小児科の入院病棟の男子トイレには、ぼくと薺以外、誰もいなかった。天井の電気が、チカチカとバチバチと、嫌な音を立てながらめいめつしている。
「友達はいつ来るの?」
「もうすぐだよ」
薺は、じっと鏡を見ている。ぼくは扉の方を見た。どんな子が入ってくるのだろうかと気になっていた。そのとき、バチンと音がして、電気が消えてしまった。あわてて薺に視線を戻し、ぼくは目を見開いた。鏡の表面がグルグルと歪んでいく。そこから手袋を嵌めた白い手が出てきた。続いて頭、首、胴体。テーマパークで見たピエロを、ぼく達と同じくらい小さくしたサイズのピエロが、上半身を鏡から突き出してきた。
「薺!」
ぼくはあわてて薺の右手を掴む。そうしながらチラリと視界に入ったうで時計を見えば、16:44:44だった。四時四十四分、今日は――土曜日だ。背筋があわだつ。ぼくが薺の腕を引っ張ったときには、薺の左手をピエロが握っていた。
「なんで」
ここは図書室ではない。だが、そうだ、人潟くんが言っていた。図書室ピエロは、鏡の中なら移動できるのだと。
「薺を離せ!」
ぼくがそう叫んだ時には、宙に浮いた薺の両脚を持ち直し、ニタニタ笑いながら、ピエロが鏡の中に体を戻し始めていた。
「あ」
ズズっとぼくのスニーカーが引きずられて前に出る。
「薺!」
「お兄ちゃん! 瑛にいちゃん! これ、なにこれ!」
「図書室ピエロだ! 絶対にぼくの手を離しちゃダメだ!」
ぼくはそう述べつつ、水間さんのことを思い出した。ひきずられるようにして、ぼくの体もどんどん鏡に向かっていく。水間さんも、きっと今のぼくと同じ恐怖を味わったのだろう。今なら分かる。水間さんは自分自身をおくびょうだと言っていたけれど、逃げたくなる気持ちが、誰よりも分かる。このままでは、ぼくまで鏡に吸い込まれる。
ぼくはギュッと目を閉じる。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!! 助けて!」
薺の声が遠くなっていく。
怖い。怖くてたまらない。
――だけど。
ぼくは意を決して目を開けた。ぼくは、〝子供〟じゃない。絶対に、〝子供〟のままでとまったりしない。薺を見捨てたりしない。それは、水間さんの苦しみを見ていたからこそ分かることだ。ぼくは、ここで決断を間違ったりしない。
「いやぁああああ」
薺の頭までが鏡に飲み込まれた。そして、薺の腕を掴むぼくの右腕もまた、鏡の中に入り始める。必死でぼくは引っ張ろうとしていたのを――力を抜いた。けれどそれは、手を離すためじゃない。
「ぼくも会いに行ってやる!」
そのままぼくは、薺とともに鏡の中に飲み込まれた。

