『そのままでいいから、聞いて』
「聞きたくなんかない」
『いいよ、それでも。今から言うことは、わたしの独り言。だからあお君は、そうしてて。……ね?』
ゴミ箱から聞こえる声は、とても穏やかだ。
まるで初めから、こんな日が来るのを知っていたかのよう。
そしてそのまま、柔らかい、包み込むような優しい声で、話を始めた。
◇
『二年と九十三日前。令和四年の五月十七日、火曜日。きみは三年生だった。忘れもしない。風がとても強い日だった。きみは……わたしの弟と、わたしのお父さんと海に釣りに行ったんだ』
「……? 釣り? 釣りなんてしたことない」
お父さんは釣り好きだ。
でも僕には危ないと言って、一度たりとも一緒に釣り場には連れて行ってもらっていない。
はは。きぃ子ちゃんは寂しそうに笑った。
『覚えてないよね。きみにとって、あるいはきみの家族にとっては、とても都合の悪い記憶だから。きみたち家族の魂が、記憶を手放したんだ』
「何を、言っているの」
僕は布団から顔を出した。ゴミ箱の中に捨てた心優しいお姉さんは、静かな声で続けた。
『それで、ふたりして波にさらわれて、海に落ちておぼれたんだ。ライフジャケットも着てなくてね。四十五分後に君が、一時間後に弟が助けられた』
「きぃ子ちゃん、弟がいたの?」
『……うん。たいようっていうの。覚えてないかな』
たいよう? たいよう……。だめだ、聞いたことがない。とても思い出せない。
『それであさぎと、勝負をしたんだ』
「あさぎ……」
まただ、またその名前が出た。誰なんだ、あさぎって。
「ねえ、きぃ子ちゃん、あさぎって、だれ?」
『ふふ。やっと名前を呼んでくれたね』
「いいから。あさぎって、だれ」
僕の中で胸の鼓動が大きくなる。
いつの間にか、部屋の音が静かになっている。
『きみの。──お姉さんだ』

