帰宅すると廊下を通り過ぎていたら、バシバシとクッションを叩く音が聞こえてきた。嬉しい時、奏はよくやる。

 扉が開いていたので弟の部屋をちらりと見ると、何やら幸せそうな顔でスマホを見ていた。その平和そうな姿を見たら、まるで昨夜の事が夢だったような心地になる。

 ――だが、桐生がいなかったら危なかったのは、間違いがない。

 酒本からは、『CMのお話はなくなった』という連絡が来ていたが、当然だと思う。事務的な連絡のみで、先に帰った茜を咎める文言は無かった。多分だが、桐生が上手く話してくれたのだろうと推測するのは易かった。

「……」

 自室に戻り、パタンと扉を閉じる。後ろ手で扉に触れながら、茜は俯いた。

 不甲斐ないという思いと同時に――ふつふつと怒りが沸いてきた。枕営業……完全に舐められていたのだと思うと、つい唇を噛んでしまう。しかも茜は不覚にも、何も出来なかった。長々と目を閉じ、茜は頭を振った。

「――いつか、土下座してCMに出てほしいと頼ませてやる」

 そのためにも、実力を磨いていくべきだと考える。もう決して、侮られる事が無いように。

 それから気分を切り替えようと思った。

 目を開け、茜は一人決意し、大きく頷いた。

 机に向かい、茜は早速台本を手にとった。次の撮影は、明後日だ。その翌々日、十二月の第二週から、茜と桐生がW主演をする映画の撮影は、ロケ旅行に変わる。逃げる吸血鬼役の桐生が雪山へと向かうのを、茜演じる刑事サクラが何処までも追いかけていく設定だ。

 十二月の一週間目は、特に桐生に、クリスマスから年末年始のシーズンにかけての特番の収録予定が詰まっているらしい。

「実家が近いって言ってたなぁ。あいつの家は、この辺なのかな」

 何気なくそんな事を考えた。

 ――無意識だった。

 だが、この日から茜は、桐生について考える頻度が、確実に増えていった。気づくと、頭に桐生の顔が浮かんでくるのである。

「……」

 なんでなのよという、そんな心境と、あんな優しさは卑怯すぎるという思いと、ごちゃまぜの感情が茜を苛んだ。桐生は茜にとっては、間違いなく宿敵なのだ。なのに、桐生は茜に優しい。こんなんじゃまるで――……。

「友達みたいだ」

 気づくと茜は呟いていた。いつも茜は、奏以外の前では上辺を作っているため、本当の自分を知っていても嫌わず優しくされた経験というのは、実は少ない。無論、天使の笑顔も紛れもなく自分であるから、偽りというわけではないし、己に友達がいないとは思わないが、桐生が特別になりそうで怖い。敵のはずなのに。

 その後、メッセージアプリで、本格的に、桐生には実家に遊びに来ないかと誘われ、茜は承諾した。連絡先を交換したのは、つい先日のことである。


 さて――三日後。
 茜は、撮影で桐生と顔を合わせた。

「茜、おはよ」

 桐生は、いつも通りだった。車で送ってくれた酒本もそれは同じで、やはり先日の事がただの悪夢だったような気分になる。

「おはようございます、桐生さん」
「今日も頑張ろうな、茜」

 水間の役である『マリア』との場面は、既に撮影を終えているそうで、残っているのは、ほとんどが、茜と桐生のシーンだ。理由は、他のキャスト達も年末年始は撮影やプライベートで忙しいらしく、日程調整が可能だった茜の部分が、後回しにされたからなのだが。

(い、いいや、一応主演の一人だから、撮影数も多いし)

 ……それも理由だと考えたい限りである。

 なお、この日も桐生は、何度も台本を無視した。茜は食らいついた。とにかく食らいついた。絶対に負ける事があってはならない。色々な事があったからこそ、茜はより対等であるべくもっともっと頑張らなければならないはずだと、気合いを入れ直した。

「カット。今日も二人共、凄かったね!」

 最後の場面を撮り終えた時、そう声をかけられた。演技の最中は、雑念を振り払って集中していた茜は、その言葉で、一気に肩から力が抜けた気がした。

「お疲れ」

 なお、本日はこの後、MCを務める心霊特番の、年末年始特別放送の収録が入っている。茜としては多忙な一日だ。歩み寄ってきた桐生が、茜にスポーツドリンクのペットボトルを渡してくれた。受け取り、茜は笑顔を浮かべた。天使のような――と、心がけたわけではなく、よく見てみるとこうした気遣いも優しいなと改めて思ったら、なんだか好意的な気持ちになってしまったのだ。

「ありがとうございます」
「なんで敬語?」
「人目」
「もう良いだろ。スタッフさん達だって、俺達が仲良しだって知ってる」
「――そうだね」

 茜が小さく笑って頷くと、桐生が虚を突かれたような顔をした。

「……茜が認めてくれるとはな」
「え?」
「いや。何でもない。よし! 次の撮影も気合いを入れるか」
「当然」

 その後茜達は、それぞれの車で、スタジオへと移動した。その車内で、茜は酒本と撮影旅行についての簡単な打ち合わせを行う。ほとんどが最終確認だった。

「茜、それが終わったらオフよ。あと少し、頑張りましょうね!」
「はい」
「オフの間は、予定は?」
「その……ロケ地から、桐生……さんの家が近いそうで、遊びに来ないかと言われていて」
「本当に親しくなったのね。ただ――それは良い事だけれど、ハメは外さないでね? 繰り返すけれど」

 酒本はそう言いながら笑っていた。

 その後スタジオいりし、茜と桐生はMCを務めた。今回は、ゲストもいる。映画の番宣も兼ねているので、映画のキャスト陣が多い。様々なロケ映像を見ながら、茜は天使の笑顔、桐生は神妙な顔つきでコメントを述べていった。ほぼ台本通りである。

 無事にその撮影を終え、茜は家の車を呼んで、この日は帰宅した。

 するとリビングで奏が、嬉しそうな顔で雑誌を見ていた。茜は牛乳のパックを冷蔵庫から取り出しながら一瞥する。

「どうかしたの? 顔がとけてるけど」
「え? あ、あの……そ、その……クリスマスが近いなって思って」
「そうだね。もうそっちの学校はお休み?」

 何気なく茜が聞くと、奏が頷いた。

「うん」
「どうせ予定もないんでしょう?」
「あるよ! 恋人と出かけてくる」
「恋人!? 恋が実ったの!?」

 驚愕して茜は注いでいた牛乳のパックを握りつぶしそうになった。すると奏がハッとしたような顔をしてから、真っ赤になった。なお茜には、非常に気になる言葉があった。

「――べ、別に、そ、その、そうだよ!」
「お、おめでとう!」
「え、ええと……どうせ、茜こそ予定ないんでしょう? 今年は一緒にケーキを食べられなくてごめんね」
「失礼な! 私は撮影旅行に行って、そのまま友だ……知人の家でオフを過ごすの!」
「友達? 茜にも業界の友達がやっと出来たの? 事務所の人?」
「別にいいでしょ。それに友達じゃない。ただの知人だし――って、待て。話を変えないで。あなたまさか、恋人って、この前の……」

 奏は嘘が下手だ。茜から見ると、すぐに顔に出る。実際今回も、奏が赤面した。

「どうして分かったの!?」
「全部顔に出てた!」
「僕、茜以外には、あんまり表情変化が無いって言われるんだけど……――その愛してる」
「惚気を促したわけじゃない! 信頼できる相手なの!? 私が確認してあげる、すぐに連れて来なさい!」
「今度紹介するよ……茜には、話そうと思ってたから」
「どんな風に好きなの?」
「なんていうか、ずっと頭に思い浮かんでくるんだよね」

 茜は、複雑な気分になった。それが事実だとするならば、現在己の脳裏には桐生ばっかり浮かんでくるわけだが、これは、その、まさか……――そう気づいて、茜は焦った。驚愕して目を見開いた。嫌な汗が浮かんでくる。

(そんな、絶対違う。私は認めない。自分が桐生に恋をしているなんて、絶対に認めない!)

「茜?」
「あ……え、ええと」
「応援はしてくれない?」
「いや、あなたが幸せで、あなたが選んだ道なら、基本的に応援はする」

 茜は思考を無理やり戻した。反対というか、きちんとした相手かどうかは見極めなければならないと思うが、茜は基本的に奏の幸せを壊したいとは思わない。

「茜なら、そう言ってくれると思ってた」
「……――困ったら、すぐに私に相談してね。変な人だったら、私が怒りに行く」

 そんなやりとりをしてから、茜は奏に手伝ってもらって、撮影旅行の荷物をまとめた。