名前のない香水

朝は、思ったより静かだった。

カーテン越しの光がやわらかくて、
蝉の声も、まだ本気を出していない。

顔を洗って、
いつもより少し丁寧に髪を整える。

リビングでは、母がキッチンに立っていた。
湯気の向こうに、背中が見える。

「母さん」

自分の声が、少しだけ高く聞こえた。

「今日……花火大会に行ってくるね」

一瞬、手が止まる気配。
振り返った母は、驚いたように目を瞬かせた。

「花火大会……?」

「うん。友だちと。一緒に」

言い訳も、詳しい説明も添えなかった。
ただ、事実だけ。

母は少し考えるように黙ってから、
ゆっくり息を吐いた。

「……無理はしないこと」
「少しでも変だと思ったら、すぐ帰るのよ」

「うん、分かってる」

そう答えた私を見て、
母は小さく笑った。

「楽しんできなさい」

その一言が、
許可みたいで、応援みたいで。

胸の奥が、静かに熱くなった。

私は「行ってきます」と言って、
玄関に向かった。

今日は、ちゃんと行く。
行きたい場所へ、自分の足で。
夏の一日が、
今、始まった。