隣の席の坂本くんが今日も私を笑わせてくる。


 大事件です。
 長年使われていなかった表情筋を酷使した結果。

 「……えっ、あの人誰?」
 「倉橋さん、だよね……?」
 「倉橋さんが笑ってる……」
 「笑ってるとこ初めて見た……」
 「めっちゃくちゃいいことあったんだ……」

 クラス中の視線が、過集中しています。
 針の筵とはまさにこのこと。
 この居心地の悪い空間において全くそぐわない表情を浮かべる人間が1人います──ええそうです。私です。

 視線を逃れるためにハードカバー本を盾にしてみますが、あまり効果はなさそうです。

 本当に困りました。
 笑顔から表情が戻りません。

 私はずっと微笑みを携えたまま小説を読み耽るひとになっています。あるいはとってもご機嫌なひとです。不本意ながら。

 ……まあ、もう、こうなってしまえば仕方がありません。
 いずれ私の表情筋が元に戻ることを願うしかありません。

 幸い、誰に迷惑をかけるわけでもないのですから。
 ……ただ一人を除いて。


 「──おはよう、坂本くん」

 誓って、本当に、ただ挨拶をしただけなのです。

 バサバサッと音を立てて、中途半端に開いていた鞄から中身が飛び出して床に散らばります。
 当の本人は、そんなことには目もくれず、ただ茫然と立ち尽くしています。

 坂本くんの背後から、どこからともなくやってきた早川さんが顔を出します。

 「坂本、いいことあったでしょ~? ……坂本? おーい?」
 「……」

 坂本くんの顔へ向かって手を振りますが、彼は無反応です。

 「し、死んでる……」

 勝手に殺すな。

 「お~い、起きろ坂本」

 坂本くんの目の前で、ぱん、と一発手をたたく早川さん。

 「ッハ! び、びっくりした。何?」
 「今一瞬どっか行ってたよ」
 「い、いや……なんや凄い幻覚を見てもうて……俺疲れてんのかな。倉橋さんが笑顔で俺に挨拶してくれたような気がしてんけど……いや~、アッハッハッハ、ないない。あの倉橋さんが俺に向かって笑ってくれるわけが──」

 ばちっと目が合いました。

 私が少し首を傾けると、ぼんっと爆発したみたいに坂本くんの顔が真っ赤に染まります。顔から蒸気が吹き出す勢いです。

 「なっ……わっ……なっ……!」

 口をパクパクさせたまま、後退りをする坂本くん。

 坂本くんがちい〇わみたいになってしまいました。
 隣のハ〇ワレ……というよりモモン〇……のようにしたり顔で笑う早川さんを尻目にため息をつきます。

 これは、討伐クエストくらい厄介なことになりそうです。