玉響の花雫    壱

疲れてるから帰るべきなのに、
珈琲店のマスターに会いたくて
気付いたら反対ホームから出発する
電車に飛び乗っていた。


お店が空いてるかも分からないけれど、
マスターの顔が見たくなったのだ


駅の改札口から
履き慣れてないパンプスで
喫茶店に向かって走ると、
窓から漏れる淡い灯りに
ホッとして自然と笑顔が溢れる



カランカラン


『いらっしゃい‥‥おや‥霞さん。』


マスター‥‥


ついこの間までそこに立っていた
側の私は、何一つ変わらず
笑顔で迎えてくれたマスターに
思わず泣きそうになってしまう


こんなにも暖かい空気感を
出してくれる人なんて
他にはいないかもしれない‥‥


「こんばんはマスター。
 お久しぶりです。」


『一杯良ければいかがですか?』


「勿論です。いただきます。」


カウンターに腰掛けると、
鼻を掠める珈琲のいい香りに
体の力が自然と緩んでいく。


店内に2人ほどお客様は見えるものの、
相変わらずジャズの音色が心地よく、
時が流れるのが何倍も遅く感じるくらい
ゆったりとしていた



『はい、どうぞ。
 今日はコロンビアの中煎りです。
 蜂蜜もご一緒に用意しましょうか。』


「ありがとうございます。
 今日はマスターとこれを食べたくて
 来てしまいました。珈琲との愛称が
 程よい苦味のチョコレートで、
 私の会社の製品なんです。」


箱に入った小さな板チョコを
テーブルに出すと、
マスターが優しく目を細めて笑い
一つ摘んで口に含んだ


沢山商品があるけれど、私は
トリュフでも生チョコでもない
シンプルなこのチョコが大好きだった


子供の頃には
食べれなかった大人のビターな苦味を
いつの間にか食べられるようになり
大人の仲間入りをした気分になれたから




『確かに‥‥
 珈琲ととても合いますね。』


考えなくちゃいけないことは沢山ある。
明日までに部署をどうすべきかも。


焦って決めても私は間違った方向へ
行くことが多いので、一旦ここで
気持ちを落ち着かせて考えたかったのだ


「あの‥‥
 マスターはどうしてこの珈琲店を
 始めようって決めたんですか?」



私は、新人研修が終わったことと、
明日までに一月働く仮部署を書いて
出さないといけないことを少しだけ
話した。


お店を始められて35年目ということを他のお客様に聞いたことがあったから、今のマスターの年齢からすると、
今の私とあまり変わらない年齢から
始めていることになる。


私が産まれる前、
ここはどんなお店だったのだろう‥


『霞さん‥‥わたしはね、珈琲が
 特別好きではなかったんですよ。』



えっ?