遠く、やけにのんきな蝉の歌が、そこら中から聴こえていた。
平日、私は一人、無人駅のベンチにぽつんと座っていた。
「九時半……」
スマホの液晶画面に表示されている時刻を見て、どっとため息をつく。
本来ならば、もうとっくに授業が始まっている時間だ。なのにさっきからずっと、ここを動く気になれないでいる。というか、最近、なにをするにしても気力が湧かない。
じゃあ、どうしてここにいるのかといえば、そろそろいい加減、学校に行かないと単位が危ないから。お父さんいわく、つい昨日、学校から電話があってそう言われたらしい。
しかし、見ての通り、私は今、学校をサボっている。というのも、とたんに怖くなってしまった。学校に行くことが。
私は暗い気持ちになりながら、スマホを再び、カバンの中に入れ直す。
暑い……。首周りにじっとりとにじんだ汗の不快感に、ブラウスの襟をパタパタとさせた。
もう七月だ。無理もない。
私が家に閉じこもっている間に、外の世界は少しずつ夏の色を見せ始めていた。どうせ学校じゃ、今頃はみんなそれぞれ仲のいいグループができていることだろう。今さら教室に居場所はない。勉強しかろくに取り柄がなかったくせして、第一志望の高校には落ちた私なんかに。
もういっそのこと、電車に轢かれて死ねたら楽なのに……。
なんて自暴自棄な考えが、一時、脳裏をよぎる。でも、やっぱり死ぬのは怖い。なのに、死にたいくらい辛い。なんだか矛盾してる。
私は一体、いつになったらこの呪縛のような苦しみから解放されるのだろう。ひょっとして、一生このまま?
焦りと不安が募る。一度、沼にはまってしまうと、そこから抜け出せなくなるのだ。
「家、帰りたくない……」
はたして、ただのダメ人間と化した娘を、親は許してくれるだろうか。お母さんはともかく、お父さんは絶対によく思わないだろう。
そんなお先真っ暗な自分の将来に悲観的になっていた、その時だった。
「だったらさ、俺と一緒にどっか逃げちゃわない?」
放課後、一緒に遊びに行かない? くらいの軽い調子で投げかけられた問いに、私は驚いて顔を上げる。いったい、いつからいたのだろう。そこには一人の、背の高い男の人が立っていた。
「ど、どちら様ですか?」
「俺は通りすがりの、ごく平凡な男子高校生だよ」
「こ、高校生?」
その割に彼は、ずいぶんと大人びた容姿をしている上、制服も着ていない。色白ですっとした顔立ちに、特徴的なシルバーアッシュのウルフカット。たとえるならそう、まるで水辺の月を連想させるような、どこかミステリアスな雰囲気を身にまとう青年。
戸惑う私をよそに、彼はもう何歩か、距離を詰めてきた。反射的にびくっと身震いする。私は膝の上にあったカバンを、自分のほうへ抱きよせた。万が一、相手になにかされた時、すぐに反撃できるように。
「あー、そんなに怖がらないで。誘拐したりしないから」
私が警戒しているのがわかったのか、彼は少し焦ったように片方の手を横に振りながら、眉を八の字に下げる。
「じゃあ……ナンパですか?」
「違う違う!」
最近はこういう新手のやり口もあるのかと思った。けれど、彼のこの本気の否定っぷりを見る限りその可能性はなさそう。
「君がずっと線路のほう見ながら、ぼんやりしてたから」
「……」
どくんと心臓がのけぞる。見られてたのか。
「なにか悩み事?」
「……別に。そもそも、あなたには関係ないです」
ぼそりと吐き捨てるように言って、私はそっぽを向いてしまう。第一、知り合いでもないのに、出会って早々、その質問はなんだ。
そっかという彼の短いつぶやきが耳をかすめる。向こうも諦めてくれたのだろうか。
「これ、あげる」
「コ、ココア?」
突然、彼は缶のココアを差し出してきた。どうやら、もう一方の手の後ろに隠し持っていたらしい。
「切符売り場のとこの自販機で、一本余分に当たったんだ。ちゃんとアイスにしといたよ?」
そういう問題じゃないでしょと、思わず、ツッコミたくなる。なんとなく流れで受け取ってしまったけれど、夏にココアってどうなの。
ますます困惑する私の心境とは裏腹に、彼は見ていてすがすがしいほどの笑みを浮かべている。改めてよく見てみると、色素の薄い瞳がどことなく優しげで、なかなかの美少年だとは思う。
すぐ近くで踏み切りの音が鳴り出した。
ガタンゴトンという轟音を軋ませながら、快速列車が近付いてくる。猛スピードで私達の横を通りすぎるその瞬間、激しい突風が巻き起こった。
わぁっ!
目を塞ぐ直前、線路のほうを振り返った彼の銀髪が、ふわりとなびく。夏の太陽を反射して、キラキラときらめいたシルバーが、なんだかとてもまぶしかった。
平日、私は一人、無人駅のベンチにぽつんと座っていた。
「九時半……」
スマホの液晶画面に表示されている時刻を見て、どっとため息をつく。
本来ならば、もうとっくに授業が始まっている時間だ。なのにさっきからずっと、ここを動く気になれないでいる。というか、最近、なにをするにしても気力が湧かない。
じゃあ、どうしてここにいるのかといえば、そろそろいい加減、学校に行かないと単位が危ないから。お父さんいわく、つい昨日、学校から電話があってそう言われたらしい。
しかし、見ての通り、私は今、学校をサボっている。というのも、とたんに怖くなってしまった。学校に行くことが。
私は暗い気持ちになりながら、スマホを再び、カバンの中に入れ直す。
暑い……。首周りにじっとりとにじんだ汗の不快感に、ブラウスの襟をパタパタとさせた。
もう七月だ。無理もない。
私が家に閉じこもっている間に、外の世界は少しずつ夏の色を見せ始めていた。どうせ学校じゃ、今頃はみんなそれぞれ仲のいいグループができていることだろう。今さら教室に居場所はない。勉強しかろくに取り柄がなかったくせして、第一志望の高校には落ちた私なんかに。
もういっそのこと、電車に轢かれて死ねたら楽なのに……。
なんて自暴自棄な考えが、一時、脳裏をよぎる。でも、やっぱり死ぬのは怖い。なのに、死にたいくらい辛い。なんだか矛盾してる。
私は一体、いつになったらこの呪縛のような苦しみから解放されるのだろう。ひょっとして、一生このまま?
焦りと不安が募る。一度、沼にはまってしまうと、そこから抜け出せなくなるのだ。
「家、帰りたくない……」
はたして、ただのダメ人間と化した娘を、親は許してくれるだろうか。お母さんはともかく、お父さんは絶対によく思わないだろう。
そんなお先真っ暗な自分の将来に悲観的になっていた、その時だった。
「だったらさ、俺と一緒にどっか逃げちゃわない?」
放課後、一緒に遊びに行かない? くらいの軽い調子で投げかけられた問いに、私は驚いて顔を上げる。いったい、いつからいたのだろう。そこには一人の、背の高い男の人が立っていた。
「ど、どちら様ですか?」
「俺は通りすがりの、ごく平凡な男子高校生だよ」
「こ、高校生?」
その割に彼は、ずいぶんと大人びた容姿をしている上、制服も着ていない。色白ですっとした顔立ちに、特徴的なシルバーアッシュのウルフカット。たとえるならそう、まるで水辺の月を連想させるような、どこかミステリアスな雰囲気を身にまとう青年。
戸惑う私をよそに、彼はもう何歩か、距離を詰めてきた。反射的にびくっと身震いする。私は膝の上にあったカバンを、自分のほうへ抱きよせた。万が一、相手になにかされた時、すぐに反撃できるように。
「あー、そんなに怖がらないで。誘拐したりしないから」
私が警戒しているのがわかったのか、彼は少し焦ったように片方の手を横に振りながら、眉を八の字に下げる。
「じゃあ……ナンパですか?」
「違う違う!」
最近はこういう新手のやり口もあるのかと思った。けれど、彼のこの本気の否定っぷりを見る限りその可能性はなさそう。
「君がずっと線路のほう見ながら、ぼんやりしてたから」
「……」
どくんと心臓がのけぞる。見られてたのか。
「なにか悩み事?」
「……別に。そもそも、あなたには関係ないです」
ぼそりと吐き捨てるように言って、私はそっぽを向いてしまう。第一、知り合いでもないのに、出会って早々、その質問はなんだ。
そっかという彼の短いつぶやきが耳をかすめる。向こうも諦めてくれたのだろうか。
「これ、あげる」
「コ、ココア?」
突然、彼は缶のココアを差し出してきた。どうやら、もう一方の手の後ろに隠し持っていたらしい。
「切符売り場のとこの自販機で、一本余分に当たったんだ。ちゃんとアイスにしといたよ?」
そういう問題じゃないでしょと、思わず、ツッコミたくなる。なんとなく流れで受け取ってしまったけれど、夏にココアってどうなの。
ますます困惑する私の心境とは裏腹に、彼は見ていてすがすがしいほどの笑みを浮かべている。改めてよく見てみると、色素の薄い瞳がどことなく優しげで、なかなかの美少年だとは思う。
すぐ近くで踏み切りの音が鳴り出した。
ガタンゴトンという轟音を軋ませながら、快速列車が近付いてくる。猛スピードで私達の横を通りすぎるその瞬間、激しい突風が巻き起こった。
わぁっ!
目を塞ぐ直前、線路のほうを振り返った彼の銀髪が、ふわりとなびく。夏の太陽を反射して、キラキラときらめいたシルバーが、なんだかとてもまぶしかった。

