「……ん!?」

 気づくと茜は、酒本の車の中にいた。

「あら、茜。目が覚めた?」
「え、ええと、私、あれ?」
「やだ、寝ぼけてるの?」
「いつ車に?」
「? 桐生くんとの打ち合わせから戻ってきたのが十分前くらいで、すぐに車に乗ったじゃない? そうしたらあなた、すぐに寝ちゃったのよ。きっと、今日の気合いの入った撮影で疲れていたのね」
「……」

 茜は青ざめた。途中の記憶が、一部完全に飛んでいる。桐生にキスを自分から迫ったような記憶がおぼろげにあるところ以降、茜は覚えていない。

「もう少し寝ていてもいいのよ? きちんと家まで送り届けるからね」

 茜は引きつった笑みを浮かべながら、とりあえず手を動かしてみた。体は自由になる。しかし混乱は、帰宅するまで収まらなかった。

 帰宅した茜は、高速で自室に戻ると、へたりこんだ。

(……桐生に、また触らせてしまった。口でも……)

 動揺がまず襲ってきて、茜は両手で顔を押さえた。我ながら真っ赤だろうと分かるのは、頬が熱いからだ。続いて、記憶が飛んだ事に青ざめた。

「なんなの、本当……」

 訳が分からない。

「……私で美味いんなら、奏に会わせたらご馳走なのかな? 絶対に会わせられない……」

 茜にはキスに思えたが、桐生からすれば、恐らく食事のはずなのだ。

「……」

 何故なのか、そう考えると、胸がズキリとした。

(私は決して食べ物ではない……から、だよね? うんうん。別に私は、桐生を意識したりしまってなんかいない。ライバルという意味合い以外では)

 そう考えてから、溜息をついた。

(……本当、なんで私が赤くならなければならないというの……)

 鼻までを両掌で覆いながら、茜は一人内心で悶えた。

「寝よう……」

 こういう日は、寝逃げに限る。そう決意し、茜は寝台へと向かった。そして深々と体を預けて、抱き枕を抱いた。ギューギュー抱きしめながら嘆息する。まだ頬が熱い。全部悪いのは桐生である。


 ――次に桐生と顔を合わせる事になったのは、例の心霊番組の撮影での事だった。茜達がMCを務める番組だ。なお、初回の視聴率……そして再生回数……かなり高評価だったらしい……。

「頑張ってね!」

 その報告を酒本から聞いていると、プロデューサーも歩み寄ってきた。

「期待してるぞ!」

 ……期待には応えなければならないだろう……。難点を言うならば、それはただ一つ。桐生がそこにいるという事、ただそれのみである。

「おはよー、茜!」

 桐生はといえば、ごくごくいつも通りである。茜は、天使のような笑みを心がけた。内心は非常に荒れていたが、表情だけは笑顔だ。

「今日もよろしくお願いします」

 茜が社交辞令を述べると、桐生が茜に歩み寄ってきた。そしてすっと屈むと、茜の耳元で囁いた。

「この前、大丈夫だった?」
「!」

 思い出したくもない事を言われて、茜は反射的に思わずカッと頬が熱くなった。思わず桐生を睨んでしまった。天使の笑みが崩れてしまった。

「大丈夫そうだな」
「桐生……さん。あの、今日の収録の後、お時間はありますか?」
「ん? ああ、俺はいつも茜と同じ撮影の後は、暇にしてるよ」
「……ちょっと先日の『打ち合わせ』の事でお話があるんですが」
「お。茜からのお誘い? 大歓迎なんだけど」

 桐生が笑顔になった。

 決してお誘いではない。茜は抗議と口止めをするつもりなのである。しかし人目があるので、頷くにとどめた。

 この日の収録は、ゲストの女優の卵が、廃マンションで撮影をした映像について感想を述べて終わった。

「それで? どこに行く? 俺の家?」
「……この前のお店で」


 茜は表情こそ引きつらせつつも作り笑いを保っていた。

 その後茜達は、今回も酒本に送ってもらった。すると「遅くなる時は、連絡必須!」と、釘を刺された。今日は遅くなる予定は皆無だ。そもそも茜と桐生は親しいわけではないのである。本当に、プライベートでまで一緒にいるなんて願い下げだった。

「それで?」

 本日は生グレープフルーツジュースを注文した桐生が、茜を見た。茜はといえば、今回もウーロン茶だ。茜はグラスを傾けながら、桐生を睨んだ。

「話が二つあるの」
「――俺としては、茜の恋人になっても良いと思ってるし、式神にするのは本意じゃないけど?」
「は?」

 茜の話は、『二度とするな』と『口止め』である。

(こいつは何を言っているの……?)

「あれ、違うの?」
「違う。まず一つ。二度と、そ、その、私に……私から……気を取ったりしないで! 私を食べないで!」
「ほう。もう一つは?」
「――これまでのキスの事とか、そういうの、絶対に誰にも言わないでよ? 私もあなたも芸能人としての活動が危うくなるでしょう?」

 茜が告げると、桐生が腕を組み、呆れたような顔をした。

「意外と平和な悩みだったな」
「へ?」
「恋人というのは兎も角として、てっきり、式神化の話だと思ってた」

 それを聞いて、茜はそういえば前回、おぼろげにそんな話を聞いたなという記憶を掘り返した。だが、あの前後の事は、やっぱり今でも曖昧になってしまっているのだ。

「虹陰寺家で気づかれたんだとばかり」
「? 式神化って、どういう事なの?」
「簡単に言うと、茜が俺の言いなりになっちゃうって事だな」
「えっ」
「正式に契約したら、俺は茜を使役できる」
「私は人間だけど?」
「人間であっても可能なんだよ。俺の家では――陰陽道を主流にしているのは寧ろ分家で、俺の家には秘密があるからな」
「秘密?」
「秘密は言えないから秘密なんだ。茜にも内緒」
「……別に聞かなくていい。そ、それより! とにかく誰にも言わないで!」

 茜が念のため、再度釘を刺すと、桐生が吹き出した。

「二人っきりの秘密の方が特別感があるしな。言わない」
「特別感って……」
「それよりさ、式神についてが問題じゃないなら、そうだな……もう一つの俺が挙げた事柄に関しては?」
「事柄?」
「恋人」
「冗談はやめて。私が桐生と付き合うなんてありえない」

 からかわれているのだと確信して、茜はウーロン茶を呷った。すると桐生が退屈そうな顔をした。

「俺のなにが不満なの? 俺、愛情量には自信があるけど?」
「お断り! 大体、愛ってなに! あなたの場合、ただの食事でしょうが!」

 茜は豆腐サラダを食べながら、桐生を睨んだ。すると桐生が不服そうな顔をした。

「俺にだって好みってもんがある」
「そりゃあ私にもあるわよ」
「茜の中で俺は好みには入らないんだ?」
「範疇外」
「――俺は、最初に見た時から、茜の事好みだったけどな。美味しそうだから惹かれたのは勿論あるけど」
「勝手に言ってて」

 パクパクと食べながら、茜は目を眇めた。桐生はそんな茜を見ると――何故なのか、心なしか、傷ついたような顔をした。

 そんなやりとりをしながら食事を終えて、この日は無事に、茜は虹陰寺家の車で帰宅できた。桐生も、茜を無理には引き止めなかったのだった。