――こうして、彩時市には冬が訪れた。他の地域よりも、寒くなるのが少しばかり早いのだ。

 現在茜は、案内されたオフィスの応接スペースで、一人座っている。

 スポンサーの秘書がお茶を茜の前においてから、既に二十分ほどは経過しているだろうか。それにしても、このお茶は薄いのに苦いんだけど、どう言う淹れ方をしたんだろうか。なんでも、新しいのど飴のCMらしい。CMの経験がゼロという事はないが、オカルト以外の大きな仕事は、今でもそう多い方では無いため、緊張しないといえば嘘だ。なんでも先方は、茜と二人で話がしたいとの事らしく、酒本は外で待機――しつつ、桐生の方に挨拶に行ったらしい。

 ギシと音がしたのは、その時の事だった。咄嗟に天使のような微笑を顔にはりつけてから、茜は顔を上げて視線を向ける。

 入ってきたのは禿頭の人物で、恰幅が良い。ボタンがはち切れんばかりのシャツとスーツを一瞬ガン見しそうになったものの、それは天使らしくないので、茜は笑顔のまま立ち上がった。

「本日は、ご挨拶する機会を頂戴し、誠に有難うございます。AKANEと申します」

 茜はそう述べ、用意していた名刺を取り出した。すると茜を見て、でっぷりとした唇の両端を持ち上げて、六十代手前くらいの、スポンサーとなる会社の専務だという人物が、大仰に頷いた。

「専務の、門脇だよ。よろしくね、君がAKANEか。本名は?」

 名刺を片手でひょいと受け取った相手には、ビジネスマナーの欠片も見えない。馬鹿にされているというか、見下されているというか、最初からそんな印象だ。しかしそこで怒るようでは、天使の上辺が廃る。とはいえ、いきなり不躾に本名を聞かれるとも茜は思っていなかった。

「本名も茜と言います。スカウトして頂きこの道に入ったため、思いつかなかったんです」

 茜は必死にはにかむように笑ってみせた。なお、これは嘘ではない。モデルから女優になる際は茜が自分でオーディションを受けたが、モデルになったのは本当にスカウトされたからだ。最初からコンテストに出ていた桐生と違って茜は選ばれたのである。なお桐生は、『親戚が勝手に応募してしまって』とインタビューで述べていたが、誰もそんな文言は信じていないはずだ、と、茜は思っている。

「君ほど麗しければ、そうかもしれないねぇ」

 すると門脇が茜を見て、にたりと笑った。おだてられているのだろうが、ねっとりと頭の上からつま先までをも観察されるような視線に、居心地の悪さを感じる。

 茜の正面にどっしりと座った門脇さんは、それからたるんだ両頬を持ち上げた。

「さて、それで?」
「……CMの契約が正式に決まりましたら、精一杯頑張らせて頂きます」

 何が『それで?』なのか分からなくて、一瞬戸惑った。だが、ここで黙っていて仕事を逃すのは得策ではない。

「決まってから、ねぇ。分かっているとは思うがね、それじゃぁ、『遅い』」
「――え?」
「君に決める、つまり決定打が、こちらとしては欲しいのだよ」
「決定打……ですか?」
「まずは、脱いでもらおうか」

 茜は最初、何を言われたのか、全く分からなかった。だから目を丸くして正面を見る。すると相変わらず門脇は笑っていた。

「みんなしている事だよ」
「何をでしょうか?」
「察しが悪いねぇ。いくら若い子とはいえ、こう言ったら聞き覚えくらいはあるんじゃないか、『接待』」
「!」

 その言葉を耳にした瞬間、茜は目を見開いた。そしてテーブルの陰で、思わず拳を握る。茜の事務所は、違法な接待などは絶対にしないようにと契約書に記されている。女優が率先して行うのもダメであるし、無論事務所がやらせるなんていうのもありえない。よって酒本の同意があるとは考え難いし、あの人はそういう事柄の盾にもなってきてくれた信頼出来る人だ。茜は、物理的に引き離されたのだ。

「お断り致します」

 もう笑っている場合ではないので、茜は表情を消して、きっぱりと断言してから立ち上がった。一刻も早くここから去るべきだと考える。

「――最初は、みんなそう言うんだよ」

 最初も何も、永遠に己には違法行為をするなんて未来はない。そんな予定は皆無だ。思わず門脇を睨めつけようと振り返ろうとした――その時の事だった。

「っ」

 視界が二重にぶれた。ぐらりときて、茜はそのまま、先程まで座っていたソファに倒れ込んだ。

「この睡眠導入剤は、即効性があって非常によく効くんだ。ああ、心配しなくていい。君のマネージャーさんには、既にこちらの会談は終えていて、所用で先に『AKANEは帰った』と、伝えておいたからね」

 その言葉を理解した直後、茜の意識は暗転した。


「ん……」

 目眩と鈍い頭痛がすると、最初に思った。それからすぐに茜は手の違和感に気がつき、ぼんやりとしたままの視線を上げる。すると頭上に持ち上げられていて、手首が固定されていた。黒光りのする手枷が茜の両手首にはまっていて、そこからは銀の鎖が上部の滑車へと伸びている。

(なに、ここ?)

 茜は、ゆっくりと瞬きをする。だが、まだ思考に霞がかかっている気がする。

(――そうだ! 私は、門脇とかいうCM会社の専務に、枕営業を迫られて逃げようとしていたんだ……!!)

 そう思い出し、茜は目を見開いた。すると手首の枷がギシリと啼いた。

 同時に茜は真正面に、カメラのレンズがある事に気がついた。青褪めた茜は、己がシャツ以外何も纏っていない事を再確認し、唇を噛む。正面には、何人ものスーツ姿の男がいる。ガチャリと音がしたのはその時で、視線を向けると、門脇が入ってきたところだった。

「やあ、目が覚めたかね?」
「っ、こんな事は、犯罪です。すぐに解放し――」
「威勢がいいな。そんな顔もするんだねぇ」

 嫌な汗が浮かんでくる。冷や汗だ。
 茜の前で屈んでいた背を起こした門脇は、腕時計を一瞥している。

「カメラは、まわしているのだろうな?」
「完璧です」
「そうか」

 門脇は笑っていた。

「――中々我慢強いんだねぇ。すぐに怖がって泣き叫ぶ者が多数だ。何も恥ずかしがる事はないのだよ?」
「っく……」
「次点で多いのは、助けて欲しい相手の名前を叫ぶ者。安心して良い、週刊誌に売ったりはしない。誰かの名前を呼んでもいいのだよ?」

 怯えた思考で、茜はそれを聞いた。こんな姿、絶対に家族には見られたくない。それに酒本達には、迷惑をかけたくない。これは、迂闊だった己のミスだ。

(では、誰に? 誰が私を助けてくれるというの?)

 いつも作り笑いばかりの茜には、本心を吐露できるような友達はいない。

(――……ああ。いいや、そうだ、一人、いる。私が天使の上辺を取り去っても、気にしない人間が)

「……き」

 ――桐生。
 茜は無意識にその名前を呼びかけた。

 けれど。

(――奴は、私のライバルだし……私のこんな姿を見たら、喜ぶ……事は、ないか。私は存外あいつが良い奴だと、既に知ってる)

 本当は、最初から分かっていた。己が一方的にライバル視していただけで、桐生は自分に冷たかった事なんて一度もない。意地悪だった事はあったが。

 脳裏に桐生の笑顔が浮かんで消えない。

 奴もまた、『食事』なんて理由で茜にキスをしたけれど――今のような嫌悪感は無かった。桐生はいつだって、考えてみたら、優しかった。

 どうしてこんな事になってしまったのだろう。
 自分はこれから、どうなるのだろう。

(こんな事なら――桐生にだって、もっとキスの一つや二つ、してやればよかった)

「……やだ、いやだ……う、ぁ……助けて」

 茜はボロボロと涙を流しながら、背中に力を込めた。全身が震えている。体が兎に角熱いのだ。もう、何も考えられない、こんなのは、本当に嫌なのに。たった一言、『助けて』と口にした途端、茜の中で何かが砕け散り、茜の涙腺は崩壊した。

「茜から離れろ!」

 轟音がしたのはその時だった。茜は涙で濡れた瞳を、扉の方へと向けた。するとヒビが入り、グシャグシャに歪んだ扉が見えた。どう考えても鉄で出来ていたように見える重い扉が、交通事故現場の車のように歪んでいる。それは、茜が泣いているため、そう見えるわけではなかった。

 門脇達をはじめとした周囲に動揺が広がっている。

 茜はそれらよりも、扉から入ってきて、こちらへ走ってくる桐生を見て、目を瞠っていた。涙が零れ落ちる。

「茜! 大丈夫か――なんていうのは、愚問だな」

 拳を持ち上げ、ギリリと握った桐生は、顎を小さく持ち上げ、門脇達を睨んでいる。長身だから、無駄に迫力がある、なんて考えたのは、多分茜のなりの現実逃避だ。

「――これはこれは、桐生くん。ここへ、何をしに?」
「は?」
「こちらは『穏便』な『契約』の最中なのだがね?」
「お悪い噂は、かねがね。女子相手の悪辣な手口が最近は収まっていたとして、皆警戒を緩めていたようですが――またこんな悪事を? 門脇専務」
「出て行ってくれたまえ。君には、邪魔をする権利がないだろう、茜の選んだ選択肢の」

 茜は、こんなの望んでいない。そう思ったら、ボロボロと涙が溢れてしまった。桐生はそんな茜を一瞥した。見られたくなくて、茜はギュッと目を閉じる。

 ――ガンと音がしたのは、その時だった。

 思わず目を開けると、桐生が門脇を殴り飛ばしていて、門脇が床に尻餅をついた所だった。茜が見ている前で、周囲の他の人間を、桐生が全て気絶させた。そして最後に、再び門脇に歩み寄ると、拳を持ち上げた。

「な……な、暴力は犯罪だ。私にこんな事をしてただで済むと思っているのかね?」
「逆に問う。どう済まないと言うつもりなんだよ?」
「すぐに警察に――」
「行けばいいだろ。違法な接待を迫ってボコられましたってか?」
「っ」
「証拠映像は自分で撮ってた馬鹿がいるようだけどな」
「しかし過剰防衛で……っ、それに、社会的な死をいくらでも用意してやる。一俳優ごときが私に逆らえると本気で――」

 門脇がそう言いかけた瞬間、問答無用で桐生が、門脇の首元を左手で握り締め、右手の拳で顔を殴った。

「好きにしろ。俺はどうなったって構わない。茜を守れるならば、それでいい」

 茜が過去に見た事の無い冷徹な瞳をしている桐生は、うっすらと唇の両端を持ち上げていた。ゾクっとするような、背筋が凍りつくような表情だ。瞳孔が開いているかのような錯覚に陥る。茜は、思った。このままでは、桐生は、門脇を殺してしまう。

「き……桐生」
「っ、茜」
「大丈夫だから、ぁ……っ、もうやめ」
「……チッ」

 桐生は舌打ちすると、門脇の首筋に手刀を叩き込んだ。そして茜に振り返り、足早に近づいて来ると、まず手の拘束から解放してくれた。同時に首輪も取れる。支えるものがなくなった茜の体がぐらついた時、桐生が茜を抱きとめた。

「茜、すぐに病院に――」

 それを聞いて、茜は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、咄嗟に首を振った。半ば無意識だった。

「それは、やめて……」
「茜?」
「家族にバレ……酒本さんにも、事務所にも……大丈夫だから……」

 茜が大丈夫だと言おうとした瞬間、桐生が茜の首筋に吸い付いた。体から力が抜ける。必死で息をしながら、桐生の腕に倒れこむ。

「――っく、あのな……――分かった。茜の意思は、尊重したい。はっきり言って馬鹿な子が馬鹿な事をまた言い出したと思って、ちょっと呆れ気味だけど、それは分かれ。俺にも限界がある。ただ、今回に限って言うなら、茜は何も悪くない。もうちょっと我慢できるか? 茜、一時的に、俺の気を流し込んで、お前の体の統制権をもらう。決して悪いようにはしない」

 桐生はそう言うと、深々と茜に口づけた。瞬間、茜の思考は焼き切れたように真っ白になり、それからの事は、何も覚えていない。


「ん……っ」

 目を開けた時、茜は見た事のない天井を視界に捉えた。気怠い体で左手を見れば、点滴のチューブが伸びている。

「茜、目が覚めたのか?」

 桐生の声がしたから緩慢に視線を向ければ、そこにはホッとしたように吐息し、微苦笑している桐生の顔があった。茜は桐生の形の良い唇から、何故なのか目が離せない。

「今茜のご家族と酒本さんには、俺が待ち合わせ時刻を間違えていて、今夜は泊りがけで一緒だから心配は無いと伝えてある。だから、露見する事は無い。これでいいだろ?」

 茜は不甲斐ない気持ちになった。

(桐生は何も悪くないのに、間違えたなんて話してくれたのね……)

「それと撮影されていた映像の方は、俺の分家も桐生の現当主も簡単に言えば情報統制も得意だから、全部潰してある。本当に何も心配はいらないからな」

 桐生の声が無性に優しく聞こえる。実際、優しいと茜は思う。声も、中身も。

「桐生……」
「ん? どうした?」
「怖かった」
「ああ、怖かったな。でも、もう大丈夫だ。俺がついてる」
「手を繋いで」

 無意識に考えていた言葉が、ポロポロとこぼれ落ちていく。普段の茜であれば、絶対口からついては出てこないような言葉ばかりだ。頭がぼんやりしていて、桐生を見ると、茜はもう桐生の事以外、何も考えられなくなっていく。

「茜……ほら」

 その時、横になったままの茜の手を、桐生がそっと握った。その温度も感触も、やはり優しい。静かに目を伏せ、茜はその感覚に浸る。すると静かに茜の髪を桐生が撫でた。

「ずっとここにいるよ。だから、もう少し眠れ」

 ――そう聞いたのを最後に、そのまま茜は眠ってしまったようだった。
 桐生の声に従うように、体が深く微睡んだからだ。


「ん……」

 白い陽光が顔を照らしだした時、茜はうっすらと目を開けた。朝特有の眠気はあるが、既に意識は清明で――直後、握られている左手を自覚し、息を呑んだ。茜は慌てて上半身を起こした。

「あ」
「――ん、起きたか。おはよ、茜」
「桐生……」

 両手でギュッと茜の片手を握っている桐生を目にした瞬間、茜は思わず赤面した。謝らなければとそう思うのに、こちらを見た、どこか眠そうな桐生があんまりにも格好良く見えたからだ。

「……色々とごめんなさい」
「茜はなにも悪くない。ただし煩悩を抑えた俺は偉い」

 冗談めかしてそう言われ、茜はなんとか苦笑を浮かべた。様々な感情が浮かんできて、どんな表情をすればいいのか分からなくなる。

「助けてくれて、有難う」
「うん。謝罪よりは、感謝の方が良い。ま、気にするな」
「どうやって私の居場所を見つけたの?」
「俺は茜の気を覚えていたから、それを式神に辿らせたんだ」
「そう……そ、その! 今度、何かお礼を――」

 茜が言いかけると、桐生が茜の手を引いた。

「俺は常日頃から、茜に対しては下心しかないけどな、俺は何かを期待してお前を助けたいと思ったわけじゃない。強いて言うなら、俺自身のためだ。だからお礼なんて不要だよ」

 そのまま腕を引かれ、茜は桐生に抱きしめられた。

「だから本当に、何も心配しなくていい」
「桐生……」

 もう頭がぼんやりしていないから、茜の素直な気持ちは、口から出てこなくなっていた。

(……素直な気持ちってなんだろう)

「まぁ……ただ――真に受けていいなら、一つ頼みたい事はあるけどな」
「なに?」
「今度、クリスマス頃なんだけどな、俺の実家に一緒に来てくれないか?」
「クリスマス? 映画のロケ旅行の予定じゃ――」
「俺の実家の近所で撮影だからな、その後にでも寄ってくれたら嬉しい」
「そのくらいなら」

 本音を言えば、もっと無理難題を押し付けられる可能性を考えていた。今では桐生がそんな悪人では無い事は理解しているが。

「――『そのくらい』か」
「え?」
「お礼はさ、今回の件で、いよいよ茜を手放したくなくなったし、その気は失せたという事は伝えておく。もう何を敵にまわしても構わない。それが、たとえば虹陰寺でもな」
「桐生?」

 つらつらと桐生が述べた声は小さかったし、茜には上手く意味合いが理解出来なかった。何故、茜の実家の名前が出てきたのかもよく分からない。

「茜、俺はお前の事が――」

 コンコンとノックの音がしたのは、その時の事だった。慌てて茜は距離を取ろうとした。すると片側の目だけを細くした桐生が、脱力したように吐息した。

「ま、今伝えるのは卑怯か」

 茜が顔を向けた時、扉が開いた。見れば、白衣姿の――桐生に似た顔をした人物が立っていた。

「ああ、目が覚めたみたいで、良かったです」
「お世話になりました、泰斗さん」

 誰だろうかと考えていると、入ってきた人物が、茜に歩み寄り、点滴器具を一瞥した。

「俺の叔父で、彩時市で研修中のお医者さん。泰斗さん」
「あ、ああ……その、ありがとうございました」

 桐生の紹介に、慌てて茜は天使のような笑顔を咄嗟に顔に貼り付けた。すると泰斗という青年が、微笑した。

「もう大丈夫そうだけど、万が一何か辛くなったら言うようにね」

 その後茜は、桐生にタクシーを拾ってもらい、家へと帰宅したのだった。