涙の流星群

 海堂さんいわく、龍司さんの家は「カレス」から向かうとなると、ちょっとばかり遠いらしい。

 人数が多いということもあり、ぼくらは話し合った結果、ぼく、遙香さん、夏奈さん、海堂さんの四人で、龍司さんの家に向かうことになった。

 徹たちには悪いが、彼らには家に戻ってもらうことになり、とりあえずは解散という形で、この場はお開きとなった。

「龍司さんのサイン、もらってきてね。えへへ、約束だよ、翔」

 この言葉は姉が言ったものだが、これ以上の意味不明な言葉はもうたくさんだったので、ぼくは「龍司さんって、無精髭らしいよ」と姉を意図的に幻滅させ、その場から姉を退散させた。

 これでよし。

 ちなみに龍司さんが無精髭だという情報は、あらかじめ海堂さんから聞いていたため、それでぼくは知ることができた。

 この戦争、姉の負けである。

 姉が立ち去ったあと、ぼくと姉の戦争の目撃者である海堂さんは唐突に吹き出し、「さすがは天音の弟、翔くんだ」とぼくの髪をくしゃくしゃにした。

 その後、ぼくらはバス停留所で路線バスに乗り、そこから十八本目の「(よもぎ)ビル前」で、ぼくらはバスを降りた。
 そこからさらに五分ほど歩いたところに、龍司さんが住む築四十年以上の五階建て賃貸マンション「メゾン長瓶(ちょうびん)」があった。

 そこは寂れたマンションで、本当に人が住んでいるのかというくらい、あまりに人気がなく、同時に怪しいマンションだった。
 それだけならまだいいが、マンションの敷地内を見て、ぼくは戦慄。

 猫は我が物顔でうろつき、数匹のカラスは敷地内にあるゴミ袋を突っつき、平和の象徴でもあるハトは敷地内のあらゆるところにいた。

 どうやら、ぼくは日本の闇を見てしまったようだ。
 家に……帰りたい。

 後ろにいる遙香さんと夏奈さんを見ると、不安や恐怖のためか、二人は互いに手を取り合い、ブルブルと震えていた。
 彼女たちのおびえた様子に釣られ、ぼくはブルッと身体を震わせた。

「か、海堂さん……」

 ぼくは正面を向いたまま、隣にいる海堂さんに声をかけた。
 しかし、海堂さんの返事はない。
 もう一度、ぼくは海堂さんに声をかけた。

「海堂さん、ここは危険です。とりあえず、避難しましょう」

 それでも、海堂さんの返事はない。

 そこでようやく、ぼくは海堂さんに目を向け、「か、海堂さん……?」と彼をいぶかしんだ。
 海堂さんの表情を見て、ぼくは目をまん丸くした。
 なぜなら、ぼくが海堂さんを見たとき、彼は懐かしそうに目を細め、これまた懐かしそうにうんうんとうなずいていたからだ。
 そして彼は一言――「いつ見ても、ここは心が和む」と「メゾン長瓶」の敷地内を眺めながら、そう感嘆の声を上げた。

 パリン。

 ぼくの心の中で、あるものが割れた。
 ぼくはそれが割れる瞬間を見ていて、当然、それがなんなのかも知っていた。
 けれど、ぼくは見て見ぬ振りをすることにした。
 それが海堂さんと付き合う上で、もっとも大事なことだと、もっとも大切なことだと、理解したからだ。

 ぼくは海堂さんの信じられない一面を知らない。
 彼の信じられない表情を見ていない。
 彼の信じられない発言を聞いていない。

 ぼくは何も知らないし、見てもいないし、聞いてもいない。
 だから、ぼくは海堂さんに幻滅なんてしない。
 海堂さんは海堂さんだ。

 そう思い込むことにしたぼくは、ふっと笑い、「海堂さん、ここが龍司さんの住むマンションですね?」と爽やかな口調で海堂さんに確認した。

 ぼくの芝居じみた話し方に釣られたのか、海堂さんもこれまた爽やかに「ああ、そうだよ。ぼくの尊敬すべき叔父であり、きみたちの思い出作りをサポートする頼もしき人物、滝沢龍司さんが住むマンションだ」と目の前のオンボロマンション「メゾン長瓶」を手で示してみせ、誇らしげに腕組みをした。

「ええ、分かりますとも」

 ぼくは海堂さんの雰囲気に合わせるため、うんうんとうなずいた。

 そのとき、後ろにいた遙香さんと夏奈さんが悲鳴を上げた。
 何事かと、ぼくは後ろを振り返った。

「ちょっとちょっと、翔くんったら……何を感化されているの? 正直に言うね、二人とも怖い!」
「……きみたちさ、わたしたちをだまそうとしているよね。
 えっと、じゃあ聞くけど、こんな怪しいところで何をするつもりなの?」

 全力で遙香さんと夏奈さんは拒絶と不快の反応を示し、遙香さんに至ってはパニックに陥っていた。

 やめろ、二人とも。
 せっかくぼくが新たに身に付けた処世術なんだ。
 それを台無しにしてくれるな。

 空気の読めない二人の声に、ぼくは鬼のような表情で「うるさいぞ、きみたち。女は男のあとに黙って付いてくる……それすら守れなくて、何が女だ」と自分でも何を言っているのか分からない言葉を使い、彼女たちを責めた。
 とうとう遙香さんは泣き出してしまい、見かねた夏奈さんが「この鬼! 時代錯誤も甚だしいってば」とぼくをきつくねめつけ、強く非難した。

 そんなこんなで数十分の時間を、ぼくらはこの「メゾン長瓶」の敷地内で過ごした。
 なので、龍司さんが住む一〇一号室のドアチャイムを鳴らす頃には、海堂さん以外の人物は皆、物々しい雰囲気を漂わせていた。

 正直に言おう。
 ぼくは悲しい。