいわ。」
「ニコラスも一緒ではないのですか?」
「一緒に行けるわけないでしょう?ニコラスは母親がどうであれ、ヴィレムの血を継いでる王子なのだから。イルセの荷造りは出来たの?」
「はい。荷物はまとめたようです。」
ヘロルフは答える。
「では、クンラート。イルセの荷物を馬車に運んで。さぁ、イルセ。あっ、あと最後に、貴女のお名前は何だったかしら?」
「・・イル・イルセ・・イルセ・ハルセマでございます。」
「そうですね、よろしいでしょう。」
立ち上がったルーセは、イルセに向って手を差し出す。イルセは戸惑いながらもその手を取った。
「では、行きましょう。これから行くノティアステッパと言う町は、王都からは遠いけれど、とても綺麗な町よ。私のヴィラからは海が見えて、まだ父や母が存命だった頃は毎年冬になると二人ともバカンスで行っていたわ。一年中温暖でとても良い土地よ。生涯あの地を出られなかったとしても、苦にはならないでしょう。」
「私はこのまま南部へ向うのですか?母や父にお別れは?ヴィレム様とお別れは?ニコラスとも・・・」
「ハルセマ家へは私の使者がもう伝えに行っています。あなたが心身共に疲れ切っていて、静養が必要な状態で、今は面会を控えて欲しいとね。ご両親には落ち着いたらあちらから手紙を出すと良いわ。ヴィレムは…外遊から帰って来たらあなたが南部のヴィラへ行ったことは伝えておきましょう。こちらを心配せずとも、ゆっくり養生するようにと言うのじゃないかしら?」
イルセは、マルハレータに促されるまま、簡素な馬車に乗り込んだ。
「私の生家フェルカイク家の私兵が警護に付いてくれますから道中の心配はしなくても大丈夫ですよ。では、イルセ、道中恙無きように。あなたの心が穏やかであることを祈っています。」
扉が閉まり、馬車が走り出した。その馬車が走って行くのをルーセとウィルヘルミナは眺めていた。
「親に従うことが当たり前、親の言う事が全てと教えられたご令嬢は、自分の意思表示も出来ないままで自分の人生を定められてしまうのですね。」
「そう言うご令嬢だからこそ、こんなに上手くいったのだけれどね。もう少し手こずるかと思ったけれど、流されやすい娘で良かったわ。」
「彼女のご両親は?」
「どんなに娘に会いたくとも、王妃の所有するヴィラに勝手には訪問できないでしょうね。まぁしかし…夏はとても暑いところだから、冬にでもヴィラへ招待して差し上げましょう。その頃にはあの娘も自分の運命を受け入れているでしょうから。」


