父性本能を刺激したようで最上級の愛で院長に守られています

「果たして、私は今でも獣医を続けていたのか。自信がないです」

「僕がそうはさせなかった。人には得手不得手がある。最初から見抜いていたよ、伊乃里くんの良いところを」

 自分が褒められたみたいに自慢げな顔の羽吹副院長の顔を初めて見た。
 いつも謙虚で誇示しないくても、こんな瞬間があるんだ。
 
「麻酔科や手術室や消化器内科や、その他もろもろ。内科で確保しないと、きみを取られちゃうところだった」

「まさか」

「事実だ。どこの科も伊乃里くんのことを喉から手が出るほど欲しがった」
「ありがとうございます、光栄の至りです」  

「内科に伊乃里くんがいてくれないと困る。まさに今がそれ。っていうか、もう二年だよ」

 私が辞めてから、どれだけ大変かを説明する合間にコーヒーをひとくち飲んでは喉の奥に潤いを与えている。

「まだまだ私なんか若手です」
「それなら僕は三十歳だから、まだまだ獣医師としては若手だ」

 羽吹副院長は誰もが羨むスーパーエリート獣医師だが、なにをどうしたか常に謙虚で控えめだ。

「なにをおっしゃいますか。羽吹副院長は若手から脱して、今や引く手あまたのエリート内科医ですよ?」

「誰にお世辞を教わったの? 僕は教えていないよ」

 包容力のある優しい微笑みに思わず釣られて、私の頬も緩み二人で顔を見合わせた。

「名残惜しいけど、そろそろ出ようか。僕は、この足でセンターにUターン」

「お疲れ様です」

「自分の足音に追われるように走り回っていた頃を思い出すでしょ」
 羽吹副院長から少し控えめな笑い声が漏れるから、疲れていないかと心配になる。

「今日は、せせこましくてごめんね」
「いいえ、とんでもないです。ごちそうさまでした」
 カフェの扉を開ける広く大きな背中の先には、初夏の木々鮮やかな緑が目に飛び込んできた。

「ここのフレンチは量といい味といい、お気に入りの店なんだ」
 品のいいスーツに身を包み、ふわりと微笑む羽吹副院長の長身を見上げた。

「また一緒に来よう、次は食事で」
 同意のしるしに大きく頷く。
「未来の話に困った顔して」

「い、いいえ、そんなことないです」
 まるで全身で動揺していますと宣言したように、少し背伸びして履いて来たヒールで躓いた。

「足もとに気を付けて」
 さりげなくエスコートをしてくれた羽吹副院長の姿は手慣れている感じ。

「それなら。また一緒に来る?」
 念を押すように訊ねる顔は、考えあぐねる私の答えをゆっくりと待っている。

「お願いします」
 いつも誘ってくれるみたいにランチだと思ったから軽く首を縦に振った。

 その後、建物から門へ向かう小さな石畳を数えるように視線を落として、歩を進める。

「次は初めてディナーに誘おうかな」
 羽吹副院長の声は頭上から降り注がれた。

「ディナー......ですか?」
「きみはおとなだよ。夜に誘ったら、おかしい?」
「い、いいえ」
 頭の中は同じセリフがぐるぐる回る。年ごろの男女がこうして会っていていいのかと。

「途中までしか送ってあげられなくてごめんね」
 
 あまりにも申し訳なさそうに謝るから恐縮してしまい、仕事を優先してほしいと願った。

 夕方だけれど初夏のこの季節は、まだまだ外は明るい。

 途中までとは言いながら慎重な羽吹副院長は、マンションの近くまで送り届けたくれた。
 
 交際してもいない相手と二人きりで会うことに対して、やはり心に引っかかって仕方がない。
 考えすぎかな?

 今日は突然、男性として意識してと言われたのでよけいに考えてしまう。

「また、次いつ会う約束を取りつけられるか分からないからね。伊乃里くんの姿を目に焼き付けておくよ、じゃあね」

 そう言い残した羽吹副院長は帰り道を何度も振り返った。