自転車が倒れる音がして、パッと目が開いた。
枕元のスマホで時刻を見る。まだ起きるには早い時間だ。
スマホを戻して、布団を深くかぶって、目を閉じる。
風が吹き荒れる音が、やけにくっきり聞こえる。
眠いはずなのに、寝付けそうになかった。
布団の中でぎゅっと手を握りしめる。
……やっぱり私は、緊張しているんだろうか。
今日、私の通う中学校では卒業式が行われる。
私は在校生代表として、卒業生のみなさんに「送る言葉」を言う大役を任された。
そこまで優等生ではない私が在校生代表に選ばれたのは、そもそも私しか立候補者がいなかったから。そして私が立候補したのは、とある先輩に良いところを見せたかったから。
事前に作った文を読み上げるだけだから、大きなミスは起こらないと信じたいけれど。
万が一嚙み噛みになってしまったらと思うと恐ろしい。
先輩を快く送り出すためにも、できることなら完璧に。
だからこそ、寝不足で臨みたくはなかった。
あと、十分に寝ておきたい理由はもう一つ。
目にクマがある状態で、卒業式のあとに先輩に会うのも嫌だった。まだ会えると決まったわけじゃないけど、たぶん記念撮影用の自由時間があるはずだから。
もし、先輩に会えたら――。
告げる言葉は決まっているはずなのに、想像するだけで、鼓動が早くなった気がする。
多くの人の前で言う「送る言葉」よりも、先輩一人のためだけに紡ぐ言葉の方が、私にとっては大切……なのかもしれない。断言してしまえば、卒業生のみなさんが可哀想な気がするから、私は深く考えるのをやめた。
中学生なんてそんなもんだろう。顔を覚えてすらいない人へ感謝することはできないから、自分が今までお世話になったことを挙げてみればあら不思議。卒業生のみなさんは、それぞれ自身の思い出と重ね合わせて勝手に感謝を受け取ってくれる。
いわゆる「本日はお日柄もよく」的な言葉が入るから、気がかりなのは天気だけど、まぁこれだけ風が吹いていれば大丈夫だろう。
雲があっても、きっと吹き飛ばしてくれる。
☆
卒業式はつつがなく終わった。先輩を含めて、卒業生のみなさんは最後のホームルームに臨んでいることだろう。
で、私たち在校生(卒業式に出席できなかった人を含め)と、3年生を担当していない教職員のみなさん、あと保護者のみなさんはというと。
ホームルームを終えた卒業生が通って学校を出る「花道」をつくっている。
といっても、先生の指示に従って、卒業生が通るであろう部分の両脇に並んでいくだけだ。
二、三クラスを拍手で送り出したあとで、先輩のクラスが花道に姿を現した。
……見つけた。
「先輩!」
声を張り上げながら列に駆け寄ると、先輩は私に視線を向けた。
目が合う。いつも通りの、恐ろしいほどに澄んだ瞳。
感情が一切読み取れないのに、温かみが伝わってくるような瞳。
拍手の音、風の音、喋る声――全ての音が消えた、気がした。
「えっと、これ……!」
四つ折りの紙切れをそっと差し出すと、先輩は微笑んで受け取ってくれた。
「ありがとう」
先輩の笑顔に寂しげな雰囲気が混じっているような気がして不安を覚えたけれど、引き留める前に先輩は歩き去ってしまった。
――ありがとう。
先輩の声が、耳の中でまた響いた。
☆
卒業生のみなさんが去ったあとで、ようやく私は学校の外へ出られた。強い風に抗いながら、急いで卒業生のみなさんを追って広場へ向かう。
記念撮影をしたり語り合ったりしている卒業生たち。
先輩はここにいるだろうか。
さっき渡した紙を見てくれただろうか。
『あとで少しお時間いただけますか?一つお伝えしたいことがあるんです』
何も話せないまま先輩がそそくさと帰ってしまう可能性だけは防ぎたかった。
というのも、先輩は本っっ当に帰るのが早い。毎日ホームルームが終わってすぐ靴箱へ向かっていたけれど、先輩の靴があった試しはなかった。
今日も先輩は帰っているかもしれない。
もし先輩がさっき渡した紙を見た上で帰ったのなら、私が先輩に避けられていただけのこと。それなら諦めるしかない。
祈りながら先輩を探すけれど、見当たらない。
自分の視力が仕事をしていない可能性に賭けて、私は風に吹かれながら、広場を出ていく人を観察することにした。
しばらく経って、人影がまばらになっても、先輩の姿は見当たらない。
なんとなく予感はしていたけれど。先輩はすでに帰っていたようだった。
「……そっか」
目を閉じて、ぐっと伸びをする。
暖かい風に背中を押されるようにして、よろよろと家へ歩き出す。
「先輩、今までありがとうございました」
「本当にお世話になりました」
「……好き、でした」
心の中にあるどんより雲と一緒に、ぽつりぽつりと吐き出した言葉は、もちろん先輩には届かないまま風とともに飛んでいく。
☆
あっという間に着いた、誰もいない家。
鍵を開けて、ドアを開ける。
閉まっていくドアの隙間から一瞬だけ見えたのは、少し憎らしくなるほど清々しい、雲ひとつない空だった。
バタンと音を立ててドアが閉まる。
長いため息を吐いて、鍵を閉めて、にっこり笑う。
「ただいま」
明日はもうちょっと、楽しいことがありますように。
枕元のスマホで時刻を見る。まだ起きるには早い時間だ。
スマホを戻して、布団を深くかぶって、目を閉じる。
風が吹き荒れる音が、やけにくっきり聞こえる。
眠いはずなのに、寝付けそうになかった。
布団の中でぎゅっと手を握りしめる。
……やっぱり私は、緊張しているんだろうか。
今日、私の通う中学校では卒業式が行われる。
私は在校生代表として、卒業生のみなさんに「送る言葉」を言う大役を任された。
そこまで優等生ではない私が在校生代表に選ばれたのは、そもそも私しか立候補者がいなかったから。そして私が立候補したのは、とある先輩に良いところを見せたかったから。
事前に作った文を読み上げるだけだから、大きなミスは起こらないと信じたいけれど。
万が一嚙み噛みになってしまったらと思うと恐ろしい。
先輩を快く送り出すためにも、できることなら完璧に。
だからこそ、寝不足で臨みたくはなかった。
あと、十分に寝ておきたい理由はもう一つ。
目にクマがある状態で、卒業式のあとに先輩に会うのも嫌だった。まだ会えると決まったわけじゃないけど、たぶん記念撮影用の自由時間があるはずだから。
もし、先輩に会えたら――。
告げる言葉は決まっているはずなのに、想像するだけで、鼓動が早くなった気がする。
多くの人の前で言う「送る言葉」よりも、先輩一人のためだけに紡ぐ言葉の方が、私にとっては大切……なのかもしれない。断言してしまえば、卒業生のみなさんが可哀想な気がするから、私は深く考えるのをやめた。
中学生なんてそんなもんだろう。顔を覚えてすらいない人へ感謝することはできないから、自分が今までお世話になったことを挙げてみればあら不思議。卒業生のみなさんは、それぞれ自身の思い出と重ね合わせて勝手に感謝を受け取ってくれる。
いわゆる「本日はお日柄もよく」的な言葉が入るから、気がかりなのは天気だけど、まぁこれだけ風が吹いていれば大丈夫だろう。
雲があっても、きっと吹き飛ばしてくれる。
☆
卒業式はつつがなく終わった。先輩を含めて、卒業生のみなさんは最後のホームルームに臨んでいることだろう。
で、私たち在校生(卒業式に出席できなかった人を含め)と、3年生を担当していない教職員のみなさん、あと保護者のみなさんはというと。
ホームルームを終えた卒業生が通って学校を出る「花道」をつくっている。
といっても、先生の指示に従って、卒業生が通るであろう部分の両脇に並んでいくだけだ。
二、三クラスを拍手で送り出したあとで、先輩のクラスが花道に姿を現した。
……見つけた。
「先輩!」
声を張り上げながら列に駆け寄ると、先輩は私に視線を向けた。
目が合う。いつも通りの、恐ろしいほどに澄んだ瞳。
感情が一切読み取れないのに、温かみが伝わってくるような瞳。
拍手の音、風の音、喋る声――全ての音が消えた、気がした。
「えっと、これ……!」
四つ折りの紙切れをそっと差し出すと、先輩は微笑んで受け取ってくれた。
「ありがとう」
先輩の笑顔に寂しげな雰囲気が混じっているような気がして不安を覚えたけれど、引き留める前に先輩は歩き去ってしまった。
――ありがとう。
先輩の声が、耳の中でまた響いた。
☆
卒業生のみなさんが去ったあとで、ようやく私は学校の外へ出られた。強い風に抗いながら、急いで卒業生のみなさんを追って広場へ向かう。
記念撮影をしたり語り合ったりしている卒業生たち。
先輩はここにいるだろうか。
さっき渡した紙を見てくれただろうか。
『あとで少しお時間いただけますか?一つお伝えしたいことがあるんです』
何も話せないまま先輩がそそくさと帰ってしまう可能性だけは防ぎたかった。
というのも、先輩は本っっ当に帰るのが早い。毎日ホームルームが終わってすぐ靴箱へ向かっていたけれど、先輩の靴があった試しはなかった。
今日も先輩は帰っているかもしれない。
もし先輩がさっき渡した紙を見た上で帰ったのなら、私が先輩に避けられていただけのこと。それなら諦めるしかない。
祈りながら先輩を探すけれど、見当たらない。
自分の視力が仕事をしていない可能性に賭けて、私は風に吹かれながら、広場を出ていく人を観察することにした。
しばらく経って、人影がまばらになっても、先輩の姿は見当たらない。
なんとなく予感はしていたけれど。先輩はすでに帰っていたようだった。
「……そっか」
目を閉じて、ぐっと伸びをする。
暖かい風に背中を押されるようにして、よろよろと家へ歩き出す。
「先輩、今までありがとうございました」
「本当にお世話になりました」
「……好き、でした」
心の中にあるどんより雲と一緒に、ぽつりぽつりと吐き出した言葉は、もちろん先輩には届かないまま風とともに飛んでいく。
☆
あっという間に着いた、誰もいない家。
鍵を開けて、ドアを開ける。
閉まっていくドアの隙間から一瞬だけ見えたのは、少し憎らしくなるほど清々しい、雲ひとつない空だった。
バタンと音を立ててドアが閉まる。
長いため息を吐いて、鍵を閉めて、にっこり笑う。
「ただいま」
明日はもうちょっと、楽しいことがありますように。


