明鈴はもともとクラブには入っていなかったので、授業が終わるとすぐに帰っていたけれど。昇悟に勉強を教えてもらうようになってから、隔週金曜日は特に急いで帰るようになった。
 教えてもらう、というよりは、宿題や復習を隣で見てもらう程度でしかないけれど。
 昇悟のことはまだ、親しみやすい先生、としか思っていないけれど。
 学校の先生よりも説明がわかりやすくて、少しだけ勉強が楽しくなった。一緒に晩ご飯を食べるのもあって、本当の兄のように接するようになった。両親も子供の頃の彼を知っているので、安心して明鈴を任せているらしい。
 小松顕彰が声を掛けてきたのは、その金曜日の帰り道だった。
「こないださ、川井さんが男の人と家に入ってくの見たんだけど、誰? 二十歳くらいの人」
 昇悟が川井家に到着するのと明鈴が帰宅するのとが同じ時間になることがたまにある。家の近くで出会ったのを、彼は見たらしい。家庭教師をしてもらっていると明鈴が言うと、彼はすこしだけホッとしていた。
「あっ、もしかしてそれって、前に話してた大人の男?」
「……そうだけど?」
「そうか……。あの人のこと──好きなのか?」
「え? それはないけど」
「だったら……僕と」
 プーッ!
 音が聞こえた瞬間、タイミングが悪すぎる、と小松顕彰は顔を歪めた。車のクラクションの音は控えめだったけれど、会話の邪魔をするには十分な大きさだった。おまけに車は二人の隣で止まり、運転席から誰かが明鈴を呼んだ。
「明鈴ちゃん! あ──ごめん、話し中だった?」
 車を止めて出てきたのは、話題になっていた昇悟だった。昇悟は二人の様子を見て、顕彰が何を言おうとしたのか、すぐに察したらしい。
「邪魔者は退散しようか……」
「あ──いえ、大丈夫です。僕、帰ります」
 顕彰はそのまま進行方向を変えて去って行ってしまった。
 (うつむ)きながら歩く後姿が悲しそうに見えた。
「良いの? あの子……何か言いたそうにしてたけど」
 顕彰には申し訳ないけれど、このタイミングで現れた昇悟に明鈴は感謝していた。顕彰が告白してきそうだったことには気付いていたし、良い返事をする予定もなかったからだ。
 今の明鈴に好きな人はいないし、恋が何なのかもイマイチわからない。隣で運転している──昇悟の車で帰ることになった──彼がかっこいいのは認めるけれど、だからと言って恋愛感情はない。昇悟には勉強よりも、恋とは何かを教えてもらいたい。
「明鈴ちゃんは、彼氏いる?」
「えっ? い、いないよ」
「ふぅん。……あ、いたらさっきのあれはないか……。俺も中学の時は、何も考えてなかったなぁ。まぁ、急いで作る必要もないと思うけど」
 とりあえず今は勉強だね、と笑いながら、昇悟は運転を続ける。
 昇悟は明鈴と同じ中学の卒業生で、高校は割と偏差値の高い私立で札幌まで通っていた。中学の時は明鈴のように気になる女の子がいたけれど、高校が男子校だったせいか彼女はさっぱりできなかったらしい。
「大学に入ってから彼女できたけど、ギャルっぽくて俺には合わなかったな。大学辞めるって言ったら、すっげー避けられたし」
 おそらく将来の肩書きが目当てだったのだろうと、昇悟は笑った。
「明鈴ちゃんはどんな人がタイプ?」
「うーん……よくわからない……」
「さっきの子は?」
「あ──あれは、ただのクラスメイト。何回か遊んだことはあるけど……別に好きじゃないし……」
 答えながら明鈴は本当にわからなくなって、膝の上の荷物を抱えていた。運転している昇悟も明鈴が困っていることに気付いたようで、それ以上質問するのをやめた。
 駅前の通りに入り、昇悟は車をロータリーに停めた。そして明鈴に少し待つように言って車から降りた。
 夕方の駅前は、やはり人が多い。明鈴のような学校帰りの学生もいるけれど、数はまだ少ない。ほとんどがおそらく観光客で、荷物を持って坂を下っていく。
 五分ほど経って昇悟が戻ってきたとき、彼は働いているパン屋の袋を持っていた。
「これ、今日のデザートにどうぞ」
 何だろう、と思って中を見ると、フルーツがたくさん乗ったデニッシュが入っていた。
「わあ! これ食べたかったやつ!」
「こないだ明鈴ちゃん、欲しそうに見てたから」
「こないだ? ……あっ、見てたんですか?」
 明鈴が以前パン屋に寄ったとき、美味しそうなデニッシュを見て食べたいと思った。しかし他の惣菜パンも食べたかったのと所持金の問題があって、デニッシュは諦めた。その時のことを昇悟はこっそり裏から見ていたらしい。
「うわぁ……。でも嬉しい、ありがとう!」
 明鈴に笑顔が戻ったのを見てから、昇悟は再び車を走らせた。
 デニッシュは一つだったので明鈴の両親には申し訳ないけれど──、さすがに大人だから拗ねはしないかと、昇悟はひとり笑った。