ぼくらは群青を探している

 このエリアに足を踏み入れた瞬間に覚えた恐怖なんて、もうどこにもなかった。まるで記憶が刷新(さっしん)されたような、写真が上書きされたような、そんな清々しさが目に映る光景にあった。私の目に映る光景に私も桜井くんも映ってなんかいないけれど、それでも、私と桜井くんが並んで座る光景を俯瞰(ふかん)して、記憶のアルバムにしっかりと貼りつけることができる気がした。

 このまま時間が止まればいいのに。そうとさえ思えるほどの居心地の良さというか、手放しがたい気持ちの良さがあって、少しだけ頭を傾けた。コツリと互いの髪越しに頭が触れる。このまま、ずっと、誰もいないこの場所でずっと静かに頭を触れさせ続けたら、そしたら桜井くんの気持ちが私にも分かるだろうか。


「……なんなら、もしかしたらただの友達が言うことじゃないのかもしれないけど。言う彼氏がいるかって言われたらいないしな」


 そんな夢心地は、その一言で覚めた。

 「言う彼氏がいるかって言われたらいないし」って、雲雀くんは彼氏だし、桜井くんの今までの話は雲雀くんの思考をトレースしたものみたいなものなんじゃないの? ……それとも〝お試し期間〟だからそれは〝彼氏〟じゃないってこと?

 桜井くんがお試し期間だと知っていることに何の不都合もない──自動販売機の前で雲雀くんと話していた日、そう思いつつもどこか引っ掛かりを感じていたことを思い出した。

 お試し期間でもなんでも、雲雀くんは私の彼氏だよ。好きじゃなくても付き合ってるパターンなんていくらでもあるって陽菜から聞いたことあるよ。だから好きでも好きじゃなくても彼氏なんだよ。

 そう言いたくて仕方がなかった。でもそんなことを言ったら、きっと桜井くんは頭を退けてしまう。それはイヤだった。

 ただ、本当に夢から覚めて現実を見てしまったかのように、もう心地の良さなんてなかった。胸の中では、なにか悪いことか(ずる)いことをしているような、私だけ得をしているような、そんな微妙な感情が広がり始めている。それは罪悪感に似ていた。気づかないふりをしたい、目を(つむ)ってたので見えませんでしたと言い訳をしたい、そんな風に思わせる感情だった。

 でも何の罪悪感だというのだろう。何も悪いことなんてしてない。何も狡いこともしてない。何も得なんかしてない。ただ、桜井くんが肩に頭を乗せるのを受け入れてるだけだ。私にやましい感情はない。

 じゃあ、もし、この光景を雲雀くんに見られたら?

「……俺がインテリ系なの、似合わない?」


 もしかしたら、その自問が答えだったのかもしれない。

 でもそれが答えだと気が付く前に、思考が桜井くんの問いに乱される。


「……似合わなくはないのかもしれないけど、おバカ可愛い系のままでいてくれたほうが、安心する」


 インテリ系の桜井くんは、核心をついてくるから私に都合が悪い。それに、インテリ系になったら、可愛さと頭の良さを兼ね備えてしまうことになる。

 ずっと、ずっと、四月の最初に知ったままの桜井くんでいてくれればいい。背も伸びないで、時々鋭さを見せるのに基本はおバカで、雲雀くんの隣で騒いでいる小さい子みたいなまま、何も変わらないで。

 雲雀くんより、格好良くならないで。

 桜井くんは「んー」と悩まし気な声を出しながら頭を私の肩から外す。離れてしまった重みは跡形もなく、頭を載せていた事実なんて最初からなかったかのようだった。


「……でも売り方変えないとさあ、背伸びてきたから」