王子が始祖のフェルバーン家は、王都の屋敷が伯爵家より位の高い辺境伯家よりもずっと広大で、母屋を中心とした東西南北には趣を変え整えられた庭が広がっている。母屋の南側にある渡り廊下を通ると離れへ続き、その離れも母屋と同じくらいの規模がある。
その離れの庭は、緩やかな勾配を登ったところにガゼボがあり、丁寧に手入れされたバラ園が見下ろせるようになっている。
「何回もこの屋敷に来ていたのに、こんなに綺麗なバラ園を見ずにいたのか、なんて勿体ないことをしていたんだろうね。」
ヴィレムはユリアーナに微笑みかけ、それに答えるようにユリアーナも微笑んだ。自分の妻ながら、なんと綺麗に笑うのかと、ヴィレムは考えた。
ボーがヴィレムへ差し出した濃褐色の飲み物からは、上質なほろ苦い香りがする。取り立てて言うほどではないが、ヴィレムは紅茶よりコーヒーを好んでいた。しかし、最近はイルセ付きのメイドが紅茶を用意するので、コーヒーを飲む機会が減っていた。
∴∵
ウィルヘルミナに追い返されたのは息子のアンドレが生まれて半月頃のことだった。最初こそ、ウィルヘルミナや王妃のやりように腹が立ち、母のアンドレーアに二人の説得を頼もうともしたが、ただでさえ関係性の良くない祖母ルーセと母アンドレーアをこれ以上揉めさせるのも良くないと考え直し、思い止まった。
まずは、ユリアーナに手紙を書こうと思いたって、書斎へ行き、机に向ったが今の状況を何と書けば良いのか分からなかった。
ウィルヘルミナが言っていたことを思い出し、イルセとユリアーナの関係のことなどを踏まえ、 ‘許して欲しい…’ ‘反省している…’そう書こうと思っても、一体何に反省し、何に謝っているのか分からなくなって、書き進めない。
貴族の男には愛妾の一人くらい普通の事。しかも、今回はイルセに心が動いたのではなく、跡取りの問題があったからだ。ヴィレムにユリアーナほど大切にしたいと思う女性はいないし、アルテナ公爵家の女主人もユリアーナしかいないと思っている。
その日は結局、手紙を書くのを諦め、眠ることに決めた。寝支度を調え寝室に入ると、初めて部屋の広さを感じた。どんなにヴィレムが遅くなろうとも、ユリアーナはいつも窓際に置いたソファーに腰掛け、本などを読みながらヴィレムが寝室へ入ってくるのを待っていてくれていた。装飾はそれほど細かくはないが、チーク材で作られた気品のあるソファーはユリアーナと調和が取れていてヴィレムは気に入っていた。その二人がけソファーのユリアーナが座っていた方の背もたれをそっと撫でた。
∴∵
思い返せば、ヴィレムが座っても、座らなくてもユリアーナは必ず片方に偏って座っていた。そこがヴィレムの居場所なんだと伝えてくれていたのだと、今更気が付いた。コーヒーにしてもそんなことにしても、こんな状況になってやっと、ユリアーナがどんなに自分へ心を砕いてくれていたのかに気付かされる。
ルーセからの手紙には、次第によってはユリアーナとの離縁も考えると書いてあった。幼い頃からのユリアーナの姿が思い出される。ユリアーナは小さな頃から本当に美しい子だった。加えて、朝涼みの森のような、自身の清らかさで回りも清めてしまいそうな雰囲気を持っていた。その手つかずの清らかさを我がものにしたいと思った自分に気が付いたのはいつだったのか。
「お手紙、ありがとうございました。」
ユリアーナは、ヴィレムの目をしっかりと見た。こうして彼と視線を合わせて話すのはいつ振りなのか考えた。
「自分でも、何と書いたか…」
「えぇ。でもそれが、旦那様の本当の心の内を見せて頂いたようで、嬉しくて。」
結局、ヴィレムは何日経っても今の自分の気持を上手くは書き表せそうには思えなかった。そこで、心に浮かんだ取り留めの無いこと全てを書いてみた。
初めて見かけたのは、チャリティーバザーだったとか、初めて言葉を交わしたのは、初夏の茶会だったとか。そんな身のない内容でも書いていくほどに心の内は整理されていった。
「跡取りを強く望んでいたのは紛れもない私の本心だった。」
本当にユリアーナが愛おしくて、彼女と結婚出来たことは幸運だった。花嫁衣装を着たユリアーナは女神のようで、そんな彼女が毎晩帰ると、エントランスで迎えてくれた。寝室で待つ彼女は、俺が部屋へ入ると優しく微笑む。それを見てこれ以上の幸せはないと思った。
この完璧な彼女との完璧ですばらしい今の幸せは必ず自分が守り抜く。そう強く心に誓った。
しかし、その気持があまりに強すぎたのだろうか、そして、あまりに全てが順調過ぎたのだろうか。
「母から早く跡継ぎをと毎日のように急かされ、何かを見失っていた。そして、情けなくて、浅ましい考えだったと今は思うけれど、君の嫉妬する姿を見てみたいと言う、自分勝手な思いもあった。けれど、君はいつもの様に微笑んで見せた。」
「公爵家にとっても、そして万が一にも王家に何かあった時のためにも、殿下の世継ぎが必要であることは確かなのです。私は、自分の力が及ばぬ事に恐怖を感じていたのです。どこかで、自分のその役割を、重荷を誰かが肩代わりしてくれるのならと考えておりました。しかし、実際に殿下のお心に私以外がいらっしゃると思ったとき、自分を奮い立たせてくれたのは、笑顔だったのです。」
私は忘れてしまっていたのだ。彼女も何かを思い、感じる一人の人間だと言う事を。
「本当に、申訳なかった。君があまりにもいつも通りだから、君にとって私はやはり、それだけの存在なのだと…。」
「いいえ。私も何も申し上げませんでした。自分の心に芽生えた感情を殿下だけには知られたくなかったのです。私の心は決して純粋無垢などではない。私にも浅ましい感情がある。それが恥ずかしかったのです。」
その離れの庭は、緩やかな勾配を登ったところにガゼボがあり、丁寧に手入れされたバラ園が見下ろせるようになっている。
「何回もこの屋敷に来ていたのに、こんなに綺麗なバラ園を見ずにいたのか、なんて勿体ないことをしていたんだろうね。」
ヴィレムはユリアーナに微笑みかけ、それに答えるようにユリアーナも微笑んだ。自分の妻ながら、なんと綺麗に笑うのかと、ヴィレムは考えた。
ボーがヴィレムへ差し出した濃褐色の飲み物からは、上質なほろ苦い香りがする。取り立てて言うほどではないが、ヴィレムは紅茶よりコーヒーを好んでいた。しかし、最近はイルセ付きのメイドが紅茶を用意するので、コーヒーを飲む機会が減っていた。
∴∵
ウィルヘルミナに追い返されたのは息子のアンドレが生まれて半月頃のことだった。最初こそ、ウィルヘルミナや王妃のやりように腹が立ち、母のアンドレーアに二人の説得を頼もうともしたが、ただでさえ関係性の良くない祖母ルーセと母アンドレーアをこれ以上揉めさせるのも良くないと考え直し、思い止まった。
まずは、ユリアーナに手紙を書こうと思いたって、書斎へ行き、机に向ったが今の状況を何と書けば良いのか分からなかった。
ウィルヘルミナが言っていたことを思い出し、イルセとユリアーナの関係のことなどを踏まえ、 ‘許して欲しい…’ ‘反省している…’そう書こうと思っても、一体何に反省し、何に謝っているのか分からなくなって、書き進めない。
貴族の男には愛妾の一人くらい普通の事。しかも、今回はイルセに心が動いたのではなく、跡取りの問題があったからだ。ヴィレムにユリアーナほど大切にしたいと思う女性はいないし、アルテナ公爵家の女主人もユリアーナしかいないと思っている。
その日は結局、手紙を書くのを諦め、眠ることに決めた。寝支度を調え寝室に入ると、初めて部屋の広さを感じた。どんなにヴィレムが遅くなろうとも、ユリアーナはいつも窓際に置いたソファーに腰掛け、本などを読みながらヴィレムが寝室へ入ってくるのを待っていてくれていた。装飾はそれほど細かくはないが、チーク材で作られた気品のあるソファーはユリアーナと調和が取れていてヴィレムは気に入っていた。その二人がけソファーのユリアーナが座っていた方の背もたれをそっと撫でた。
∴∵
思い返せば、ヴィレムが座っても、座らなくてもユリアーナは必ず片方に偏って座っていた。そこがヴィレムの居場所なんだと伝えてくれていたのだと、今更気が付いた。コーヒーにしてもそんなことにしても、こんな状況になってやっと、ユリアーナがどんなに自分へ心を砕いてくれていたのかに気付かされる。
ルーセからの手紙には、次第によってはユリアーナとの離縁も考えると書いてあった。幼い頃からのユリアーナの姿が思い出される。ユリアーナは小さな頃から本当に美しい子だった。加えて、朝涼みの森のような、自身の清らかさで回りも清めてしまいそうな雰囲気を持っていた。その手つかずの清らかさを我がものにしたいと思った自分に気が付いたのはいつだったのか。
「お手紙、ありがとうございました。」
ユリアーナは、ヴィレムの目をしっかりと見た。こうして彼と視線を合わせて話すのはいつ振りなのか考えた。
「自分でも、何と書いたか…」
「えぇ。でもそれが、旦那様の本当の心の内を見せて頂いたようで、嬉しくて。」
結局、ヴィレムは何日経っても今の自分の気持を上手くは書き表せそうには思えなかった。そこで、心に浮かんだ取り留めの無いこと全てを書いてみた。
初めて見かけたのは、チャリティーバザーだったとか、初めて言葉を交わしたのは、初夏の茶会だったとか。そんな身のない内容でも書いていくほどに心の内は整理されていった。
「跡取りを強く望んでいたのは紛れもない私の本心だった。」
本当にユリアーナが愛おしくて、彼女と結婚出来たことは幸運だった。花嫁衣装を着たユリアーナは女神のようで、そんな彼女が毎晩帰ると、エントランスで迎えてくれた。寝室で待つ彼女は、俺が部屋へ入ると優しく微笑む。それを見てこれ以上の幸せはないと思った。
この完璧な彼女との完璧ですばらしい今の幸せは必ず自分が守り抜く。そう強く心に誓った。
しかし、その気持があまりに強すぎたのだろうか、そして、あまりに全てが順調過ぎたのだろうか。
「母から早く跡継ぎをと毎日のように急かされ、何かを見失っていた。そして、情けなくて、浅ましい考えだったと今は思うけれど、君の嫉妬する姿を見てみたいと言う、自分勝手な思いもあった。けれど、君はいつもの様に微笑んで見せた。」
「公爵家にとっても、そして万が一にも王家に何かあった時のためにも、殿下の世継ぎが必要であることは確かなのです。私は、自分の力が及ばぬ事に恐怖を感じていたのです。どこかで、自分のその役割を、重荷を誰かが肩代わりしてくれるのならと考えておりました。しかし、実際に殿下のお心に私以外がいらっしゃると思ったとき、自分を奮い立たせてくれたのは、笑顔だったのです。」
私は忘れてしまっていたのだ。彼女も何かを思い、感じる一人の人間だと言う事を。
「本当に、申訳なかった。君があまりにもいつも通りだから、君にとって私はやはり、それだけの存在なのだと…。」
「いいえ。私も何も申し上げませんでした。自分の心に芽生えた感情を殿下だけには知られたくなかったのです。私の心は決して純粋無垢などではない。私にも浅ましい感情がある。それが恥ずかしかったのです。」


