名前のない香水

桐谷は、
言葉を探すみたいに、
一度、視線を落とす。

「……その」

喉まで出かけた言葉を、
飲み込んだのが分かった。

「似合ってる」

それだけ言って、
少し早口。

目は、まだ完全には合っていない。

「ありがとう」

一花は笑って、
でも、それ以上は言わない。

胸の奥で、
桐谷が何かを抱えたままなのが、
分かっていたから。

時計台の鐘が、
ちょうど時刻を知らせる。

「行こっか」
「うん」

並んで歩き出す。
肩と肩の距離は、
ほんの少しだけ遠い。

それなのに。

一花は、
なぜか、胸の奥が静かになっていくのを感じた。

理由を探すより先に、
気づいてしまう。

歩くたびに、
ふっと混じる、甘い香り。

ムスクと、
ほんのりバニラ。

きつくなくて、
主張もしない。

でも、確かにそこにある。

――あ。

それで、だ。

人の多さも、
足元の不安も、
さっきまでのざわつきも。

桐谷の隣に立った途端、
少しだけ遠のいた。

この香りを知っている。
教室ですれ違ったとき、
風に乗って残る、あの匂い。

一花は、
理由を言葉にしないまま、
そっと息を整えた。

夜のざわめきの中で、
その距離が、
さっきより近づいた気がした。