「あなたからもらった指輪。一生大事にするね」
「僕にとっては、あれが本当の結婚式だった。今夜こそ、キミの指にそれがあるのを見たかったのに」
彼の指先が、繋いだ指先に絡みつく。
その手には何もはめられていなかった。
「あなたの愛が本物だというのなら、この場でキスして。あの時の結婚式のように」
「今ここで?」
「そうよ」
マリウスの顔が険しさを増す。
キスなんて、出来るわけがない。
事実上の婚約発表をした席で他の独身女性とダンスすることだって、異例中の異例のことなのに。
そんなことをすれば、モニカと彼女を支持する内務大臣家への宣戦布告に値する。
「それをすれば、キミは納得出来るのか?」
「少なくとも、今より少しは信じられるかも」
「困った人だ」
音楽が終わる。
最後のポーズを決めると、私たちは向かい合って軽く膝を折った。
これでダンスはお終い。
彼と目が合った瞬間、その手が私へ伸びた。
顎に触れ顔が近づいてくる。
マリウスが目を閉じるのに合わせて、私も目を閉じる。
会場がどよめいた。
その瞬間、マリウスの頬が私の左頬に触れる。
キスじゃなかった。
これは親愛を示す挨拶だ。
彼は一度顔を離すと、反対の頬にもう一度自分の頬を擦り付けた。
「これでキミの社交界での地位は、まだ崩れはしないだろう。僕から親愛の証を受け取ったのだから」
「……。確かにそうね」
マリウスはニコリと大人びた笑みを浮かべると、談笑をしていた重鎮クラスの男性陣の元へ歩み寄る。
マリウスはすっかり王子らしい振る舞いをするようになった。
王族としての決断。
私の気持ちと、モニカという婚約者が決まったモゴシュ家への配慮。
そして何より、私がモニカに個人として負けたわけではないということを示してくれた。
だけど、本当に私の望んでいたのは……。
「王子も随分、大胆なことをするようになったもんだなぁ」
踊り終わった私を待ち構えていたのは、ラズバンさまだった。
彼は腕を組み、珍しいものでも見るようにマリウスを見ている。
これ以上注目の的にはなりたくない。
王子と話も出来たことだし、ここは早めに退散してモニカ嬢の機嫌を損ねることなく、彼の王子としての顔も立てて……。
「すっかり人の気に当てられてしまいましたわ。今夜はこれで失礼します」
「おや。そんなことが許されるとでも?」
立ち塞がるラズバンさまの横をすり抜けようとしたのに、彼の手が私の腕を掴む。
もう! 本当になんなの、この人!
「はは。そんな顔なさらずとも、あなたの悪いようにはしませんよ」
どちらかといえばあまり表情を表に出すことのない彼の顔が、わずかに曇りを帯びた。
その目が寂しそうに見えたのは、気のせい?
そんな彼が耳元でささやく。
「さぁ、いくら由緒正しきモルドヴァン将軍家のご令嬢とはいえ、私の機嫌を損ねない方がいいことくらい、お分かりでしょう?」
「だからと言って、都合のいい玩具になるつもりはありませんの」
こんなに大勢の人目がなければ、そしてこの人が宰相さまのご令息でなければ、さっさとひっぱたいて出て行ってやるのに!
「そんなに嫌がらないでください。私のささやかな勇気なんて、あなたの言葉一つで簡単に折れてしまうのですから」
「なにがおっしゃりたいのか、見当もつきませんわ」
「私はいま、自分自身の決断と行動力に、自ら驚きを感じているのです。まだこんな気持ちが残っていたなんて、思いもしなかった。本当に不思議だ」
「帰ります。お先に。ではごきげんよう」
「寂しいね、お嬢さん」
彼の強い腕の力で引き寄せられる。
男性からエスコートとは名ばかりの拘束じみたことをされたら、逃げたくても逃げられない。
「ようやくあなたに近づくことが許されたのに、今夜のこの機会を他の男に譲るわけにはいかないだろ?」
「だからどういう意味なの?」
彼を押しのけようとしても、厚く黒い胸板はビクともしない。
「失恋したばかりの女性にすぐさまアプローチをしかけるのは、セオリー通りじゃないのか?」
「それは私と王子のことですの? でしたら見当違いも……」
「あなたはご存じないでしょう。私がどれだけ王子を疎ましく妬ましいと思っていたか」
「それは! いつだって王子は、誰もが憧れ羨望の的となるお方ですから。別にあなたに限ったお話ではないのでは?」
ラズバンさまの目が、じっと私に注がれる。
「あなたにとっても、王子は羨望の的だった?」
「と、当然です」
踊っているわけでもないのに、しっかりと繋がれた手を解いてくれそうにない。
エスコートというには、体が近すぎる。
早く離れたいのに、それを知ってか知らずか黒髪の男はますます私を放そうとしない。
「正直言って、俺はただ一つを除いては、王子をうらやましいと思ったことは一度もない」
彼は私の腰に回した手で背後から抱きしめると、指先に口づけをする。
「頭は悪くない王子のことだ。婚約者は必ずモゴシュ家のモニカを選ぶだろうと思ってはいたものの、気が気でならなかった。もしかしたら、覆されるかもしれない。彼はそれが出来る男だ。俺が阻止したくとも、そんな手段も持ち合わせていない。どれだけハラハラしながらこの時を待ったか、キミに想像出来るか?」
私は握られていた手を、ようやく振り解いた。
「そんなことで、私と王子を刺激しようとしても無駄です」
「王子のことなんて、もうどうでもいいだろ。今夜ではっきりしたんた。マリウスのことは忘れろ。俺の興味があるのは、キミだけだ。二人きりで話しがしたいな。アドリアナ。キミがここから抜け出したいというのなら、うちの馬車でモルドヴァン家まで送ろう」
「僕にとっては、あれが本当の結婚式だった。今夜こそ、キミの指にそれがあるのを見たかったのに」
彼の指先が、繋いだ指先に絡みつく。
その手には何もはめられていなかった。
「あなたの愛が本物だというのなら、この場でキスして。あの時の結婚式のように」
「今ここで?」
「そうよ」
マリウスの顔が険しさを増す。
キスなんて、出来るわけがない。
事実上の婚約発表をした席で他の独身女性とダンスすることだって、異例中の異例のことなのに。
そんなことをすれば、モニカと彼女を支持する内務大臣家への宣戦布告に値する。
「それをすれば、キミは納得出来るのか?」
「少なくとも、今より少しは信じられるかも」
「困った人だ」
音楽が終わる。
最後のポーズを決めると、私たちは向かい合って軽く膝を折った。
これでダンスはお終い。
彼と目が合った瞬間、その手が私へ伸びた。
顎に触れ顔が近づいてくる。
マリウスが目を閉じるのに合わせて、私も目を閉じる。
会場がどよめいた。
その瞬間、マリウスの頬が私の左頬に触れる。
キスじゃなかった。
これは親愛を示す挨拶だ。
彼は一度顔を離すと、反対の頬にもう一度自分の頬を擦り付けた。
「これでキミの社交界での地位は、まだ崩れはしないだろう。僕から親愛の証を受け取ったのだから」
「……。確かにそうね」
マリウスはニコリと大人びた笑みを浮かべると、談笑をしていた重鎮クラスの男性陣の元へ歩み寄る。
マリウスはすっかり王子らしい振る舞いをするようになった。
王族としての決断。
私の気持ちと、モニカという婚約者が決まったモゴシュ家への配慮。
そして何より、私がモニカに個人として負けたわけではないということを示してくれた。
だけど、本当に私の望んでいたのは……。
「王子も随分、大胆なことをするようになったもんだなぁ」
踊り終わった私を待ち構えていたのは、ラズバンさまだった。
彼は腕を組み、珍しいものでも見るようにマリウスを見ている。
これ以上注目の的にはなりたくない。
王子と話も出来たことだし、ここは早めに退散してモニカ嬢の機嫌を損ねることなく、彼の王子としての顔も立てて……。
「すっかり人の気に当てられてしまいましたわ。今夜はこれで失礼します」
「おや。そんなことが許されるとでも?」
立ち塞がるラズバンさまの横をすり抜けようとしたのに、彼の手が私の腕を掴む。
もう! 本当になんなの、この人!
「はは。そんな顔なさらずとも、あなたの悪いようにはしませんよ」
どちらかといえばあまり表情を表に出すことのない彼の顔が、わずかに曇りを帯びた。
その目が寂しそうに見えたのは、気のせい?
そんな彼が耳元でささやく。
「さぁ、いくら由緒正しきモルドヴァン将軍家のご令嬢とはいえ、私の機嫌を損ねない方がいいことくらい、お分かりでしょう?」
「だからと言って、都合のいい玩具になるつもりはありませんの」
こんなに大勢の人目がなければ、そしてこの人が宰相さまのご令息でなければ、さっさとひっぱたいて出て行ってやるのに!
「そんなに嫌がらないでください。私のささやかな勇気なんて、あなたの言葉一つで簡単に折れてしまうのですから」
「なにがおっしゃりたいのか、見当もつきませんわ」
「私はいま、自分自身の決断と行動力に、自ら驚きを感じているのです。まだこんな気持ちが残っていたなんて、思いもしなかった。本当に不思議だ」
「帰ります。お先に。ではごきげんよう」
「寂しいね、お嬢さん」
彼の強い腕の力で引き寄せられる。
男性からエスコートとは名ばかりの拘束じみたことをされたら、逃げたくても逃げられない。
「ようやくあなたに近づくことが許されたのに、今夜のこの機会を他の男に譲るわけにはいかないだろ?」
「だからどういう意味なの?」
彼を押しのけようとしても、厚く黒い胸板はビクともしない。
「失恋したばかりの女性にすぐさまアプローチをしかけるのは、セオリー通りじゃないのか?」
「それは私と王子のことですの? でしたら見当違いも……」
「あなたはご存じないでしょう。私がどれだけ王子を疎ましく妬ましいと思っていたか」
「それは! いつだって王子は、誰もが憧れ羨望の的となるお方ですから。別にあなたに限ったお話ではないのでは?」
ラズバンさまの目が、じっと私に注がれる。
「あなたにとっても、王子は羨望の的だった?」
「と、当然です」
踊っているわけでもないのに、しっかりと繋がれた手を解いてくれそうにない。
エスコートというには、体が近すぎる。
早く離れたいのに、それを知ってか知らずか黒髪の男はますます私を放そうとしない。
「正直言って、俺はただ一つを除いては、王子をうらやましいと思ったことは一度もない」
彼は私の腰に回した手で背後から抱きしめると、指先に口づけをする。
「頭は悪くない王子のことだ。婚約者は必ずモゴシュ家のモニカを選ぶだろうと思ってはいたものの、気が気でならなかった。もしかしたら、覆されるかもしれない。彼はそれが出来る男だ。俺が阻止したくとも、そんな手段も持ち合わせていない。どれだけハラハラしながらこの時を待ったか、キミに想像出来るか?」
私は握られていた手を、ようやく振り解いた。
「そんなことで、私と王子を刺激しようとしても無駄です」
「王子のことなんて、もうどうでもいいだろ。今夜ではっきりしたんた。マリウスのことは忘れろ。俺の興味があるのは、キミだけだ。二人きりで話しがしたいな。アドリアナ。キミがここから抜け出したいというのなら、うちの馬車でモルドヴァン家まで送ろう」



