憂いの月


「──さあさあ、芳生殿」

「これは右大臣殿。いやぁ、私は既に頂きんしたよ、ですので...」


何杯目の酒だろうか。

......酔っている。

...いや、酔わされているのか?


「芳生殿、こちらは安達の姫君であられるか?」

「ええ、観子に存ずる。母親によく似た良いおなごです」


いつもより豪快に笑う芳生が強く肩を叩いて、いよいよまずい。


「先ほどの琴の音も、観子でね」

「そうでしたか。いやはや、良い手を持つ美しい娘ですなぁ」


ご、御冗談を...!

耐えきれず、芳生の徳利に注がれる酒を遮る。

気まずさから少し笑みを向けてから髭男の手から銚子を取った。

今度は髭男の器に少し注いでやる。


「右大臣殿もおわかりか...光栄なこと。観子は我らの誇りよ」


ほぅ...っと酒臭いため息をついた右大臣に、芳生は得意げに微笑んだ。

...酔い過ぎである。


「......父上、そろそろ」

「んん...」


居た堪れなさから叩き起こさず我慢したことは褒められても良い筈。


「きっと母上が待ちくたびれていますよ」


これを言えばというとっておきの一押し。


「あぁ、季ちゃんはもう...寝ているかもしれないね」


肩を支えてやっても覚束ない足取りだ。


退室しようとしたとき。

着物の先を引っ張られた気がした。


振り返り、山吹色の裳の先を(つま)む手を辿ると、...それはそれは美しい姫君であった。



気分が良くなっている芳生は、何を察したか「私は先に一人で戻れるさ」とふらふら去っていった。




どこの姫君であろうか。

安達とは違い御簾の裏にいらっしゃるからとても高貴なお家のご息女ではないか。


正座で名乗る。

この位の常識なら、心得ている。


「お初にお目にかかります。安達観子に存じます」

「顔をお上げになって」

「姫君...、私をお引き止めになったのは...何故(なにゆえ)にございましょう」


内裏で見知らぬ者と話したのは初めてであり、見れば見るほど美しい容貌である。

緊張してどこに視線を遣れば良いのやら。


清菊(きよぎく)と呼んでちょうだい」


「......清菊...様、」


「お顔をよくお見せ...ん、宜しい。──(あした)、東にある木白(きしろ)へ来なさい」


顔を覗き込まれ、そう呟くと...すぐに「下がれ」とぱっと手を離された。


命を受け、身は勝手に立ち上がり足早に退室し、迷路のような内裏も何故か迷いなく進む。


何が起こったか未だ釈然とせず。


知れず脈が早まる。


宴とは...恐ろしいものだ。

何が起こるか判らぬ。


東の木白家──(まが)いもなく、かの左大臣のお家元であった。