名前のない香水

「次、降りるぞ」

アナウンスが流れる。

桐谷がつり革から手を離した、その瞬間。

電車がわずかに揺れた。

一花の視界が、白くなる。

足元が、抜ける。

「っ…」

——倒れる。

そう思った瞬間。

強い腕が、引き寄せた。

胸に、ぶつかる。

息が止まる。

桐谷の腕が、
一花の背中をしっかり支えている。

さっきより、ずっと近い。

いや、近いなんて言葉じゃない。

抱き寄せられている。

甘い香りが、
逃げ場なく包む。

胸板の硬さ。
鼓動。
体温。

「無理すんなって言っただろ」

低く、かすれた声。

怒っているわけじゃない。

焦っている。

一花は、顔を上げられない。

こんな距離、
今までなかった。

周囲のざわめきが遠い。

電車が止まる。

ドアが開く音。

でも。

桐谷の腕は、すぐには離れない。

一瞬だけ。

ほんの、一瞬だけ。

そのまま。

そして。

「…降りるぞ」

やっと、少しだけ距離が戻る。

でも。

完全には、戻らない。

手は、まだ一花の手首を掴んでいる。

強くない。

でも、確かに。

離さない。