――このようにして春休みが流れていき、ついに映画が公開される季節が訪れた。
 初めての映画の舞台挨拶に、茜はド緊張していた。

 控室で、思わずほうじ茶を無駄に沢山飲んでしまった。トイレに行きたくなったら困るというのに……。兎に角喉が乾く。緊張が酷すぎる。そうは思いつつも、茜は深呼吸をして、必死に挨拶に備えた。そして、舞台裏で、他のキャスト達と合流した。

 桐生は茜と目が合うと、口角を持ち上げた。

「おはよ」

 いつも通りにしか見えない。やはりこういう時は、場慣れしていると感じる。しかしその相手と共に、茜はきちんと主演を務めた自信がある。自負がある。だから、桐生が隣にいるんだから、大丈夫だと思う。負けてやるつもりも茜にはない。

「うん、おはよう」

 茜は敬語をやめて、自信たっぷりに笑った。映画のキャラの方向に振り切った。より、茜の自然体に近い方に。すると虚を突かれたような顔をしてから、楽しそうな眼をして、桐生が頷いた。

 こうして、舞台挨拶が始まった。

 結論から言うと、これは成功した。そして、もっと言うと――その後公開された茜達の主演映画は、大ヒットした。嬉しくて泣いた。

 ……ただ、ちょっと予想外の出来事があった。

 この映画の脚本家である黒苺先生も驚いたそうなのだが、本来このお話は、ホラーとして描かれたのだという。確かにW主演とは銘打っているが、あくまで茜の役の捜査官は、キャラが薄かったはずらしい。だというのに、蓋を開けてみたら、吸血鬼と特殊捜査官の恋愛ものとして大ヒットしてしまったのである。元々の要素は妹と吸血鬼に恋愛要素があったはずなのに、今ではその部分にはほぼ触れられていない。

 以後、茜と桐生は何かとセットで各地の番組に呼ばれた。ちょっとしたブームが到来してしまった。茜単独の役も爆増したし、それが主役級のものもかなりの数になったが、今もなお、セットでの出演依頼が後を絶たない。MCを務める心霊番組なんて、本当にゴールデンタイムに進出してしまった。これは誤算過ぎた。


「すごいね、茜!」

 この日、リビングで牛乳を飲んでいると、奏が入ってくるなりそう言った。

「なにが?」
「二億円の女になったんでしょ!?」
「……まぁね。上には上がいるけどね」
「邦画の実写でこれは凄いんじゃないの? よく分からないけど」
「……ま、まぁ、私の実力ね」
「うん。僕も今日、佐々木さんと三回目を見てきたんだけど、良かったよ!」
「えっ、さ、三回? いまだかつてあなたが私の出演しているものを真面目に見た事があったか? それも、繰り返し?」
「これは別だよ。本当すごいと思う、僕とほぼ同じ顔なのに、完全に別人にしか見えないし。さすがは茜だって思った。やっぱり、女優さんって違うんだね。違いは性別と服装の好み服装だけじゃなかった!」

 茜はその言葉に涙ぐんだ。気づかれたくなくて、天井を向いて誤魔化す。弟に初めて認められた気分だった。いつも馬鹿にされていると思っていたから、女優と言われて死ぬほど嬉しい。

「そういえば、引越しは来週だっけ?」

 茜は慌てて涙を乾かしてから、奏を見て頷いた。

 実は三月から五月の頭までは、兎に角映画の関連で忙しかったのだが、再来年までの仕事が無事に決まって、収入が確定した事もあり、茜はなんとか自分の家賃で生活できそうだと目途がたったので――ついに、一人暮らしを決意したのである。

「うん」

 家賃は少々高いのだが……たまたま、本当に偶然、桐生のマンションの、隣の部屋が空いていると聞いて、茜は、そこに引っ越す事にした。桐生は同棲しないかなんて馬鹿な事を言ってきたが、茜は、己の稼ぎで一人暮らしをすると昔から決めていたので断った。まぁ、合鍵は貰ったままであるし、既に茜が貰っている自分の家の鍵も、一つ桐生に渡しているから、実質行き来は自由なのだが。

「寂しいけど、桐生さんと一緒なら、大丈夫そう」
「――私は、一人でもやっていける」
「そんなこと言って――」
「ただ……桐生がそばにいると、もっと頑張れるというだけなの。それだけだ」

 茜が断言すると、奏が吐息に笑みをのせた。

「昔は、そのポジション、僕だったのになぁ。たまには恋人だけじゃなく、弟も顧みてよ?」
「わ、分かってる。そっくりそのままあなたに返すからね」
「そうだ、聞いてよ。今日ね、佐々木くんに聞いたんだけどさ、ローラさんって覚えてる?」
「ええ、慎夜さんの恋人でしょう? それが?」
「映画の脚本を書いた黒苺先生って、ローラさんの筆名なんだって」
「えっ!? 人前に出ない事で有名な、あ、あの黒苺先生が!?」

 そのようにして、この夜も更けていった。


 ――翌週、茜は新居に引っ越した。あとは、荷物を整理するだけだと考えていた時、インターフォンの音がした。扉に向かうと、桐生が顔を出した。そして中に入ってすぐに、茜の事を両腕で抱きしめた。

「引越し蕎麦、一緒に食おうな?」
「そうだね」
「これから、新生活の開始か。気持ちはどうだ?」
「ずっと実家だったから、一人暮らしは、その――なんというか、気配と音が無いのが逆に気になる」
「それが落ちつくようにもなる。いいや、ならないか」
「え?」
「毎日俺が会いに来るからな。あるいは、茜が俺のところにくる。ま、そう言う意味では、新しい毎日の始まりなのは間違いないけど、俺は茜を一人にしない。ずっと、俺達は一緒だろ?」

 桐生はそう言うと、茜の唇を掠め取るように奪った。その感触に、茜は思わず破顔する。

 このようにして……人生とは、何があるか、本当に分からないものであるが、茜は無事に、女優として独り立ちできる事になった。前後して、かけがえのない恋人を得た。

「ねぇ、桐生」
「なんだ?」
「ありがとうね」

 茜は、桐生の背中に、おずおずと腕をまわし返してみる。するとより強く抱きしめられた。

「俺こそお礼が言いたい。茜がいてくれるから、俺は毎日頑張れる」
「それは、私もだよ」
「じゃ、一緒だな。これからも、ずっと一緒にいればいいって事でもある」

 そのまま暫くの間、二人は抱き合っていた。
 なお、今でも茜は考える。

(――私は、オカルトを売りにしたいわけじゃないのに!)

 と。

 だが、例外もある。

 桐生という、人を愛して喰らう、そんな存在に出会える場合だけは、オカルトも悪くはないんじゃないかと。恋のきっかけなんて、実に様々だから、そこにオカルトが加わっても構わないと、最近の茜は考えるようになった。

「茜、愛してる」
「私も、桐生が好きだよ」

 その後茜達は、再び唇を重ねた。茜は静かに瞼を閉じながら、この幸せが永遠に続きますようにと、一人静かに祈ったのだった。そして、己を愛して喰らう桐生は、茜の願いを裏切らない。二人が、交際宣言をするまで、もう少しのことだった。



 ―― 了 ――