父性本能を刺激したようで最上級の愛で院長に守られています

 たまに縫い針を黒髪に当てながら縫うことに集中していて、私の話は聞き流しているのかと思いきや、澄ましてしっかりと聞いているのか。

 どっちなんだい。

「お前は言葉の話せない動物相手の仕事をしているんだろう? 心の内に耳を傾けてみろ、鈍感野郎」

 自分の心なのに私の心はなんて言っているのか分からない。
 ってか、本当に口が汚い。

 戸根院長が顔を上げないのを良いことに、私の眉間には犬の威嚇みたいにシワが寄り、鼻がぴくぴくする。私は犬か。

「なにか縫うものはないか?」
 ようやく顔を上げた戸根院長は獲物でも見つけるように、室内を見渡して一点に目が集中した。

「ドクターコートの裾がほつれている。こっちに来い」
 瞳の長い睫毛がちらりと動いた。
「聞こえないのか? 近くに来いと言ったんだ」
 腕を引っ張られ戸根院長と向かい合わせに立った。

 しょっちゅう患畜の保定で獣医師と体が触れ合うから、職業病なのか腕をつかまれてもなんとも思わない。 

「なぜ、このほつれに気付かないんだ、バカなのか」ってドクターコートの裾に目を集中させて、ぶつくさ独り言を言いながら縫い始める。

「羽吹副院長に“冗談だよ”と否定してほしかったのか? 俺にはそう聞こえた」

「意識していなかったですし、今もしていないです、たぶん」
 自分の気持ちが分からず、たぶんを強調した。

「急ぐな、いつか心が求める。この人って愛する相手を」
 愛してるって心がどうなるの? 私は自分の心の中が分からない。

「目を閉じると条件反射のように心の中に浮かび上がる」
 戸根院長の長い睫毛がふんわりと揺れて、瞳に私の顔が映った。

「今も愛する者が浮かんでいる」
 戸根院長の心の中に?
「ここに」
 胸の鼓動に合わせるように長い指先を波打たせる。

「考えるのをやめようと思っても気が付いたら考えてしまう。ついつい気付いたら、また考えている」

「寝ても覚めてもですか? ちゃんと眠らないと体がもたないですよ?」
「とんでもない、逆に力をくれる。俺の活力だ。愛する者がいるから毎日頑張れる」

「戸根院長には好きな人がいるということですか? 私に教えてくれなかったですね、いつからなんですか?」

「いつから。そうだな、ん、気付いたらだ。愛するってそんなもんだろ」

「私の知っている人ですか?」
「伊乃里は知らない、分かっていない」
 小首を傾げて浅く頷く顔には控えめな微笑みが浮かぶ。

「私は知らない人ですか、いつか会わせてくださいね」
「会わせろと? どうやって会わせたら良いのだろう」
 鼻先に人差し指をあてて擦っている。考え込んだときの戸根院長の癖。

「そんなに難しいんですか? 遠くに住んでるとかですか?」
「や、すぐ近くにいる。会わせる方法が思い付かない」
「なんでも出来る賢い戸根院長でも難しいことがあるのですね」

「伊乃里も心の内に耳を傾けられるようになれたらいいのにな、この鈍感野郎」 
 最後のひとことはいらない。
 
 それにしても、目を閉じたら心の中に浮かび上がる私の愛する人って誰になるんだろう?

 当てもなく彷徨っていた戸根院長の眼差しが急に注意深くなったみたいに見てくるから、何事かと心が身構える。

「今までの話なんだが」
 なにかを思い付いたように一点を集中して見つめていた戸根院長の眉間にシワが寄る。