流れ星みたいな恋だった

「どうぞ、入って入って! 狭い家でごめんね」
「お、おじゃまします……」

 彼が住んでいたのは、路地の一角にあるアパートだった。中は、キッチンと居室が一緒になっているタイプのワンルームで、だいぶさっぱりとしていた。

 彼に促されるまま、床に敷かれたふわふわの白のじゅうたんに鎮座する。落ち着かない。まるで蟻が体中を這っているみたいだ。

「そんなに緊張しなくても、もっとリラックスしてよ」

 あっちこっち視線を泳がせている私に気付いた彼が、苦笑する。すると、彼は棚からココアの粉を取り出して、ポットでお湯を沸かすと、ココアをいれてくれた。

「はい、どうぞ」
「ど、どうも」
 
 どれだけ好きなんだというツッコミはさておき。

 ふぅふぅと軽く息を吹きかけて、ちょっと冷ましてからカップに口をつける。優しい甘さが身に染みて、冷えた体がぽかぽかと温まってきた。

 やっぱり、ココアはホットのほうがいい。

「あ、あのっ」
「ん?」
「さっきは助かりました、本当に」

 もしあの時、彼がいなければ、私は今頃、どうなっていたことか……想像もしたくない。

「当然のことをしたまでだよ」

 彼は得意げな笑みを浮かべた。それはどこか幼い少年みたいな笑顔だった。



「シャワー浴びてきてもいい?」
「……私に聞かなくても。あなたの家なんですから、好きにしてください」
「それもそっか」

 彼は浴室らしきドアの前に向かう。すると、途中で、なにを思い立ったのか私のほうを振り返った。

「君も入る?」
「ゲホッ!」

 思ってもみなかった質問が飛んできて、ココアが変なところに入った。

「だ、大丈夫!?」
「だ、大丈夫ですっ、ケホケホッ!」

 激しくむせ返る私に、彼は慌てふためく。その様子を見るに、きっとそんなつもりはみじんもなかったのだろう。

 ただ今の言い方は、ある意味、誤解を招く……。それとも単に私が不純なだけ?

 流石に人様の家のシャワーを借りれるほど、私は図太い神経を持ち合わせていない。ましてや、相手は異性だし。たとえ、彼がどんなにいい人であろうと、私の理性が許さない。だから、ここは丁重にお断りしておくのがきっと正しい。



 彼がシャワーが浴びている間、そういえば、パーカーを借りっぱなしだったことに今さら思い至った。

 いや、別に着心地がよかったとか、そういうんじゃない……決して。

 ひとまずパーカーを脱いで、綺麗にたたんでおいた。



「ふぅー、さっぱりした」

 その内、雨の音がやんで、Tシャツ姿に、首にタオルを巻いた彼が浴室から出てくる。水気を含んだ銀髪がちょっとくしゃっとしてて、なんだか余計に背徳感が募った。

 ひとつひとつのなんてことはない所作でさえ、不思議と目で追ってしまう。

「ところで、君は家出少女なの?」

 窓際に立って、頬杖をついた彼に聞かれる。

「まぁ……そんなところです」
「ほうほう、なんか青春って感じだねー」

 いや、どこが。ずっと思ってたことだけど、この人、ちょっと色々とずれてない?

「青春の字のひとかけらだって、かすってないですよ。そもそも私、学校行ってませんし」

 そりゃ私だって、本当はみんなみたいな普通の高校生活を送りたかった。なのに、なんだ、このありさまは。受験には落ち、意味もなく家にこもるようなり、当たり前だけれど親には見損なわれてしまった。

 唯一の生きがいはといえば、柄にもない恋愛小説を読むことだけ。リアルな恋愛なんて、一度たりともしたことがないのに。

 これのどこが青春だ。しょせん、私の人生なんか、始めから決められていた負け試合のようなものじゃないか。
  
 ほんっと、バカみたい。なにもかも犠牲にして勉強した、私の時間を返してよっ。

 こんなこと今さら、悔やんだところで、どうしようもないってわかってる。それでも、もう一度、やり直せるものなら全部、最初からやり直したい。

 つい高ぶってしまった感情を落ち着かせようと、私はすでに冷めてしまったココアを流しこんだ。

 ずっと黙りこくっている彼の存在に気づく。困らせてしまっただろうか。なにか訂正の言葉を考えなければ。

 しかし、私の予想に反して彼の声は明るかった。

「じゃあさ、今から俺と一緒に青春しようよ」
「は、はい?」
「”今日、一晩、俺の彼女になってよ”」

 私の前にかがんだ彼の口元が、かすかに微笑む。一瞬、彼の放った言葉の意味が、頭に入ってこなかった。

「……変態」
「ちょっ! そういう卑しい意味じゃないよ!?」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
「それはまぁ、俺の恋人になってほしいって意味だけど……って、お願いだから、そんな死んだものを見るような目で俺を見ないで!」

 幻滅した私に、彼は焦ったように両手を合わせ懇願してくる。表情を見るに、かなり切実だった。

「無理です」
「ガーン!」

 あっけなく私にふられた彼は、少々、大げさな動きで、左右によろめいた後、パタンと横向きに倒れた。

 なにやってんだ、この人。見かけによらず言動が幼稚な彼に、ちょっとあきれた。

 いきなりそんな無茶苦茶な要求されても、わけがわかりませんと、私は正直に伝えた。すると、彼はんーと少しうなりながら私の前に座り直し、突然、こんなことを言った。

「実は俺、昔、付き合ってた彼女がいたんだ」
「あ、はい、そうですか」
「めちゃくちゃ空返事! もうちょっと驚いてくれてもよくない?」
「そうは言われましても……」

 ぶっちゃけた話、彼のそのルックスなら過去に恋人の一人や二人いたところで、別にどうとも思わない。まぁ、ちょっと変人っぽいのが玉に瑕だけれど。

「そ、そんなことより、どんな人だったんですか? あなたの元カノさんとやらは」
「とってもいい子だったよ、君に似て素直で可愛いくて。だから、君といると思い出すんだ、その子のこと」

 自分から話題を振っておいて、反応に困った。彼はなんともないことのようにさらっと言ってのけたけど、ひょっとして触れちゃいけなかった?

「私は別に、全然、素直じゃないし……それに、可愛いくもないです」
「そんなことないよ! 君はすっごく素敵な女の子だ」

 全力で否定した彼は、カップを握っていた私の両手首の辺りをがしっと掴む。急に凛々しくなった瞳に真正面から見つめられて、私は思わず、ちょっとたじろいだ。

「わ、私はっ、あなたの元カノさんじゃありません」
「うん、知ってるよ」

 自信がなくて、彼の目を見ていられなくて、私は手元のカップに視線を落とした。

 激しく気持ちが揺らぐ。そりゃ確かに、彼には一度、助けてもらった恩がある。けれど、それ以上に彼女なんて大役、私に務まるわけがない。

「ずっと寂しかったんだ」

 すると、彼は手の力を緩めて、小さな声でつぶやくように言った。綺麗なのに、どこか儚いそんな横顔。見ているこっちが吸い寄せられるような、まるでガラス玉みたいな瞳がちょっと曇ってる。

 ある時、ふっと自分が誰にも愛されていないように感じた時のことを思い出した。今思えば、それからだ。私が小説の世界にのめりこむようになったのは。

 たとえ現実逃避だろうと、物語の中でなら、私も愛をもらえたような気がした。そして、それはきっと寂しさの埋め合わせでもあったんだろう。

 お互いどこか、通じる部分があるのかな、私達。

 だからか、初対面なのに彼と話すのはそんなに苦しい感じがしない。まるで、以前にも話したことがあるみたいな。そんなわけあるはずもないのに、なんとなくそんなふうに思ってしまった。

「あー、もう! わかりましたよ!」
「えっ、マジ!? 本当にいいの!?」

 わずかものの一瞬にして、彼はキランと目を輝かせた。恐るべし切り替えの早さ。

「ただし! エッチなことはしませんからね!」
「心外だなー、俺のことそんなふうに思ってるの? 言われなくても、君が嫌がるようなことは絶対にしないよ」

 彼のことは、なんだかんだ信用してないわけじゃない。だからって、こうもたやすく彼のお願いを聞き入れてしまった私自身もどうかとは思う。

一人、喜んでいる彼をよそに私は肩をすくめた。

 まさか、こんな予期せぬ形で人生初の恋人ができるなんて。きっと今朝の私は夢にも思っていなかっただろう。

 なんとかするしかない、よね。

 まぁ、今夜だけだし。いざとなったら、私には恋愛小説というマニュアルが頭の中にある。本当に役に立つかどうかは保証できないけれど。

「それで、付き合ったところで、あなたはなにをしたいんですか?」
「んー、とりあえずお腹空いたし、コンビニ行こうかなって。君、なにか欲しい物ある? 一緒に買ってくるよ」

 欲しい物……。

「じゃあ、湿布お願いしてもいいですか?」
「湿布?」
「はい、実はちょっと足ひねちゃってて」
「えっ、それなんでもっと早く言わなかったの!?」
「それはその、言うタイミングがなかったといいますか……って、ちょっ! なにするんですかっ!?」

 鬼気迫る勢いの彼に、私はいきなり抱きかかえられた。見かけによらず、力持ち……。

 しかもこれって、お姫様抱っこというやつではっ!?

「お、おろしてください!」
「ダメ! けが人は安静にしてなきゃ!」
「たかが足ひねったくらいで大げさですよ!?」

 抵抗虚しく、私は彼によってベットの上に横たえられた。すると、彼は目にも止まらぬ迅速で、冷凍庫から氷を取り出すと、私の右足の上に置く。冷たい。

「君はそこでじっとしてて! 一分で戻るから!」

 いくらなんでも一分は無理でしょ。そう私がツッコミを入れる間もなく、バタンとドアが閉められる。

「は、はぁ……」

 あっけにとられた私は、ため息をついた。安静にしていろと釘を刺されてしまった以上、ここで大人しく待っているしかない。