「おお、別嬪さんがいる」
濃紺の着流しに身を包んだ妙に気迫のあるご老人が襖からひょいと顔を出しました。このご立派な日本家屋の主で、白波瀬家の御当主、白波瀬源次さんです。
「お邪魔してます」
「雨には降られなかったかい? うちに忘れた折りたたみ傘、至に持たせたが」
「はい。助かりました」
「代わりの人参は美味かったかい?」
「…………はい。大変」
苦い思いで頷くと、私の傍らで袴の裾合わせに勤しんでいた妙齢の女性が口を挟みます。
「ちょっと、お父さん。侑子ちゃんをからかわないでください」
「いや、すまんすまん。そうしているとますます礼子さんに似ていて、ついな。……そういえば、至は?」
「家で着替えてからくるそうですよ。……あ、ちょうど来たみたい」
玄関の方からガラガラと音が立ち、こちらへ向かってくる音がします。
「じいちゃん、回覧板入ってたけ、ど……」
制服でない、シンプルな黒シャツに身を包んだ白波瀬くんと目が合います。白波瀬くんは少しだけ目を見開いて、手にしていた回覧板が床に落ちます。
ハッと我に帰った白波瀬くんは、回覧板を拾い上げます。横に立っていた源次さんが白波瀬くんの旋毛を見下ろします。
「……見惚れたか?」
ピクッと指先が回覧板を掠めます。
しかし、次に瞬きした時には澄ました顔の白波瀬くんが源次さんに回覧板を差し出していました。
「じいちゃん、もう耄碌したの?」
「からかいがいのない奴だな〜お前は」
「……はあ、練習するんだろ? 着付けは終わった?」
「ええ。侑子ちゃん、今日はとりあえず仮止めで。違和感があれば言って。井上さんとこでちゃんと直してもらうから」
「わかりました」
細長い巾着袋から黒漆塗りの上等な横笛を取り出した白波瀬くんが、すれ違いざまにフッと笑います。小馬鹿にした笑いです。
「……何」
「裾踏んで転ぶなよ」
「……チッ。お気遣いどうも」
「今、わざと足踏んだろ」
「失礼。着慣れない装束に足元が覚束ないもので」
そうです。
ただ一つ、誤算があるとするなら。
彼──白波瀬至の存在なのです。



