父性本能を刺激したようで最上級の愛で院長に守られています

 私の見ていた羽吹副院長は、もういないんだ。

 羽吹副院長が私を見て別人だと驚いていた。羽吹副院長が見ていたおとなしく柔順な私も、もういない。

 名垣高度動物医療センターの名垣院長との、あの日から。

「それだけお手付きしていたから大金の慰謝料が発生したんですね」

「遊び相手に徒党を組まれたんだろう。結婚二年だから慰謝料ひとり五十万として十五人ほど手を出したのだろう」

 はぁ、凄いや感心する。

「戸根院長は弁護士にもなれますね」
「一般人より、はるかに賢い頭脳を持ち合わせている」

 そりゃあ、私たちは地頭から世間一般では賢い部類に属する。
 それになにより人並み外れた努力をしてきたからこそ今の地位がある。

「あぁあ、どうして羽吹副院長なんかと血液バンクセンターを信じちゃったんだろう」
 流れる景色を眺めながら勝手に独り言が口をつく。

「お前はバカか。男が女に金を借りる意味が分からないのか?」

 なのに横にいる人は悪気もなく悪態をつきまくってくる。いくら毒づいても私は賢いんだってば。

「大切に想っていたら出来ない行為だ。なぜ、それが見抜けない? どこまで腑抜けなんだ」
 腑抜けまで言うか、マヌケよりバカっぽい。

「協力してくれってニュアンスでしたよ」
「あれのどこが協力だ。いいカモを見つけて借りる気満々、返す気皆無だった」

 そう言った戸根院長が、いかに羽吹副院長が悪党かひとつ一つ丁寧に説明し始めた。

「動物好きに動物を使って金を引き出させようとするとは性根が腐った男だ」
 羽吹副院長は動物命の私の気持ちを踏みにじった。

「金を借りる人間には常識がない、直ちに縁を切れ」
 信号待ちの間に手のひらを上に向け右手を出してきた。
「早く」
「なんでしょう?」
「早く携帯を出せ、羽吹さんの連絡先を削除してやる」
「自分で削除します」

「いいから」
 言うや否や瞬間、左側の運転席からふわりと覆いかぶされ柔らかな髪が頬に鼻先に触れ、窓側に置いていたバッグの中から携帯を抜かれた。

「俺が消す」
 な、なに今のでドキドキしちゃってんの。

 てか、鼻先同士が当たりそうなほど戸根院長と上半身が密着した。

 どうしちゃったの私の心臓。まるで別の生き物みたいに跳ね上がり口から飛び出そうなほどのドキドキ感。

「ちょっと待ってください、悔しいから最後に捨て台詞を送信します」

「カモだな、それがカモの思考だ。どんなに悔しかろうが二度と接触するな、金は取られなかったんだ、良しとしろ」

「悔しいじゃないですか」
「お前のことだ。接触すれば、また言いくるめられる。相手の思うつぼだ」

「腹立つぅ!!」
「俺にか?」
「羽吹副院長にですよ」
「言っただろう、騙されただけでマシ、金を取られなかっただけマシ」
「まぁ、そりゃあそうですが」

「俺の女に手を出すな」
「え?」
「と、送信した」
「また古典的なコテコテのセリフ、ご冗談を」

「まさか」
「その、まさかって意味が分かりません」
「伊乃里らしくない、いつも深く考えないだろう。ほら削除した」
 両手のひらに携帯を置かれた。
 
 研修医時代、尊敬してついて行っていた羽吹副院長との師弟関係のような関係が今終わった。

「伊乃里」
 今まで聴いたことない熱い声でささやくように名前を呼ばれた。

 ゆっくり体をこちらに向けてきて、胸元に触れられそうになった。

 固まる体は、あの日を思い出すように戸根院長を拒む。

 胸元に鼻を近付けてくるけれどシートベルトに体の自由を奪われて動けない。
 
「な、なにするんですか」
「弱気な声だな、黙ってろ」
 声とはうらはらに視線を感じる胸元が熱い。