ロケには、ワゴン車で向かう事になっていた。これは、今後の宣伝で、撮影の合間の秘話などで映像を使うかららしい。茜と桐生は同じ車だ。カメラマンも同じだ。なお、撮影自体は、今回がラストシーンの撮影もあって、これで終わりとなる。

 車内は暖房が温かい。一番後ろの席に茜と桐生は並んで座っている。今回は、ひとつ前の席に、宣伝用映像を撮影するカメラマンの渚と、桐生のマネージャーの高畑、助手席に酒本が座っている。運転しているのは、別のスタッフだ。

「これでラストか」

 メンズストールの首元に触れながら、桐生が呟いた。隣で茜は細く長く吐息する。最後まで気は抜けないし、クライマックスの撮影であるから緊張もある。

「頑張ろうな、茜」
「はい」

 真正面には茜の本性を知らない二名がいるため、茜は天使のような笑顔を取り繕った。すると桐生が小さく吹き出した。

 撮影が行われる唯丘市のスキー場は、今は使われていないらしい。イベントや撮影などで整備される以外は、常時は営業されていないそうだ。パンフレットと台本を膝の上にのせていた茜を、その時、桐生が不意に抱き寄せた。

「っ」
「終わったら私の家に遊びに来るんだもんな?」
「離……――ご厚意感謝します」

 カメラがまわっている。思いっきり突き飛ばしかけたが、茜はこらえた。
 同時に、動悸が酷くなってきて困った。

 ひきつった笑顔で、茜は桐生を見てから、なんとか桐生側に傾いてしまっていた体勢を立て直す。

「俺達プライベートでも仲良しだもんな?」
「そのアピール、撮ってもらってどうするつもりですか……?」
「えー?」

 桐生はいつも通りだ。いつも通りすぎて、茜は変な噂が立つ事に恐怖する。しかし渚は楽しそうにカメラをまわしているし、首だけで振り返っている高畑は黒縁眼鏡の位置を直しているだけで、不審そうな様子はない。そこにちょっとホッとした。

「否定されなくて嬉しいな」

(カメラがまわっていなかったら、全力で拒否する! ただ撮られているのだから、私のイメージが壊れる……!)

「桐生さん」
「いつもの通り呼び捨てで――」
「あのね!」

 ついにこらきれずに茜は天使の上辺を崩した。そして桐生の手を振り払ってから、口元だけは笑顔を形作ったが、思わず睨んでしまった。

「私達のプライベートなんて誰も興味が無いと思うんですが!」

 それから茜は、渚を見た。偶発的にカメラ目線になってしまった。

「そんな事ないですよぉ、桐生君の前でちょっと幼くなるAKANEちゃんとか、AKANEちゃんの前だといつもより子供っぽくなる桐生君とか貴重で、ファンは大喜びすると思いますよ! 二人とも、どちらかというと大人っぽいし、年相応に見えるというか」

 つまりどちらにしろ、二人の絡みは子供っぽいという事ではないかと、茜は思った。

(子供っぽい天使ってどうなの? 本当に需要があるの?)

 そんなやりとりをしながら、茜達はロケ地そばのホテルに到着した。
 今回の部屋は、桐生とは別々だ。普通はそうだろう。

 映画内では決戦の地で和解するが、最初は茜が雪原で桐生を追い詰める場面であるし、他に茜の危機の場面などもある。配られたロケ弁を手に、あてがわれたホテルの部屋に入った茜は、既に全て頭に入っているが、改めて台本を見た。

 茜単独の場面においても、台本から逸れてもいいのだろうか――という疑問が当初はあったが、他の場面の流れを考える限り、逸れるしか無い。なお、一番最後に桐生と撮る場面は、吸血シーンだ。桐生は茜の手首を噛む予定だ。吸血鬼は首から吸うイメージだし、他の事件では首に噛み傷があるが、実際にはどこからでも吸う事が可能な設定らしい。日光に弱いなどのオーソドックスな弱点も、今回は出てこない。

「頑張らないと!」

 茜は一人気合いを入れなおして、ロケ弁を食べた。到着が遅かったから本日の食事の用意はないとの事だったので、明日の朝からは普通にホテルのレストランで食べるらしい。

(……集中しよう)

 そう思うのに、茜は厚焼き玉子を見ながら、何故なのか桐生について考えてしまった。桐生がいない状況で、食らいつくような演技は無理だ。桐生がいたから、その桐生に茜は食らいついていたわけであり、今回求められるのは、茜の個性だ。

 絶対に負けるわけにはいかない。

 これは変わらない決意なのだが、何故なのか過ぎる桐生の笑顔は優しい。明日は敵対している心境の部分も撮影するのに、切り分けられない。憎き桐生、憎き桐生、と、茜は必死で念じるはめになった。

「あいつが優しいのが悪い!」

 ぶつぶつ呟いた後、茜は早めにシャワーを浴びて、眠る事にした。


 翌朝。

 指定された時間にレストランへと向かうと、酒本の姿があった。
 茜の撮影が多いため、茜は他のキャストよりも少し早い時間に食事だ。

 桐生の姿は無い。朝から見なくて気分が良いはずなのに、なんとなく寂しく感じてしまう。

(って、どうしちゃったの私は!)

 目玉焼きとカリカリのベーコン、レタスと卵のサラダを食べつつ、茜は雑念を振り払う事に必死になった。そうしていたら、酒本が微笑した。

「緊張? 大丈夫?」
「大丈夫です」
「ええ。AKANEならやれるわ! いける! 信じてるからね」

 酒本の声援に、茜は大きく頷いた。
 こうして食後、撮影が始まった。

 黒いコート姿で、茜は必死の形相で雪山を進む。膝まである雪をズボズボ踏んでいき濡れるのも無視して、兎に角『憎き桐生』がいると思しき中腹のロッジを目指して進む場面だ。午後一番で大御所俳優役が到着するので、その前には撮影を終えなければならないと決まっている。

「カット! OK!」

 なんとか一発で撮り終わり、ひとまず茜の肩からは力が抜けた。汗だくになってしまったが、冬の風がすぐに体の熱を冷ましてくれる。セリフもなく、ただの身体動作と表情だけの演技というのは、思いのほか大変だった。その後はロッジで待機し、大御所俳優が到着したところで、新たな撮影に入る。

 上層部にいた、真の犯人役が、茜を毒牙にかけようとする場面だ。

(……上手い)

 そういうしかない。この人物は、普段は良い人物役ばかりしているから、驚きの展開――配役という扱いでもある。なんでも桐生と事務所が同じだそうで、その縁で桐生を買っているから、出演してくれたのだそうだ。茜が幼少時からテレビで見て知っていたレジェンドの姿に、最初は気後れしそうになったが、演技に集中してしまうと『対等』という気分になるから不思議だった。挨拶も何度かしたのだが、この方自体が若手である茜の事も決して見下すような事がないからだと思う。

 芸能界には、様々な役者さんがいるというのを教えてくれた、最新の俳優さんだといえる。

 と、そんな胸中に蓋をして、茜は真犯人を睨みつけた。

 セリフの応酬をし、ついに相手が本性を現し、茜に向かって牙を突き立てようとしたその時――颯爽と、桐生が姿を現し、相手を倒した。ここだけ切り取ったら、戦隊ヒーローものとしても通るのではないかと思える台本の内容だったのだが……そこから始まった二人の演技を見ていたら、ドがつくシリアスホラーにしか見えなくて、茜は震えた。二人とも、上手すぎる。そして茜は普段強気なのに怯えた表情を見せた後、血を飲んでいないせいで一瞬劣勢になった桐生を助けるべく、銀の銃弾が装填された拳銃で発砲する場面に備えた。

 ――ダン。

 そんな音がして、茜の演技とスタッフの指示に合わせて、大御所俳優が倒れた。
 直後桐生扮する吸血鬼が驚いたように茜を見てから、茜の手首を強く握った。
 予定通りである。

(さすがに大御所の前では台本通りで行くのか?)

 と、考えていたら、台本にない事が発生した。
 桐生が茜を強く強く抱きしめたのである。

(え? 台本では手首を握ったまま、ロッジに移動するはずだけど?)

 茜が焦っていると、桐生がじっと茜を見た。そして、不意に茜の耳元で囁くように台詞を続けた。

「お前に何かあったらと思うと、気が気じゃなかった。俺にとって、お前達姉妹との時間は貴重で――それを壊したのは、俺でもある。俺が、その幸せに浸らなければ……」

 台本には、こんな台詞は無い。

「――妹の死は、あなたのせいじゃない。あなたには、幸せに浸る権利が無いとでも言いたそうだけれど、自意識過剰よ」

 茜は必死で、茜の役が言いそうな言葉を捻りだした。

「妹は帰ってこない。でも、それはあなたが幸せになってはならないという事ではないのよ」
「なら、俺はこれからも、お前のそばにいても良いか?」
「……好きにしたら」
「最初から、お前の血の匂いに惹かれていた。きみが欲しい」

 少し掠れた声で続けられて、茜は大混乱した。台本では、妹ロスで血が飲めていなかった設定であり、血の匂いは似ているらしいが、茜の血はそこまで求められていなかった。だが、カットの声がかからない。

「きみが欲しいんだ」

 今度は力強い声で繰り返された。困った。演技上でも困るが、まるでサクラという役ではなく、自分に言われている気持ちになるから困ったのだ。自意識過剰は、己の方だ。が、ここは役になりきっているという事にしようと決意する。己は今、ハルト役の桐生を桐生として見ていて役者失格だろうが、自分に出来るのは、役になりきる事くらいだと考えた。

「それがあなたの救済となるのならば、いくらでも好きにすれば――」

 好きにすればいい、と、言いかけた直後、ガブリと首に噛みつかれた。

(え。手首からのはずだよね!?)

 茜は演技を忘れて、素で目を見開いた。
 容赦なく、桐生は茜の首を噛んでいる。本当に噛んでいる。

(え? えええ?)

 大混乱して、茜は咄嗟に右手を持ち上げた。すると手首を再び掴まれ、同時に――馴染みのある感覚が襲ってきた。僅かだが、気を抜かれているのが分かる。

(今、演技中だけど!?)

「っ」

 痛みはない。だが体から力が抜けかけて、茜は思わず倒れそうになった。すると抱きとめられて、より強く噛まれた。長々と茜の首を噛んだ後、完全に茜の体から力が抜けきる寸前で、桐生が口を離した。

「きみの隣にいる事で、俺は救われる」

 ばっちりとカメラ目線になっているのを茜は、ぼんやりと確認した。

「カット!! 良かったよ!!」

 最後だけ、台本通りの台詞だった。茜はその言葉を聞いた時、思わず桐生の頭をポコンと拳で叩いた。

「なにをするの、離して!」
「お疲れ、茜」
「台本と違いすぎて焦ったじゃない!」
「役に入り込んじゃって」
「あのねぇ!」

 思わず天使の上辺など忘れて茜が睨んでいると、倒れていた大御所が起き上がって、腹を抱えて笑い出した。

「私も良かったと思うよ。AKANEさんのアドリブの台詞にも心を打たれたし、最後の吸血シーンもこちらの方が胸に響く」
「え、あ……ありがとうございます」
「茜、アドリブ上手いですよね?」
「そうだねぇ。桐生くんも上手だが――本当に編集作業は大変だろうが、最高の演技だったと思うよ」

 こうして無事に、クライマックスの撮影は終わった。

 残りはシナリオに微修正が入る事になり、そこに必要となるかもしれない場面を、主に茜と桐生で撮る事になった。対立していた二人の和解場面がもう少し追加されるとの事だった。

(しかし本当にこれで良いのかな?)

 茜には全く分からなかった。